第十一話 緊急事態
「あっ……」
透き通った氷球が、形を変える。一応ネコのつもりだったのだが、耳が丸く、胴体が大きい上、尻尾が太い。特に、目が横長で少々不気味だ。
いったいこれは何の動物なのだろうか?
段々と陽が朱く染まる校庭の片隅。運動部が使う広いグラウンドの脇で、千歳は放課後の個人授業を受けていた。
内容は、氷球を別の形へ変える魔法の練習。
「いったい、これは何だ?」
「ネコ…………ではなくなった何か、です」
「その『何か』を聞きたいのだがな」
「すみません」
氷堂は神経質そうに眼鏡を押し上げ、万年筆を振って氷を元の球体に戻す。
その準備の間に、千歳は大きく息を吐いた。
「……ここ数日、集中できていないことが多いな。空間移動の魔法を成功させたお前なら、物体変化も簡単にできるはずだ」
「…………」
集中できていない。確かにその通りだ。
言葉を選ぶまでもない。このくらいなら、簡単だと自分でも思う。
ため息を吐いた氷堂は、再び万年筆を氷に向けた。すると、万年筆を向けられた球は、音を立てて崩れ、冷気だけを残して跡形もなく消えてしまう。
「……先生」
「今日の授業は終了だ。集中できていないのに授業をしても意味がない」
厳しい口調で言われ、千歳は肩を落として項垂れた。
胸の中に罪悪感が満ちる。
「話して楽になることなら、言ってみなさい。助言できるならしてもいい」
変わらずの冷たい声音だが、見上げた氷堂の瞳には生徒を気遣う優しさが見て取れた。やはり、この人は見た目ほど冷たい人間ではない。
そう感じた彼女は、しばし躊躇しながらも口を開いた。
「実は最近、響喜さま……音羽くんたちの様子が変なんです……」
そこまで言って、千歳は数日間の出来事を思い出す。
あの日、響喜と舞香が談話室に来なかった日から、三人とも変わってしまった気がする。登校の待ち合わせへはちゃんと集まるし、昼休みも四人で食堂に行き、授業中も掃除時間も帰り際も、いつもと変わらない。
しかし、違和感を……響喜たちの会話に見えないトゲを感じるのだ。最初は何かの間違いだと思った。自分の考えすぎなのだと。
だが、そうではなかった。
響喜の行動も、舞香の態度も、信護の様子も。四人で話しているときも、微かに重たい空気が立ち込める。三人とも、無理に普段どおりの自分を演じようとしている、という表現が一番近いような気がする。
「気のせいならいいのですが……わたしの知らないところで、三人に何かあったとしたら、わたし……」
何とかしないといけない。
けれど、いったい何をどうしたらいいのか、彼女には皆目見当もつかなかった。
千歳が友達と呼べるのは、響喜たちだけだ。
だが、当の本人に相談するわけにもいかない。
だからといって、氷堂にこんな話をしても困らせてしまうだけだ。
それでも、誰かに聞いてほしいという気持ちも、心のどこかにあった。
「そうか」
相槌を打って、氷堂は言葉を続けた。
「お前にできることは何もない。おそらく、音羽たちの気持ちの問題だ。今はまだ分からなくとも、時と共に解決するだろう。今は待っていてやりなさい」
「気持ちの、問題……」
千歳はぽつり、と呟くと、胸に手を当てて彼の言葉に耳を傾ける。
「心というものは移ろいやすいものだ。ほんの少しの弾みで、良くも悪くもなる。何もしないことが、時として功を奏すこともある」
遠くを見つめ、氷堂はそこに何かを見出すように目を細めた。
常に寄せられている眉間のシワがより深まる。
「何か行動を起こせば必ず変化が生じる。それが良いものであるのならばそれでいい。しかし、悪くなってしまえば、予測することすら困難な事態を招き、収拾不可能なところまで落ちていく」
それはまるで、己の過去を話すような、そんな説得力があった。
「その変化に強い意志が働いているならば、なおさら悪化するだろう。己の理想や信念の下に暴走した事象は、過ちを認めさせること以外に解決方法がない。なぜなら、己のしていることが過ちであると思っていないからだ」
黙って話を聞く教え子を見下ろしながら、氷堂は話を続ける。
「理想とは、夢や価値観と同義だ。それを否定されて黙っていられる人間などいない。だからこそ、その考えが間違いであると認めさせて、初めて事態は好転する。だが、己の意志を曲げるというのは、そう簡単にできることではない」
熱く語る氷堂を見て、千歳は納得した。
この人にも目指している何かがあるのだ、と千歳には感じられた。
氷の魔法使いなのに、彼の心の中には、信念の炎が燃えている。
それが、千歳には見えた気がした。
氷堂はそこでゴホン、と咳払いをし、話を戻す。
「話がずれてしまったが、移ろいやすいものの前では、ただ座して時が来るのを待ちなさい。余計なことをして今の状態を悪化させたくはないだろう?」
以上、と言って、彼は校舎の中へ帰って行った。その背を見送りながら、千歳は氷堂の言葉を口の中で繰り返す。
「時、か……」
何もできないことが歯がゆい。
しかし、何も話してくれない響喜たちにしてあげられることはない。
結局、何もしないことが自分にできる唯一のことなのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。
「はぁ……」
あの日から、ため息の数が日に日に増えていく。
響喜も、信護も舞香も、いったいどうしたのだろう。
どうして、自分だけ何も知らないのだろう。
もう、前のようには戻れないのだろうか。
顔に掛かる黒い髪を払って、千歳は寮へ帰ることにした。
寮のドアを開けようとすると、ちょうど中から人が出てくるところだった。
癖のあるショートカットの髪を揺らしながら現れたのは、速水だ。
「あら、言枝さん、今帰り? 部活動してたかしら?」
「いえ。氷堂先生に個人授業をつけてもらっていて、その帰りです」
それに、部活動はしていない。
そう答えると、速水の顔は心配そうに歪められる。
「……そう、まだ続けていたのね。大丈夫? 無理して続ける必要はないのよ?」
軽く膝を曲げて目線を合わせ、彼女は千歳の頬に手を添えた。そして、身体に傷がないか上下に視線を走らせる。
「心配するようなことは何も。それに、無理をしているわけでもありません。言葉魔法は誰にも教わることができませんから、言葉使いの研究をされている氷堂先生の授業は、とても勉強になります」
まるで舞香のような反応に、千歳は内心で苦笑を漏らす。
個人授業は未だ腕試しのような内容がほとんどだが、すでに得たものは多かった。
それに、失敗すればアドバイスをくれ、成功すれば評価してくれる。
厳しさばかりに目がいってしまうが、彼は生徒想いの教師だと千歳は感じていた。
「それならいいけど……もし、氷堂先生のことで何か嫌なことがあったら、いつでも言って。相談に乗るから」
同じ、生徒を想うということでも、違いがあれば対立する。
二人の理想が違うから、起こることなのだろうか。
生徒の心を守りたい理想と、生徒の力を伸ばしたい理想。
そういえば少し前に、速水は氷堂が好きなのだと、信護が話していたことを思い出す。
きっと、分かり合えないことに一番心を痛めているのは、速水なのだろう。
去って行く速水を見送ると、千歳は寮のドアを開けて中に入った。
千歳の個人授業が始まって、そして、信護から宣戦布告を受けてから一か月が経とうとしているが、四人の関係は相変わらずぎくしゃくしていた。それでも何とか関係を持ち堪えているのは、おそらく千歳の存在が大きいだろう。
よくよく考えてみれば、四人の関係は千歳を中心に回っていたのかもしれない。
そして、そのまま桜の花は全て散り、新緑の若葉が青々と木々を彩って、五月を少し過ぎた頃、事件は起きた。
その日は休日で、登校のために早起きする必要もないため、響喜は空腹を感じながらも惰眠を貪っていた。
目は覚めているというのに、布団の温もりがちょうどよく、なかなか起きられない。
そこへ部屋の外から慌しい足音が耳に届いた。
足音は二人分。
平穏な休日を脅かすその音を遮ろうと、彼は毛布を頭まで被った。
しかし、廊下を走っていたと思わしきその人物たちは、響喜の部屋の前で止まり、一つは去って行った。
いったい何なんだ、と毛布から顔を出して、目をドアに向けるのと同時に、ドアが激しく叩かれた。
「響喜! 響喜、起きてるんだろ!」
焦ったように叫んでいるのは、信護だ。
尋常じゃないその様子に、怠い身体を引きずり、布団から出てドアを開けると、間髪を入れずに信護は口を開いた。
「千歳が……千歳がどこにもいないんだ!」
怠さで痺れていた頭の中が、一気に目覚めた。
いつもありがとうございます。
これから、物語は起承転結でいうところの「転」へ突入します。戦闘も予定していますが、何分経験(?)が足りませんで拙いかと思いますが、温かい目でよろしくお願いします。