第十三話 強行突破
教師寮の階段を三つの足音が駆け上がって行く。
何事か、と注意をする人間がいないのは、休日のせいだろうか。出掛けているのか、校舎で仕事でもしているのか。どちらにしろ、彼らにとっては好都合だった。
氷堂の部屋の前に立つ。
ドアノブを回すが、『本人しか開けられないまじない』が掛かっているのだ。開くわけがない。
「くそっ、やっぱりダメか」
頭をかきむしる響喜を押しのけ、舞香が前に出た。
「あたしがやるわ」
こめかみに飾るヘアピンに両手を触れる。
「できるのか?」
「まじないは『ドアノブ』に掛かってるのよ。ドアの隙間は対象外だわ」
ふわり、と服の裾が翻り、細い風がしゅるしゅる、とドアと床の隙間に入っていく。
すぅ、と目を閉じた舞香は、視覚を風に移した。
暗いはずの瞼の裏に、見たこともない景色が映る。
整頓された、神経質さを感じる部屋。その片隅に、魔法陣が描かれていた。
「どう?」
尋ねる信護の声に目を開き、思考を取り戻す。
「間違いないわ。部屋に魔法陣があった。授業で習ったことがある……あれは空間転移のまじないよ」
同じ『印』を持つ魔法陣の場所を繋ぎ、一瞬で移動できるまじないだ。
「……ってことは、千歳を連れ去ったのは氷堂で決まりだな」
「でも、どうするの? 犯人が分かっただけじゃ、千歳の居場所は掴めない」
ドアを開けることができれば、あのまじないを使って彼女の場所へ移動できるのに。
それに、手伝いを頼もうにも、確固たる証拠がないため、誰も信じてはくれないだろう。
部屋のまじないを模倣する手もあるが、三人を転移させるだけの質の魔晶石を用意する時間が惜しい。
顎に手を当てて思案する信護に、響喜は顔を上げた。
「とりあえず、氷堂の家に行ってみるのが一番いいだろう」
そう言って、彼は舞香を振り返る。
「頼めるか?」
何を、と聞くまでもない。
彼らの中で、場所も知らない氷堂の自宅を捜せるのは自分だけだ。
「任せて」
氷堂の自宅は学校の徒歩圏内にあると聞いた覚えがあった。その程度の範囲であれば、すぐに見つけられる。
考えるまでもなく、舞香は頷いた。
噂通り、氷堂の自宅は学校とさほど離れておらず、舞香はあまり時間を掛けることなく捜し当てることができた。
住宅街からやや離れた、閑散とした場所。そこに国内でも珍しくない木造平屋の屋敷があった。狭くはない庭はきちんと手入れされ、季節の花や木が植えられている。
やや抵抗を感じながらも、一同は敷地に足を踏み入れ、玄関の前に立つ。
木の枠を嵌めたガラス戸は、鍵が掛かっていて開くことはできない。
「ちっ、鍵が掛かってる」
鍵を壊すか、と響喜はホルスターから小銃の形をした媒介を抜こうとした。
しかし、普段は優しい声が、響喜を押しのけて前に出る。
「下がって、響喜」
戸の前に立った信護は、褐色の右手で左耳のピアスを撫でた。その仕草は、彼が魔法を発動するときの癖だ。信護は魔法を発動する前に、必ず左右どちらかの媒介に触るのだ。
ちなみに媒介は、わざわざ手で握らなくても、身体に直接触れていれば魔法を発動できる。
「やぁっ!」
結界を張って強度を増した信護の足は、鋭い回し蹴りを炸裂させ、ガラス戸は無残に吹き飛ばされた。
ガシャン、と派手な音を立てたが、最近各家に取り入れられた強化ガラスを取り入れていたようで、何とか割れずに彼の蹴りに耐えたようだ。場所が場所だけに、隣家にも騒ぎは聞きつけられていない。
ふぅ、と息を吐いた信護に、響喜は顔を引きつらせた。
「また、派手にやったわね。響喜に鍵を壊してもらった方が良かったんじゃない?」
「ごめん、気が急いてて」
それで終わらせていいのか?
こんなところで短気を起こすなよ。
けれど、それは信護が千歳を想った結果だと思うと、もやもやした感情が胸に立ち込めてきた。
だが、今はそれどころじゃない。
響喜は自分の中に沸いた感情を押し込めて、先を急ぐべく、二人を促した。
靴を脱ぐことなく、三人は邸に踏み入った。それなりの築年数が経っているのかミシミシ、という音が耳障りだ。
邸の中はさほど広くなく、手分けをして部屋の戸を一つ一つ確認したが、千歳はどこにもいなかった。
「くそ……っ、どこにいるんだ!」
完全な手詰まりだった。
彼らは氷堂のことをまったくと言っていいほど知らないのだ。
氷堂が連れ去った場所として、自宅以外の選択肢が見つからない。
「隠し部屋とか隠し通路があるかもしれない。響喜の家にもあるんだろう?」
どこにあるのかは教えなかったが、去年遊びに来た信護に、そういう話をしたのは覚えている。
「待って、それならあたしが風で……」
舞香が風を起こして、より細かく捜索を始める。
千歳はどこにいるんだ。
強く握りしめた拳が震えている。それをどこかに殴りつけたい衝動を必死で堪えていた。
そのときだ。
声が、聞こえた気がした。
「「!」」
泣いている、千歳が。
そう、思った。
呼んでいるのだ、自分を。
舞香の風が千歳の声を運んだのだ。
微かな声だが、それを聞き逃すようなら音魔法使い失格だ。
舞香も声に気づいたのだろう。大きく頷いて見せた。
「こっちだ」
声の聞こえた方角を示し、玄関から右に続く廊下を走り出す。いくつかの戸を素通りし、一番奥の木製の戸の前で彼は立ち止った。
戸を押したり引いたりしてみるが、開かない。
感触から閂のようなものだろうと当たりをつけて、響喜は信護のしたように強行突破することにした。
彼は腰から二つ目の媒介である短刀を抜いた。この短刀は刃を持たないレプリカで、柄に細かな模様が刻まれ、中央には魔晶石が光っている。
用途に合わせて複数の媒介を使い分ける魔法使いは少なくない。
響喜は万能型である己の魔法を使い分け、練習するため、銃と短刀の二つの媒介を持っていた。
魔力を媒介に注ぎ、刃に沿って増幅させた音波を発生させ、響喜は木製のドアを切り裂いた。
部屋は書斎なのか、大量の本が壁や床を覆い尽くしており、足を踏むスペースがあまりない。本をよく見てみると、そのほとんどが魔法に関するものだった。特に魔法陣や、世界の歴史に関するものの割合が多い。
「この部屋に隠し通路があるの? ただの書庫みたいだけど」
「ええ」
「間違いない」
二人は大きく頷き、慎重に部屋を捜す二人に対して、響喜は耳を澄ませた。
この部屋の空気の流れがおかしい。
「二人とも動くな。少しじっとしててくれ」
ピタリ、と動きを止めた二人を確認して、彼はもう一度耳を澄ませた。
そして、戸に対し左側の本棚に銃口を向けて、音弾を三発放つ。撃ち込まれた弾丸は本棚を抉り、本を数冊落とす。しかしそれは、彼の望んでいた結果には程遠い。
壁の向こうから、違和感のある風の音が聞こえたのだ。それは、外で吹く風とは明確に違う。
この程度の違いを、『音』の字を持つ魔法使いが聞き分けられないはずもない。
響喜はもう一度、今度は短剣を使って、さっきと同じよう本棚を叩き切った。
砕かれた本棚の残骸とホコリが立ち込め、彼らは咳き込む。本棚に並べられていた本が破れ、紙くずとなってしまった。もしかしたら、価値のある書物だっただろうか、という考えを振り払う。
今はそれどころではない。
ホコリが晴れると壁の向こう側に、地下へと続く通路が現れた。木造建築には不似合いな、冷たい鉄の通路には、道標のように小さな明かりが等間隔で灯されている。
そこは階段ではなく、下り坂になっている。通路の床には、道標のように並ぶ小さな明かりが灯されていた。
もうすぐだ。
響喜の中には、暗闇に怯える千歳の姿が見えていた。
もうすぐ、助けてやれる。
逸る気持ちを懸命に抑えて、彼は通路を駆け出した。
短くはない距離の通路を走って行くと、分厚い鉄のドアに辿り着いた。ノブを回すと、鍵は掛かっておらず、ギギ…と軋みながらも、ドアは何の抵抗なく開いた。
通路の明かりが漏れ、室内の様子をわずかに見せてくれる。そこは部屋、というよりは何かの実験室だろうか。壁は通路やドアと同じ鉄で覆われている。特に装飾品や棚などは一切ない。
注意深く見ていると、部屋の中央できら、と何かが光った。
「響喜さま……」
「千歳っ!」
気がつけば、響喜は彼女に駆け寄る。
光っていたのは氷の檻だった。それは酷く冷たく、柵を握っているせいで、千歳の手は赤く霜焼けになっている。ずいぶん泣いたのか、目元は真っ赤に腫れていた。
そうだろう。彼女は何よりも暗闇に怯えているのだから。
遅れて駆け寄る信護と舞香が、その痛ましげに顔を歪めた。
「こんなに腫れて……他に痛いところはない?」
「平気。それより皆、早く逃げて……っ!」
「え?」
逃げて。そう彼女が口にすれば、それは魔法になるはず。それなのに、なぜ発動しないのか。
いや、そもそも、彼女の捕えられている檻の下に描かれた魔法陣と大量の魔晶石に、彼はまったく気づかなかった。
そんな疑問が一瞬のうちに生まれる。
そこへ突如、カツカツと靴を鳴らす音が耳に届く。
「そこで何をしている」
冷たい声の主に目を向ける。部屋の奥の暗闇から現れた氷堂を、響喜たちは鋭い視線で睨み返す。
「不法侵入とは……警察に突き出されても文句は言えんぞ」
「そういうあなたは、拉致監禁ですね。一緒に警察に行きますか?」
信護の皮肉に、氷堂は眉一つ動かすことをしなかった。
「千歳を返して! そうしたら、あたしたちはすぐに帰るわ。先生のしたことだって誰にも言わない」
「返せと言われて返す人間が、こんなことをすると思うのか?」
鼻で笑われ、舞香は奥歯を噛み締める。
「だったら、力づくで取り返す!」
響喜は腰から媒介である短刀を抜いた。
千歳を取り返すには氷堂を倒さなければいけない。
柄を握る響喜の手はわずかに震えていた。
誰かを傷つける魔法を使うのは初めてだ。
授業では、相手に擦り傷や打撲以上の怪我を負わせないようにルールが決められ、万一に備えて教師が目を光らせていた。
けれど、今は違う。
授業でやった模擬戦ではない。
戦争、という不吉な言葉が脳裏を過った。
聞こえないはずの、爆炎や硝煙の音が聞こえた気がした。
その幻聴を、響喜は振り払う。
違う。これは戦争じゃない。
肩、腕、足、何でもいい。
相手を行動不能にするか、媒介を奪うかすれば、それでいいんだ。
音波を蹴り、音速の弾丸と化した彼は、そのまま氷堂の右肩に向かって短刀を振り下ろした。
「やあぁっ!」
瞬間、氷堂が笑ったのが見えた。
腹部を激痛が襲ったかと思うと、彼は後方に弾け飛ぶ。遅れて、氷堂の拳が腹に入ったのだと理解した。
「響喜さま!」
「響喜!」
千歳たちの声が重なり、舞香が彼の身体を助け起こす。
自分を睨みつける響喜の視線を、氷堂は余裕の態度で受け止めた。
彼の媒介は愛用の万年筆だ。それがスーツのポケットに刺さったままだということは、氷堂は魔法すら使っていない。
今度は信護が動く。
耳のピアスに触れ、それを合図に彼は氷堂に襲い掛かった。
結界を纏わせることでより強固となった鋭い拳と蹴りが、連続で繰り出される。
だが、拳も蹴りも、どこを狙っても、氷堂は危なげなく避けていく。
「くっ……」
やがて疲労の増した信護の拳を手で受け止めた氷堂は、そのまま信護を床に捻じ伏せた。
「信護!」
腹部を押さえる響喜の隣で舞香は立ち上がり、両手を前に突き出して魔法を発動する準備を整える。
「信護を放して!」
「私を攻撃すれば、傷つくのは守屋だぞ?」
言いながら、氷堂は見せつけるようにポケットから万年筆を取り出して、信護の首筋に当てた。
「やめて!」
千歳は氷の檻を壊そうと力を込めるが、彼女の非力でどうにかなるものではない。
「無駄だ。どれだけ足掻こうと、魔法の使えないお前ではその檻は壊せん」
「魔法が、使えない……? どういうことだっ」
響喜の疑問に、彼は口の端を持ち上げ冷酷な笑みを浮かべた。
「その檻の下に描かれた魔法陣は、先日私が完成させたものでな。その陣に入った人間は魔法が使えなくなる。その分、消費する魔晶石の数が多いのが難点だが」
「そんなバカなっ⁉」
驚愕したのは響喜だけではない。
「まさか、そんな魔法陣があるわけない!」
自分の下で暴れる信護を苦もなく押さえつけ、氷堂は続けた。
「今、お前たちの目の前にあるものが真実だ。そしてこれが、私を理想へと導く」
「理想?」
「そうだ」
聞き返された言葉に、やや興奮したように氷堂は大きく頷いて見せる。
「私が思い描いてきた夢、理想。それを叶えるために、この娘の魔法が必要なのだ」
ぶち、と響喜の中で何かが切れた。
千歳の魔法は望みを形にする、『希望』の魔法。
誰も彼もが、それを目当てに千歳に群がる。
自分の父も、結局同じだ。
そして研究者たちは、己の知識欲を満たすために、彼女の全てを暴いた。
学校へ通うようになって、彼女の名は身に秘める魔法と共に世間に知れている。
千歳を庇護している音羽の家にも、彼女を欲しがる人間たちが面会を要求しているそうだ。
金、権力、名誉。
そんな欲望のために、彼女が今までに負った傷は計り知れない。
あの小さな身体も、心も。
傷が目に見えるものなら、きっと隙間なくそれが刻まれているはずだ。
「お前みたいな奴がいるから、千歳は……っ!」
「響喜さまっ」
目尻に涙を浮かべた千歳の声が耳に届いたときには、すでに響喜は氷堂の真後ろにいた。
振り抜いた短刀が、氷堂の首を狙う。
その瞬間、血で真っ赤になる氷堂を想像して、動きが鈍った。
そんな彼の躊躇いを待つまでもなく、氷堂は振り向くこともせずに召喚した小さな氷の盾が、響喜の手から刀を弾き飛ばした。
わずかに意識が逸れたことで力が緩み、その隙に氷堂の拘束を逃れた信護は、素早く後退した。
響喜はホルスターから小銃を抜いた。
授業で習った五つの音弾を作り、氷堂に放つ。
しかし、氷堂の精錬された技には遠く及ばず、彼の形成した五つの氷塊によって、全て撃ち落とされてしまった。
「くそ……っ」
どうやっても、氷堂に一撃入れることすらできない。
これが、卓越した大人と、幼い子どもの力の差――……。
「響喜さま……っ」
千歳が叫ぶ。
助けて欲しい、と言っているようには聞こえなかった。それは、逃げてくれ、と言っているように聞こえた。
己の無力さに吐き気がする。
その心を見透かしたように、氷堂は万年筆を響喜たちに向けた。
「諦めろ。私とお前たちとでは力の差がありすぎる。それに背負っているものも、覚悟も違う。それに、これはお前たちのためでもあるのだ」
「僕たち、の……?」
後ろの方で信護の訝しむ声がする。
「そう。私の望む理想。それは、かつての世界を取り戻すこと。『世界の統一』だ」
戦闘シーン(?)




