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第十五話 一筋の涙

 響喜の声が、聞こえた気がした。

 その声に、彼女の中で恐怖心が生まれる。

 死への恐れ。

 それが自分の中に生まれたことが、彼女は少しおかしかった。

 自分にとって死は、あんなにも身近にあったのに。

 それが、遠い昔のことになっていたのだと、今さらながらに気がついた。

 己の魔力の中心で、彼女はさらに魔力を、そして生命力を練る。

 そして、自分の心を奮い立たせた。

 これでいいのだ。

 たとえ自分がいなくなっても、彼らの、響喜の命が未来へ繋がるのなら。

 平和な世界で、彼が生きられるなら。

 すでに彼女の中の恐怖は消えていた。

 ああ、そうか。

 わたしは、響喜さまのことが……。

 高まる魔力の中で、彼女は願いを、世界を一つにする言葉を魔法にするべく、口を開く。


「《お願い》」


 それは、ただ「願う」というには必死で、懇願や切望に近かった。

 魔力が千歳の中心に集まり、発光し始める。

 薄く目を開くと、光の向こう側で、愕然とする響喜たちの姿が見えた。

 これが最期だと思うと、涙が頬を伝う。

 けれど、これは哀しみの涙ではない。

 自分が彼のためにできる、最大のこと。

 手を胸の前に組んで、彼女は再び瞳を閉じた。

 きっと、次に目を開けた時には、自分はこの世にいないだろう。

 それでも、未来永劫、争いのない平和な世界で、みんなは、響喜は、生きてゆけるのだ。

 これほど、嬉しいことはない。


「《世界を……》」


 自然と綻ぶ口元を引き締め、言葉を紡ぐ。

 世界よ、その身に刻め。

 これが。


「《……この世界を、争いの無い平和なものに変えて――……!》」


 わたしの最期の言葉。



 彼女が何を口にしたのか響喜の耳にも聞こえなかったが、何かが起こったのは、誰の目にも明らかだった。

 千歳を覆い隠した魔力の光は徐々に輝きを増し、そして、轟音と共に爆発した。

「く……っ」

 迫りくる衝撃に備え、響喜は顔を庇う。だが、それは思ったほど強いものではなかった。

 ただ、その衝撃が身体を通過した瞬間、気持ちの悪さが胸を支配する。

 胸の内側をかき混ぜるような、まさぐるような。そんな感覚に耐えられず、彼は膝を折った。

 振り返れば、舞香や信護も、同じように呻いている。

「とうとう……私の悲願が叶う。新世界の誕生だ……!」

 高らかに宣言する氷堂に、「ふざけるな」と言ってやりたいが、それよりも吐き気がこみ上げてきそうだ。

「くそ……っ」

 地面に拳を打ちつける動作が何の意味を持たないことを知っている。だが、そうする以外に気持ちのやりようがなかった。

 このまま、自分は何もできずに千歳を失ってしまうのか?

 その恐怖と胸の不快感が、たまらなく鬱陶しい。

「響喜……このままじゃ千歳が……っ」

「分かってる!」

 同じことを考えたのだろう信護の言葉に、響喜は八つ当たり気味怒鳴り返した。

 早くどうにかしなければ。

 考えている間にも、千歳の魔法は彼女の魔力を消費しながら、世界を作り変えているはずだ。

 あと一日……それとも、一時間か、一分か。

 魔法が完成する前に止めなければ、千歳は……。

 力の入らない足を叱咤しながら、響喜はフラフラと立ち上がると、千歳の方へと足を進める。

 氷堂の意識が向いていないせいか、喉元に突きつけられていた氷の刃はいつの間にか消えていた。

 彼女を包む光の輝きは眩いが、間近で見てみるとそうでもない。

 響喜はその光に、ほとんど躊躇うこともせずに手を伸ばす。


 ――バチッ


 渇いた音を立てて火花が飛び、彼は思わず手を引いた。

 それは、止めないでくれ、という千歳の意思表示にも思えて、響喜の胸に怒りが侵食し始める。

「こうなったら、俺の魔法で…‥」

 半ば自棄(やけ)になって、響喜は媒介の小銃を握った。本当は短刀が欲しかったが、氷堂に弾かれ、現在行方知れずだった。今はそれを探している時間も惜しい。

 だが、その考えを読んだ舞香が、彼の行動を止めた。

「ムリよ! あたしたちも響喜も、もうほとんど魔力が残ってない! 今のあたしたちには、これを壊すことはできないわ!」

 魔法使いは、己の力量をよく理解している。

 自分にどれだけのことができるのか。

 どこまでなら、自分の魔法が通用するのか。

 己の魔力の残量も、手に取るように分かる。

 今の響喜の魔力は、音弾を数発作るのが精一杯で、それも大した威力のものは作れない。

「けど! 誰かがやらなきゃ千歳が……っ」

 そうだ。

 できるできないを論じている場合ではない。

 自分がやるしかない。

 自分がやらなきゃいけないんだ。

「私がやります」

 そこへ、突如割って入って来た柔らかい声音には、どこか固さが滲んでいた。

「速水先生……」

 そう呟いたのは、響喜か、それとも信護か舞香だったか。

「速水!」

 だが、非難の声を上げたのは氷堂だ。

「貴様…‥何の真似だ」

 静かに怒りを表す氷堂の詰問に、速水は微かに振り返り、悲しげに顔を歪ませた。

「やっぱり私には……誰かの命を犠牲にしてまで平和を望むなんて、できません」

 命が失われる様を目の前にして思い直した速水は駆け出すが、その行く手を氷堂の魔法が阻んだ。

「速水先生!」

 舞香のその呼びかけは、好きな人と戦うことになってしまった速水を案じたためだろう。

 だが、氷堂の猛攻を受ける彼女には返事をする余裕がない。

 響喜たちがここに着いてから、氷堂は何度となく魔法を使っている。しかし、氷堂は魔力の配分が上手いのか、疲労をあまり感じさせない。必要なとき、必要な分だけ、そのとき最大の魔法を、最小の魔力で使う。それが、氷堂の秘訣だ。

 氷堂の拳ほどの大きさの氷の(つぶて)を、速水は水の遠心力を使った盾で弾き飛ばす。同時に水の鞭で攻撃を繰り出すが、速水は氷堂の攻撃を受けるのが精一杯で、その顔にも余裕が見られない。

 しかし、彼女の余裕のなさは疲労によるものではない。

 速水は決して弱くはない。氷堂と速水の間に、魔力や魔法による大きな差もない。氷堂の魔法の使い方が上手いということはあるが、本来なら、魔法を使っていなかった分、速水の方が有利なはずだった。

 だが、氷堂と戦いたくない、という思いがある分、速水が不利な状況だった。

 速水の攻撃の手数が減り、氷堂の氷の勢いが増す。

 そして、その戦いは不意に止まった。

「……っ」

 その場にいた全員が胸を押さえる。

 再び、胸に波が過ったのだ。

 それは、千歳の魔法が進行している証のように思えた。

 いや、思えたのではなく、おそらくその推測は正しいと確信する。

 波紋が広がる。

 世界が変わる。

 響喜はもう一度、千歳を囲む光へ手を伸ばした。

 速水は氷堂との戦いでこちらに来ることはできない。

 そして、それを待っている時間もなかった。

 バチバチ…ッ、と音を立て、手が痺れるのも構わず響喜は手を入れる。

 先ほどは触れただけで分からなかったが、思ったよりも押し返してくる力が強い。

 なんとかそれ以上の力で押し切ろうとしていると、氷堂の攻撃を防ぎ損ねた速水が吹き飛ばされてきた。

「きゃあっ!」

「速水先生!」

 信護と舞香が駆け寄り、彼女の身体を起す。

「守屋くん、五十嵐さん……」

 手加減して拮抗できるほどの相手ではない分、氷堂との戦いにやや疲労が窺える。下手に気を遣っている分だけ、疲労は大きいようだ。

 今の状態では、千歳の魔力を突破するのは難しいのではないだろうか。

 そう心配していると、速水は響喜たちにだけ聞こえる声で話す。

「お願いがあるの。少しの間でいいから、氷堂先生の攻撃を受けてくれないかしら? そうしたら、私はありったけの魔力を注ぎ込んで、言枝さんへの道を開ける」

 そう、提案した。

「分かりました」

「任せて下さい」

 魔力がほとんど残っていない、と言っていたにも拘らず、二人は即答した。

「響喜。千歳を頼んだよ」

 真剣な眼差しで信護が手渡したのは、氷堂に弾き飛ばされたはずの、響喜の短刀だった。いつの間に拾っていたのか、その短刀を受け取って、彼は強く頷く。

「作戦会議は終わったか?」

 顔を上げると、氷堂が不敵に笑っていた。

 氷堂の振り上げた万年筆から次々と氷の礫が形成され、それが速水たちに向かって飛来する。

 それを、信護の魔法が防ぐ。不透明な結界が、速水と響喜、舞香たちを守った。

「く……っ」

 攻撃が重いのか、あまり長くは持てない、と小さな呟きが漏れた。

 何とか信護の負担を減らそうと、降り止まない氷の嵐を舞香の風が叩き落とす。

 だが、二人とも魔力が残っていない。

 早くしなければ。

 そう思っている間に、速水は魔力を練り上げていた。

 宣言通り、ありったけの魔力を注ぎ込んでいるのか、速水の後ろで、水の束が生き物のようにうねっている。

 そして、数本の水の束が一本に収束し、千歳を覆う光へ突進した。

 バチバチバチ…ッ、と激しい音を立てるが、痛覚が刺激されないため、速水の水は構わず突き進んでいく。だが、その原動力として速水の魔力が凄まじい速さで消費されているはずだ。

「させるかっ!」

 響喜と速水の思惑に気づいた氷堂が、こちらに攻撃の矛を向ける。

 信護の結界が、舞香の風が、何とか攻撃を受け止めるが、受け止めきれなかった分が、二人の身体を傷つけた。

 焦る気持ちに応えるように、わずかな歪みと共に、光が揺らぐ。

 その揺らぎに向けて、響喜は短刀を逆手に持ち、刃を立てて、超音波を出した。音波の波動を使って、その揺らぎを広げ、光の壁を貫こうと考えたのだ。

 抵抗するように火花を散らし、刃を伝って身体に電撃が走るが、その痛みは無視して腕に力を込める。

「く、そぉ……っ」

 速水の魔法の力を借り、光の壁の揺らぎをさらに大きく歪ませていく。

「う……っ」

 魔力の減少に、頭がチカチカしてくる。だが、確実に刃が沈む手ごたえを感じる。

 やがて。

「うぁ……わっ……」

 二人の攻撃に耐えられなくなった光の壁が一瞬だけ、口を開ける。そして、刃を立てていた響喜は、勢いを殺せず、文字通り、光の中へ転がり込んだ。

 膝をついて身体を起こした響喜は、同時に自分の来た道が閉ざされたのを確認する。

 中は、白く輝く空間だった。

 淡く発光するそれは、柔らかく、包み込む優しさを持っている。

 その中央で千歳は空間と同じように淡く光り、胸の前で手を組んでただ立っていた。それはまるで神々しい女神か天使に似て、息をするのも忘れて見惚れてしまう。

 はっ、と我に返った響喜は、自分の目的を思い出し、迷うことなく彼女の元へ駆け寄り、短刀をその場に放って、千歳の肩を掴んで強く揺すった。

「千歳! 今すぐ魔法を止めろ!」

 だが、彼女は魂が抜け落ちたように揺れるだけで、指一つどころか、瞬き一つしない。

「千歳……?」

 虚ろに薄く開かれた瞳には、生気が全く感じられない。

 凪いだ瞳は、何も見ていない。何も見えていない。

 それはまるで、等身大の人形のようだった。

 響喜は再び、大きく千歳の肩を揺らした。

「千歳! おい! 千歳……っ」

 だが、彼女は返事をしない。

 そこへ、また、波が襲う。

 それは、先ほどとは比べものにならない、大きな波紋だった。

「この、やろ……っ」

 気持ち悪い。吐きそうだ。

 自分の中から、何かが失われていくような気がした。

 これは……負の感情。

 怒り、悲しみ、憎しみ、嫉妬……。

 あらゆる負の感情が、自分の中から薄れていく。

 同時に察する。

 これが、平和な世界。

 誰もが怒ることなく、悲しむことなく、憎むことなく、妬むことのない世界。

 それらが、争いを生むと、彼女はそう考えたのかもしれない。

 もしくは、彼女の魔法が、そういう意味として捉えたのか。

 だが、それは些細な疑問だ。

 怒りが、悲しみが、不安が、薄れていく。

 膝をつくが、それでも、彼女の肩から手を離すことはしなかった。

「千歳……お前……」

 このまま、本当に平和な世界が訪れるのか。

 彼女を失った悲しみも。

 彼女を守れなかった怒りも。

 全て忘れてしまった世界で、俺は……。

「お前、本当に平和な世界で俺たち……俺が、生きていけると思ってるのかよ……っ」

 血を吐き出すように、響喜は続ける。

 生きていけるのだろう。

 何も、感じる心がなくなるのだから。

 彼女を失った悲しみを感じず、己の無力さへの憤りも感じないのだから。

 ただ、喜びや幸福だけを感じる、平和な世界。

 だが、『今の』自分は、それを幸福(しあわせ)だとは感じられない。

 薄れゆく彼女への怒りを、彼は叫んだ。

「いいか、よく聞けっ‼」

 一度呼吸を整えた響喜は、千歳の虚ろな瞳を半ば睨みつけた。

「お前のいない世界に、俺が生きる意味なんてないんだ!」

 このまま平和な世界で生きて欲しい、と。

 そう彼女が考えたことに、響喜は腹を立てていた。

 いくら魔法の影響で怒りが薄れていても、それは簡単には尽きないほどに。

「お前がこのまま死ぬって言うんなら、俺もここで死ぬぞ!」

 放った短刀を拾って、その刃を喉に向ける。レプリカに殺傷能力を持たせるだけの魔力はまだ残っていた。

 その言葉に、その覚悟に、千歳の虚ろな瞳が波を打つ。

 それに、響喜は気づかず、一息に続けた。

「それが嫌だったら、今すぐ魔法を――――……っ」

 響喜は大きく息を吸って、渾身の力を振り絞る。

 小さく震える千歳の唇が言葉を紡いだ。

「……て」

 千歳の瞳に光が戻る。

 そして彼女は、悲鳴を上げるように叫んだ。


「止めろ――――っ!」

「止まって――――っ!」


 再び、轟音と共に魔力の光が外へ解放される。

 それは、内側にいた響喜には全く感じられなかったが、外側にいた人間が暴風に見舞われたことは分かった。

 だが、それも最初と同じように、衝撃は少ないはずだ。

 魔力の光は取り払われ、無機質な壁と呆然とする氷堂や信護の姿が視界に入る。

 しかし、そんなことはどうでも良かった。

 腕の中にある彼女の身体は、想像よりも小さくて、柔らかくて、細くて、そして頼りない。

 そんな彼女の肩を掴んで、響喜は怒りを爆発させた。

「この……バカっ!」

 自分でも思った以上の声量が出た。至近距離での大声に彼女は両耳を塞ぐが、彼はそれに構うことなく怒鳴り続ける。

「バカ! 大バカ! 超バカ!」

 そしてギュッ、と千歳の身体を抱きしめた。

「お前が……っ、お前が、何かすることねぇって、言っただろ……っ」


『お前が何かする必要はねぇよ』


 それは、戦争が始まれば自分が魔法で止めてみせる、と彼女が言ったときに、響喜が言った台詞。

「なんで分からねぇんだよ、このバカッ!」

 言いながら、響喜は千歳を抱きしめる腕に力を込めた。

「自分の命を犠牲にするな! もっと死を怖がれよ! 守ってくれて……助けてくれって俺に言えよ……たとえそれが魔法でも、俺は躊躇ったりしない。だから、頼むから……簡単に死のうとするな……」

 すると、腕の中で彼女が微かに呻く。

「ですが、わたしは……」

「反論禁止!」

「う……ご命令、なら……」

 いつもの調子で渋々頷く千歳を見て、響喜はようやく安堵の息を吐いた。

「……無事で、良かった……」

 声が震えるのを必死で堪えた。

 本当なら、言いたいことはもっとある。

 それでも、彼女を失っていたかもしれない事実を考えれば、その言葉だけで十分だった。

「……はい」

 わずかに身じろぐ千歳を解放すると、間近で目が合ってしまい、気まずくなってつい目を逸らしてしまう。

 そこへ、二人の世界を壊すように、氷が襲い掛かった。

 それに気づかなかった響喜を、千歳が押し倒すことで攻撃を(かわ)す。

「なぜ魔法を止めたっ!」

 千歳を責める氷堂の声は、悲痛が滲んでいた。

 睨みつける瞳は烈火の如く怒りを湛え、人を射殺せそうなほどの眼力がある。

 自分を庇おうとする響喜の腕をやんわりと退け、千歳は立ち上がった。

「響喜さまが、止めたからです」

「何だと?」

 眉を寄せる氷堂は端から見ても息を呑むほど恐ろしい。

 だが、彼女は怯むことなく氷堂に答えを示す。

「世界が平和になっても、響喜さまが生きていてくれなければ、意味がありません」

 この一言で、氷堂には全てが理解できたようだった。

 その証拠に、氷堂は怒りに肩を震わせている。

「だから何だと言うのだ! その男一人が死んで何か変わるのか? そんな訳があるまい!」

 大きく手を振って、氷堂は千歳の答えを切り捨てる。

 氷堂に言い返そうと立ち上がった響喜を、千歳が身振りで制した。

「たった一人の人間のために、お前は世界を見殺しにするのか⁉」

「わたしにとって、響喜さまが世界です。響喜さまが生きていない世界を平和にしても、わたしにとって意味がありません」

「千歳……」

 はっきりと言い切った彼女に、響喜は胸が熱くなる。それは紛れもなく喜びだった。

 舞香でもなく、信護でもなく、奏司でもなく。

 千歳は響喜を『世界』と呼んだ。

「自分が何を言っているのか分かっているのか?」

 千歳の挑むような目に、氷堂が一瞬怯んだ。

「いい加減にしてください!」

 そこへ、堪らずといった様子で前に出た速水に、氷堂が訝しげに視線を移す。

 後ろから見た速水の身体は、鋭い氷堂の視線に怯えていることがよく分かる。

 それなのに、速水がそこを退くことなく、声を絞り出した。

「誰かの命を奪ってできた平和は、本当に平和なんですか? 命の上に平然と人々が生きているなんて、そんな悲しい世界はありません」

「たった一人の命で、戦争が終わるのだ! 命を奪ったことによる呵責に苦しまずに済むのだ! 奪われるかもしれない万人の命が救われるのだ! そのことを考えれば、小娘一人の命が何だというのだ!」

 氷堂の手は怒りに震え、力の入れ過ぎで白くなる。

 裏切った同胞の言葉で激高した氷堂に、速水は悲鳴のように叫んだ。

「だったら、どうしてっ!」

 一瞬だけ、場の空気が静まる。

「どうして……あなたはそんな顔をしているのですか……?」

 その中で、苦しそうに顔を歪めている人間がいた。

 速水は、濡れた瞳を氷堂に向けている。

 その先で氷堂の瞳は、まるで底なしの沼で喘いでいるような、そんな色を宿していた。

「あなたはずっと苦しんでいた。命を犠牲にしたくないと一番思っていたのは、あなた自身じゃないですか」

 氷堂は速水の言葉に困惑を示す。

 千歳は氷堂の部屋の前で気を失う際、彼の悲しげな表情を見た。

 響喜が千歳を犠牲にするのかと言ったとき、彼はわずかに動揺していた。

「あなたは優しい人。一緒にいれば分かります。これからの世界を生きていく子どもたちが、命を奪う残酷さに苦しまないように……これ以上、人々が国の犠牲にならないように……。あなたはいつだって他人のことを考えて行動している」

「何を世迷言を! 私は……っ」

 氷堂にはその先の言葉が見つからない。

「そんなあなたが、彼女の命を犠牲することに耐えられるとは思えない」

「耐えられる耐えられないの問題ではない! 他に方法がない以上、言枝の魔法に賭けるしかないのだ!」

 自暴自棄になった氷堂は、氷の礫を召喚し、それを速水に向けて飛ばす。

「きゃあっ」

 さらに続けて魔法を使おうとしたところで、震える指が媒介の万年筆を取り落した。

 氷堂の身体が傾ぎ、彼は膝をつく。

 どんなに効率よく魔法を使えても、魔力を消費することに変わりはない。その上、響喜が千歳を説得に行っている間もずっと魔法を使っていたのだ。すでに氷堂は限界に達していた。

「氷堂先生!」

 大きく肩で息をする氷堂に、速水が駆け寄ろうとしたが、そんな彼女を彼は一喝する。

「来るな! ……まだだ……私はまだ、終わっていない!」

 落とした万年筆を拾い、氷堂は魔力を練ろうとした。

 身体から立ち昇る魔力に、明らかにそれとは違う気配を感じて、速水が悲鳴を上げる。

「ダメです、先生! それは……っ」

 己の命を魔力へと変換する氷堂の覚悟に、響喜は言葉を失くした。

 生命力を魔力に変えることができるのは、文字通り、死ぬ覚悟をした人間だけ。

 彼にとって世界を統一することは、死んでも叶えたい悲願なのだ。

 もう、誰にもこの男を止めることはできない。

 巨大な岩のような氷の塊が生成され、分散し、それが幾本もの槍へとなる。生命を削って作られた刃先が、響喜たち五人に向けられた。それをどうにか受け止めようと、速水が水の障壁を築こうとするが、コポ…と水音(みずおと)を立てただけで消えてしまった。千歳へと続く道を開け、その後も残りの魔力を振り絞って氷堂と戦っていた速水にも、魔力は残されていなかった。舞香も信護も、そして響喜も同じ。

 誰も、氷堂の命懸けの攻撃を受け止めることはできない。

 そう思ったとき。

 一人の少女が、前へ出た。

 黒い髪を揺らして。

 感情の読めない瞳を湛えて。

「千歳!」

 氷の槍が飛ぶ。それに対して、彼女は避けるような仕草をしなかった。

 ただ一言。

「《わたしたちを傷つけないで》」

 千歳の望み通り、彼女たちを傷つけようと飛来した氷が砕け、霧散する。

 抑揚のない千歳の言葉に戸惑ったのは、響喜だけではない。

 舞香と信護も、同じように戸惑った表情をしている。

「貴様……っ」

 次の魔法を召喚しようとした氷堂に先んじて、千歳は新たな望みを紡ぐ。

「《媒介を捨てて、魔法の行使を止めて下さい》」

 強制力を持った千歳の言葉に、氷堂の身体から魔力の気配が消える。

「く……っ」

 強張った身体が、不自然な動きで、媒介を捨てる。

 そのまま氷堂の傍で膝を折った少女は、彼の眼前に手を翳した。

 小さな手が氷堂の視界をわずかに暗くし、そして言葉が紡がれた。

 しかし、彼らの位置からは、彼女が何を言っているのか聞こえなかった。

 そして。

「《もう、眠って下さい》」

 かろうじてその言葉だけが聞き取れた。

 張り詰めた空気が微かに和ぐ。

 ほんの数拍の間隔を空けて、まるで糸の切れた人形のように、氷堂の身体が大きく傾ぎ、床に倒れた。

「氷堂先生!」

 速水の声を合図に、信護、舞香、そして響喜が氷堂に駆け寄る。

「氷堂先生……?」

 抱き起した速水の腕の中で、氷堂は静かな寝息を立てて眠っていた。眠っているにもかかわらず眉間に皺を寄せているのは、もう癖になっているからだろうか。

 広い鉄の壁に覆われている部屋の中で、氷堂の規則的な呼吸が響く。

「……ごめん、なさい……」

 その言葉にどんな意味が込められているのか。

 氷堂の寝顔を見ながら、速水が一筋、涙を流した。


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