第十四話 世界統一
「世界、統一……?」
「そうだ。そして、私が王として民を統率する。私ならば、かつての王のように民を導くことができる」
舞香が息を呑む。
信護が絶句する。
氷堂の言葉に、ではない。
響喜も、頭が真っ白になっていた。
世界を統一するなんて魔法を使ったら。
「いくら千歳でも無茶よ! 魔力が足りないわ! そんな魔法使ったら千歳は……っ」
生命力を魔力として使ったとしても限界はある。
世界を統一するという魔法は、魔力、生命力の全てを使っても、成功できる保証がないことは考えるまでもなく想像できる。
仮に成功したとしても、千歳の命はないだろう。最悪、叶えることすらもできず、ただ無駄に命を落とす結果になるかもしれない。
それだけ、無謀なものだった。
「やるだけの価値はある。それができれば、戦争のない、平和な世界が築けるのだ」
「そのために、千歳を犠牲にするのか」
射殺すように氷堂を睨みつける響喜の手は、怒りで震えていた。
「必要な犠牲だ」
やや強ばった声音に、響喜は一瞬違和感を覚えるも、それを掻き消すように、氷堂は大きめの声量で続けた。
「そもそも、お前たちは本気で考えたことがあるのか?」
氷堂銀の母親は生まれてすぐに亡くなり、父が男手一つで彼を育てた。
父は同じ氷使いで、仕事の合間で彼に魔法を教えた。
戦場を経験し、そこから生還した父は、彼にとって英雄だった。
だが、父は一度として自分を英雄だとは言わなかった。
それ以上に、父は常に何かに怯えていた。
戦場で命を奪った敵兵の亡霊か。
他者の命を奪ったことによる恐怖か。
病を得た父は、死の間際に言った。
『いずれ、再び戦争が起こるだろう。それは十年後か百年後か……まだ遠い先の未来か、それは分からん。だが、私はそれが心残りだ』
骨の浮き出るまでにやつれた手を震わせながら、父は手で両の目を覆う。
涙こそ流れていないものの、父はの声は泣いているようだった。
『あぁ……また幼い子どもたちが、私のようにあのおぞましい場所で、何も分からぬまま他者の命を奪うのだ。これも、世界が一つであった遥か昔は、考えられんかった話だ』
それは、かつて三国が一つの王国だった頃のこと。
父は憧憬の色を瞳に浮かべて、何もない天井に手を伸ばした。
まるでその先に、争いのない夢の国があるように。
『再びあの世界が戻ってくれば、このような憂いも不要となるのか――……』
これが、父を苛んでいた恐怖。
父が恐れていたのは、敵兵の亡霊でも、命を奪ったことによる呵責でもない。
いや、それもあるだろう。
しかし、父が真に恐れていたものは――未来。
そのことを理解すると同時に、胸が震えた。
それは、共感。
父の理想を、自分が引き継ごうと思った。自分ならできる。やってみせる。
父の語った夢。それは、自分の使命だ。
戦争のない、平和な世界を取り戻す。
幼い子どもが、剣を取るような未来を阻止する。
力を失った、細くゴツゴツとした手を取って、彼は小さく頷いた。
『……――そうですね、父上』
「命を一つ奪えば、それは罪となってお前たちのその小さな肩にのしかかる。二つ奪えば二つ、三つ奪えばそれだけの罪が一生お前たちを追いかけて来る。だが、戦場において立ちはだかる敵を殺さないということは、お前たちの死を意味するのだ」
そう語る氷堂の口調は、まるでそれを見たかのような迫力があった。
戦争が起これば、幼き子どもたちが戦わなければならない。
しかし、それを止めれば国が失われてしまう。
氷堂にとっては、どちらも避けたい事態だった。
どちらか一方を優先すれば、どちらか一方を捨てなければならない。
そうならないための、理想。
世界統一。
それさえ叶えば全てが解決する。
だが、どれだけ探しても、具体的な方法が見つからない。
そうして、ようやく見つけた方法が、言枝千歳だった。
それ(・・)を使うことに心が痛まないわけではない。
しかし、やっと見つけた方法だ。見過ごす気にはならない。
時間がいる。彼女の力を見極める必要が。
その時間を作るために、魔法実技の訓練は必要なことだった。
国があっての人間で、人間があってこその国。
その二つを守るためには、やはり戦力不足は重大な問題だった。
国のために子どもたちが戦わなければならない、犠牲にしなければならない。
氷堂にとっても苦渋の決断だった。
だが、国を失っては元も子もない。
国を守り、子どもたちを守るためには、彼らに強くなってもらうしかない。
世界統一という理想を実現するまでだ。
魔法実技は言うなれば、保険。
必要なければそれに越したことはない。
矛盾、とは思わない。
これが、最善の策だった。
氷堂の握る万年筆から冷気が立ち昇る。
「私の父は、常にその亡霊の影に怯えていた。私は、これ以上父のような人間を増やしたくはない。だからこそ世界を統一し、私が、戦争のない平和な世を築き上げるのだ」
万年筆を振るった先からキラキラと氷の結晶が飛び、氷堂は響喜たちの周りを囲むように凍結させた。
「やめて! お願いだから……っ」
ガンガン、と千歳の檻を揺する音と、すすり泣く声が悲しく混ざる。
「言枝千歳を我が手中に収めたことで、すでに私の理想は目前。子どもと言えど、邪魔させはしない」
氷に囲まれたことで、冷気が三人の肌を刺した。それは、氷堂が向ける殺気そのもの。
「けど、世界が統一されたからといって、戦争がなくなるとは限らない」
怯みながらも信護が喉からやや震える声を絞り出す。
すると、まるで教科書の一文を読むように氷堂は言葉を紡ぎ出した。
「遥か昔、世界が一つの王国であった頃、犯罪こそなくなることはなかったものの、どの領地でも小競り合いすら起こることはなかった。そうだろう?」
最後の言葉は誰に向けられたものだったのか。
氷堂の目は、響喜たちを通り越した先を見ている。
氷堂ばかりに気が向いていて、カツカツとハイヒールの踵を鳴らすような音に、音に敏感な響喜でさえ全く気がつかなかった。
彼らは一斉に振り返る。
「王は全国民すべてに気を配り、その心を思い遣り、常に太平を見つめていた。だから、それに不平や不満を漏らす者はおらず、皆、王を信じ、崇拝すらしていた」
癖のある短い髪を揺らしながら、現れたその女性の瞳は悲しみに揺れていた。
「速水、先生……?」
絶句する舞香の言葉に、困ったような笑みを浮かべ、彼女は氷堂の前まで歩いた。
「三人とも震えています。今すぐ解放してください。彼らを傷つける必要はないでしょう?」
「傷つける? 別にそのような意図はないが?」
解放して、と言った速水の台詞には、千歳を助けることは含まれていない。
「あんた、氷堂の仲間か?」
敵意をむき出しにして尋ねる響喜の中には、信頼する教師に裏切られた怒りも混ざっていた。
目を伏せる速水の態度が肯定を表しているのは、誰の目にも明らかだ。
「ど、して……」
氷堂と速水が、教育方針の違いからよく対立していたことは、生徒なら誰でも知っていることだ。
「私たちは教育方針こそ合わないが、望む未来は同じ。だから、彼女にも協力してもらったのだ。過去から学ぶことは非常に多かった」
言いながら、氷堂は媒介である万年筆を振るう。同時にパリン、と高い音を立てて、響喜たちを囲っていた氷が砕けて消えた。
「私はただ、子どもたちの歩む未来を守りたい、それだけです」
ヒールを鳴らして、彼女は氷堂の隣に並ぶ。
「千歳の……生徒の命を犠牲にしても、か?」
問われた速水は、剣呑に光る響喜の瞳から目を逸らしただけで何も答えない。いや、何も答えられなかった。
そんな彼女を、二人を、響喜はある種の憎しみを込めて睨みつけた。
「あんたの言う『子どもたち』の中に、千歳は入らないのかって聞いてんだ!」
氷堂の、速水の、行動が、言動が。
過去に千歳を傷つけて貶めた、身勝手な父や大人たちと重なった。
「あんたにとっても、千歳はただの道具だとでも言うのかよっ!」
身体の奥が熱い。何かが溢れる。
まるで言葉が意思を持ったように、空気を震わせた。そしてそれは大きな衝撃波となって、氷堂と速水に襲い掛かる。
彼の魔力が媒介に伝わり、無意識が意識を凌駕して、魔法が発動したのだ。
否、暴発した。
真正面からとはいえ、完全に不意を突いた攻撃に、氷堂は慌てることなく万年筆を持たない左手を翳し、そこに分厚い氷の壁を召喚する。
暴走しているがゆえの、高濃度の魔力で作られた、音の衝撃波。まるで止まることを知らないその魔法は、氷にひびが入れる。
そして、やがて不穏な音を立てて、彼の氷の壁は大きく砕けた。
砂ぼこりが舞い、氷堂と速水の姿が隠れる。
「うそ……っ」
「やった……?」
二人の呟きに響喜は何も答えられない。
無意識の発動。それに残った魔力のほとんどを持って行かれてしまった。
肩で浅く息を繰り返す響喜の視界で、立ち込める煙が晴れていく。
砕けた氷を反射しながら、水の流れる音が耳に届いた。
速『水』。
彼女は水の流れを利用して、衝撃を受け止めるのではなく、受け流したのだ。
弾かれた響喜の魔法が、二人の後方に大きな穴を穿っている。
速水の右の袖口からは、紫の石を飾ったブレスレットが光っていた。
「そんな……」
もう響喜には、戦えるだけの魔力は残っていない。
「ここまでだな」
無情な氷堂の言葉を合図に、速水の魔法が解かれた。
「交渉だ、言枝千歳」
響喜たちに背を向け、氷堂は囚われた少女の檻に歩み寄る。
「氷堂!」
魔力の使い過ぎで身体が重く、思ったように動けない。
その意思を汲み取った信護と舞香が、氷堂に向けて魔法を放った。
先を尖らせた結界の刃を、舞香の風が後押しする。
しかし、速水の水がそれを許さなかった。
「速水先生……っ」
悲しく歪んだ速水の表情は、とても氷堂と同じ志を持っているとは思えない。
その瞬間、鋭く光る氷の剣が、響喜たち三人の前にそれぞれ向けられた。
ほんの少しでも逆らえば、命はないと言いたげに。
「氷堂先生、いったい何を? 子どもたちには手を出さないはずでしょう⁉」
速水の非難を彼は黙殺する。
「言枝。友人を助けたかったら、私の指示に従え」
「……っ」
身体を強ばらせた千歳が、檻の奥へと後ずさったのが見えた。
氷堂は彼女の返事を待たずに言葉を続ける。
「世界を統一しろ。そうして、戦争のない平和な世界を創るのだ」
「やめろ!」
彼らの叫びに、千歳が視線を氷堂の後ろ、響喜へと向けた。
「響喜さま……」
怯えた瞳からは、次々と涙が溢れる。
世界を統一しろ。
指示に従わないのなら響喜たち三人の命はない。
こんなの、交渉でも何でもない。ただの脅しだ。
それに千歳がどう応えるかなど、ここにいる全員が分かっている。
「返答は?」
「……わかり、ました」
「千歳!」
分かっていた応えに、響喜たちの悲鳴のような呼びかけが響く。
「そうか……」
その声がなぜか悲しげに聞こえた。
それに違和感を覚えたのはほんの一瞬。
「その代わり、お願いがあります」
「言ってみろ」
尊大に問い返す氷堂に、千歳は檻の氷に縋る。
「もし、わたしが魔法を失敗しても、響喜さまは……響喜さまたちは……っ」
響喜たちは助けてほしい。
懇願する彼女の言葉に氷堂は頷く。その目に偽りはなかった。
「分かっている。元よりそのつもりだ。お前はただ、私の言う通りにすればいい」
氷堂は檻に手を翳し彼女を解放しようとして、そこで動きを止める。
「余計なことは口走らないことだ。友人の命が惜しければな」
「てめぇっ!」
氷の刃が突きつけられていることも忘れて掴みかかろうとするが、同時に喉元まで切っ先が添えられた。
それを見た氷堂が鼻を鳴らす。
「では、始めよう」
今度こそ千歳を閉じ込めていた檻が解かれ、彼女は魔法陣の外へ解放される。
「千歳……」
それを口にしたのは信護だ。
三人の視線は今、全て千歳に注がれている。
だが、千歳の視線はじっと響喜に注がれていた。
「氷堂先生」
「言枝千歳の命は私が背負う。お前は黙って見ていろ。これで私たちの悲願が達せられるのだ」
失敗する可能性もあるのに、氷堂の言葉は成功すると確信しているようだった。それは、ここ一ヶ月で入手した個人授業のデータに基づくものか。
二人の会話に、響喜は奥歯を噛みしめる。
自分はこんなに弱かったのか。
好きな子一人も守れないなんて。
それどころか、自分は彼女に守られている。
俺は――……。
「千歳」
響喜は呼んだ。
「千歳……っ」
響喜は呼んだ、彼女の名を。
彼の視線が千歳を捕らえる。
悲しそうに微笑んだ千歳の口が、微かに音のない言葉を紡いだ。
信護が、舞香が、響喜を見る。
風が渦巻いた。
それは風ではなく、魔力。
ものすごい量の魔力が渦捲いて、それは光となり、千歳を覆い隠す。
髪や服を煽られながら顔を庇う二人を後ろに、彼は未だに動かない身体を叱咤して前へ進もうとした。
そして。
「止めろ――――っ」
響喜の叫びも虚しく、その言葉は紡がれた。