第十話 四角関係
いつも読んで頂きありがとうございます。
毎回、五千字を目安にしていますが、今回は少々長くなってしまいました。
お付き合い頂けると幸いです。
『どうしてダメなんですか、ちちうえ!』
千歳と出会ったその日、響喜は父に彼女を解放するように頼んだ。
誰もいない廊下。そこから降り注ぐ陽射しは暑く、緑が生い茂る庭はきらきらと輝いているというのに、響喜にはそれを楽しむ余裕がない。
『おねがいだから、ちとせをたすけてください!』
『何度言えば分かるんだ、お前は! あの娘の研究は、我が家の繁栄に繋がるのだ!』
まるで諭すような口調で、父は息子に怒鳴る。
『あの娘は言葉使いだ。あれの研究を続け、王宮に研究成果を上げれば、それだけ我ら音羽は王陛下の覚えもよくなる。それだけじゃない。王宮は、言葉使いを見つけ、囲っている我らの発言を無視できなくなる』
しかし、父が言ったことの半分も理解できなかった少年は、大きく首を振ってそれを否定した。
『そんなのしらない! どうでもいいよ!』
父への敬語を忘れて叫んだ響喜に、父はさらに怒鳴りつけた。
『お前に何が分かるっ! ……ゴホッ、ゴホ……ッ』
『ちちうえ!』
突然咳き込みだした父に駆け寄って、響喜はその背中をさすりながら、はっとした。
父の背中は、こんなにも小さかっただろうか?
響喜にとっての父は、委縮してしまうほど大きくて、頑固で厳しい、そんな存在だった。
それなのに、久しぶりに触れた父は、驚くほど細く貧弱だ。
最近病に罹ったと聞かされていたが、それは自分が思うより酷いのかもしれない。
『だれか、だれかきてくれ! ちちうえが……』
大声を上げて使用人を呼ぶと、近くにいたらしい使用人の新見一郎が駆けつけてくれた。
自室へ運ばれて行く父を見送りながら少年は、己の無力さにきつく唇を噛み締める。
『響喜』
一人廊下に取り残された響喜が呼ばれて振り返ると、兄の奏司が立っていた。声を掛けられるまで気がつかなかったのは、兄が癖で足音を殺していたからだろう。
『……あにうえ……』
今では『兄さん』と呼んでいるが、当時の響喜は兄を『兄上』と呼んでいた。
情けない声を出す弟に、厳しい顔つきをしていた奏司の表情が優しいものになった。
膝を曲げて響喜と目線を合わせた彼は、幼い弟の頭をよしよしと撫でる。
『響喜、あなたは、離れの少女を助けたいのですか?』
兄も離れにいる千歳の存在を知っていたのか。
そのことに気づかず、響喜は奏司の問いに、こくんと頷いた。
助けてあげたい、と。
『理由を聞いても?』
兄の声に、堰を切ったように涙が溢れ、響喜はしゃくり上げながら首を横に振った。
『だって……あんなくらいところにひとりでいるなんて、さみしいにきまってる……っ』
今朝出会ったばかりの少女を、響喜は思い出した。
暗い場所に閉じ込められた少女の瞳は、まるで底のない闇のように、暗く哀しいものだった。
それは、きっとあの離れに閉じ込められているせいだ。
あの子の、笑った顔が見たい。
あそこから解放されれば、きっと笑ってくれる。
『響喜、よく聞いて下さい』
涙を拭いて顔を上げた弟を真っ直ぐ見つめ、兄は真剣な面持ちで口を開いた。
『父上はもう、あまり長くはないでしょう』
その言葉の意味を、響喜はよく理解できなかった。
だが、そこにある重たい何かを察した少年は、おずおずと言葉を紡ぐ。
『ちちうえ、しんじゃうの?』
弟の問いに、奏司は答えることも頷くこともせずに続けた。
夏の蒸し暑い外気が、響喜の甚平と奏司の着物に侵入するが、二人に汗をかいている様子はない。
『きっと、父上の次に家を継ぐのは私です』
その言葉の意味は、このときの響喜にもよく分かった。
なぜなら、前に父の部屋の前を通ったときに、そう話していたのを聞いたからだ。
家を継ぐというのは、当主になるということ。
この家で、一番偉くなるということだ。
響喜は兄の袖を掴み、必死でお願いしてみる。
『じゃあ、あにうえならできる? ちとせを、たすけてくれる?』
だが、兄は首を横に振った。袖を握った少年の手が、一気に力を失くして下がる。
『おれが……もっとつよかったら……』
力さえあれば、千歳を連れ出すことができるのに。
幼い少年にとっては、力こそが強さだった。それさえあれば、できないことはないと思えるほどに。
初めて会ったばかりだというのに、響喜は何とかして少女を助けたい、と強く願っていた。
それはまるで魔法に掛かったようで、この想いがどこから来るものなのか、自分でもよく分からない。
ただ、あの哀しげな瞳が、忘れられなかった。
再び涙を流す響喜に、奏司は先ほどと同じ質問を繰り返す。
『響喜は、離れの少女を助けたいのですか?』
『うん』
そのことを不思議に思うことなく、響喜はもう一度頷いた。
『だったら、その気持ちを忘れないで。私がこの家で一番偉くなったときに、またお願いして下さい』
『そしたら、たすけてくれる?』
弟の目から流れる涙を拭ってやりながら、兄は微笑んだ。
『ええ。大切な弟が一生懸命お願いするのなら、そのときは力になりますよ』
「響喜さま、信護。おはようございます」
「おはよう。ごめんなさい、待った?」
「そうでもないよ。ね、響喜」
「ああ、まあな」
寮のエントランスで待ち合わせるのは、去年から続く習慣だ。
この日の朝、響喜はいつものように信護と二人で、千歳たちを待っていた。
だが、二人の間には今までにない、気まずい空気が漂っている。
話題がないのではなく、話題が思いつかない。
何を話していいのか分からないのだ。
普段なら、今日の授業や最近の流行で盛り上がるはずで、話題に困ったことはないのに。
「どうしたのよ、二人とも? ケンカ? 何か変よ?」
「そんなことないよ」
不審に思った舞香が尋ねるが、信護はそれを笑顔でがはぐらかす。
二人が話している横で、千歳が響喜を見上げた。
「おはようございます、響喜さま」
エントランスでの待ち合わせが彼らの習慣なら、もう一度、響喜にだけ直接挨拶に来るのは、千歳の習慣だ。いつものことだが、何だか千歳に特別に思われているようで、妙に気恥ずかしく、そして嬉しい。
制服の裾を引っ張り見上げてくる様子は、いつもと変わらない仕草。
それが、今日はなぜか、いつにも増して可愛く思える。
黒く長い髪も、同じ色の瞳も、白い肌も、細い手足も。
何一つ変わらないのに。
千歳を好きだと自覚したからだろうか。
彼女の言動も、行動も、どうしようもなく可愛い。
「お、おはよう……」
表情のない千歳が、微かに笑む。
それに、心臓が鷲掴みにされた。
やばい、顔が赤くなる。直視できない。
口元を押さえて熱をやり過ごそうとする響喜だったが、千歳との間に、信護が割って入った。
「早く行こう、遅刻するよ?」
千歳の手を引いて、彼は先を歩き始める。
その瞬間、彼女は響喜を見た。
しかしそれは一度だけで、千歳は話しかける信護の隣を黙って歩いていく。
その様子はまるで仲の良い恋人同士のようで、腹立たしいことこの上ない。
「宣戦布告、されたでしょう?」
「聞いてたのか?」
聞き返した彼の言葉を、舞香は無言で肯定する。
「俺、千歳が好きだ」
それは、いつかうやむやにしてしまった問いの答えだ。
今ならはっきりと口にできる。
もう、後には戻れない。
信護の告白を聞かなかったことにも、自分の気持ちに気づかなかったことにも、できない。
それなら、突き進むしかないのだ。
「千歳は誰にも渡さない。それが俺の答えだ」
そう自分の考えを口にすると、舞香は翠玉の瞳を静かに閉じる。
「そうね。迷ってた自分がバカみたい。あたしらしくもない」
何かを吹っ切ったような口調で、彼女は宣言するようにはっきりと言葉を紡いだ。
「あたしだって、信護が好きよ。だからあたしも、信護を諦めない」
次に開かれた舞香の瞳は、挑戦的に笑っていた。
授業が早めに終わったからか、食堂が混む前に席を取ることができた。
食堂は、入口側から奥へ続く長いテーブルがたくさん並んでいる。千歳たちは普段、向かい合わせに四人分空いた席へ座るのだ。
彼女はいつものように、空いた席へ、いつもの位置に腰を掛ける。
すると信護が、普段なら千歳の正面に座るはずなのに、なぜか今日は彼女の左隣に座った。
そこは響喜が座る席なのに、と千歳は疑問に思う。
千歳の左隣に響喜、向かいに信護、斜向かいに舞香という席順は、話し合って決めたものではない。ただ何となくそういう風に座っているだけだ。
実際、食堂が混み合っていて、横一列にしか席が取れないこともあった。
だが、今は十分に席が空いていて、いつものように向かいに座ることができるはずだ。
どうして、とは魔法の関係で聞けないが、何となく聞ける雰囲気ではない気がした。
訝しげな視線を信護に向けてみるが、気づいているのか気づいていないのか、彼はにっこりと笑うだけで答えようとしない。
席を取られた響喜は、無言で信護を睨みつけ、足早に千歳の右隣へ腰を掛ける。
助けを求めるように舞香を見るが、彼女は自然な動作で信護の左側に座った。
今日の千歳の食事は、親子丼と八宝菜、スパゲティだ。
しばらく四人は無言で食事を進めていた。いつもなら誰からともなく話し、笑い、弾むはずなのに、今は誰も口を開こうとしない。
明らかに変だ。
そう思っても、それを口にできるはずもなかった。
不意に信護が、親子丼を食べていた千歳を呼んだ。
「千歳、口元にご飯粒がついてるよ」
え、と振り向いた彼女の口元から、彼は白いご飯粒を摘まんだ。
そして、パクリ、とそれを食べる。
「おいっ!」
テーブルを叩いて、なぜか響喜は憤慨した。
それに悪びれた様子もなく、彼は眉を下げる。
「ごめん。嫌だった?」
「別に」
信護のしたことが謝ることなのかも、千歳には分からなかった。
ただ口元のご飯粒を取ってもらっただけだ。
再び、重い沈黙の中での食事が再開される。
やがて信護の向こうで、やや思い詰めた顔をしていた舞香が動いた。
「ねぇ、信護。パセリ食べてくれない?」
「ああ、いい、よ……?」
だが、舞香はオムライスに添えられたパセリを、自分が口をつけたスプーンに乗せて差し出してきたため、信護が身体を引く。
「ま、舞香? できれば皿に置いてくれると……」
「あら、別にいいじゃない」
何とか抵抗を試みる信護だが、舞香は強引に迫った。
「いいから、ほら、口を開けて」
「い、いや……んぐっ」
口を開けたわずかな隙をついて、舞香はスプーンを彼の口に突っ込んだ。
もぐもぐ、と咀嚼する信護に彼女は「おいしい?」と尋ねたが、彼には答える余裕はないようだ。
舞香はさらに避けたグリンピースを信護に押しつける。
千歳は、隣で繰り広げられる攻防に目を向けることなく、目の前の食事に徹していた。
「千歳」
名前を呼ばれて振り向くと、響喜は小さなパフェを差し出してきた。
「やるよ。お前、甘い物好きだろ?」
確かに千歳は食べることが好きで、特に甘い物が好きだ。ケーキ、タルト、アイスに大福に羊羹。三食甘い物でも食べられる気がする。
しかし、彼女は彼の申し出に首を振った。
「でも、響喜さまも甘い物は……いつも食後のデザート、楽しみにしてらっしゃいますし」
響喜も千歳に負けないくらい甘い物が好きで、昼食のランチとは別に、決まってデザートを注文している。
幼い頃からそれを知っている千歳は、やはりデザートは受け取れないと思った。
「俺のことは気にしなくていいから」
「しかし……」
気にするなと言われても、気になるのだから仕方がない。
押し問答を繰り返す響喜と千歳に、話を聞いていた舞香が、信護を押しのけて口を挟んだ。
「だったら、二人で分ければいいじゃない。響喜も食べれて、千歳も食べれるわけだから、万事解決でしょ?」
「それなら……」
なるほど、と納得する千歳に対し、響喜は顔を真っ赤にしていた。
「二人でって……バカッ、何言ってんだ! できるわけないだろ……っ。それじゃ、まるで……」
「まるで、何?」
「いや……」
もごもごと口ごもる響喜を見る舞香は、悪戯っぽく笑った。
「何よ、千歳と食べるのが嫌なの?」
舞香の挑発的な発言に、信護が眉を寄せる。
「待ってよ、舞香。そんなことしたら……」
納得できないと言いたげに、信護が舞香に抗議した。
「そんなことしたら、問題でもあるの?」
「そりゃあ、あるさ。スプーンだって一つしかないのに」
「同じスプーンを使えばいいでしょ? さっき、あたしたちだってそうしたじゃない」
「あれは舞香が勝手に……っ」
そこまで言って、今度は信護の褐色の顔が赤くなる。
「だいたい、女の子ってそういうことを気にするものだろ?」
一つのスプーンしかないことの何が問題なのだろう、と内心で首を傾げる千歳を余所に、舞香はどんどん話をまとめていく。
「あたしは別に気にしないわ。それに、響喜と千歳は、小さい頃から一つのものを分け合ってきたんだから、今さらスプーンのことなんて。ね、千歳?」
「わたしも、気にしない……」
スプーンの話だけなら、まったく気にはならない。
そもそも、なぜ二人がそこまで一つのスプーンにこだわっているのかが理解できなかった。
やぱり、パフェを二人で食べるのは嫌なんだろうか。
二人で食べれば、その分、自分の取り分も減るわけだし。
「響喜さま、やっぱりわたし……」
「いいから食えって」
千歳の言葉を遮って、響喜は彼女の前にパフェを置いた。
コーンフレークの上に乗ったバニラアイスに生クリームとイチゴを飾ったミニパフェが、自分を誘っているように見える。
親子丼も八宝菜もスパゲティもまだ食べ終わっていないが、デザートを一つ食べたところで食べきれなくなることはない。仮に食べ終わっていたとしても、デザートの一つや二つは余裕で入るだろう。
「ありがとうございます」
観念してパフェを受け取った千歳は、スプーンでアイスをすくって口に運んだ。
バニラアイスが舌の上でとろける。これなら満腹のお腹でも、いくらだって食べられそうな気がした。
「美味いか?」
テーブルに肘をついて微笑む響喜の視線がとばっちり目が合ってしまい、何だか気恥ずかしくなってしまった。
今まで見られていることを、恥ずかしく思ったことはないはずだが。
そういえば、食事している姿を見られたくない、と言う人がいると聞いたことがある。これは、そういう心理なのだろうか?
そんなことを考えながら、次のアイスをスプーンですくい、それに生クリームを乗せた。そしてそのスプーンを響喜に向ける。
「響喜さまも」
「だから、俺はいいって……」
身を引く響喜に肩を落としていると、彼女の後ろから信護が声を掛ける。
「千歳、響喜はああ言ってるんだし、一人で食べるといいよ」
「でも……」
そうは言っても、やはり納得できない。
響喜だって、本心は自分が食べたいはずなのだ。
そこで、ふと疑問が湧く。
ならば、なぜ、このデザートを譲ったのか。
いつもは自分一人で食べていたし、去年だって一人で食べていた。持ってきたお菓子を四人で食べることはあったが、響喜が食後のデザートを他人に譲ったことはない。
信護が千歳の口元のご飯粒を食べたことに腹を立てて、自分も彼女の気を引きたかった……などという彼の心情を知らない千歳の頭の中では、疑問符ばかりが増えていく。
「もらっちゃいなさいよ、響喜。千歳がせっかく一緒に食べようって言ってるんだから」
「舞香、てめぇ、面白がってんだろっ?」
「別に? それとも、千歳と同じものは食べられないとでも言うの?」
さらに追及してくる舞香に、響喜は返す言葉がない。
もうアイスが溶けてしまったではないか。
これがもともと響喜のものであることを譲れない千歳は、スプーンの上で溶けたアイスを食べ、先ほどと同じようにスプーンにアイスを乗せた。
「《響喜さま、口を開けてください》」
「うっ……」
あ、と思ったときにはもう遅かった。
「申し訳ございま……」
謝罪の言葉を口にしようとしたが、ただ何もせずに魔法で口を開かされた響喜の姿が可笑しくて、言葉が途切れてしまう。内心で笑いを堪えるために、千歳は微かに肩を震わせながらアイスを彼の口へ運んだ。
魔法はすぐに効力を失い、響喜はアイスを味わっているはずだが、彼の表情は険しい。
「……覚えてろよ」
怒っている……のだろう。
顔を真っ赤にして、眉間にシワを寄せてこちらを睨んでいる。
当然だ。許可もなく魔法を発動してしまっただけでなく、間抜けな顔をさせてしまったのだ。あまり、というか全く迫力はないが、やはり怒っているのだろう。
いくら大好きなアイスを食べたところで、怒りが鎮まるはずもない。
「……申し訳ございません」
きちんと謝罪しなければ、と口にすると、響喜は千歳の手からパフェを取り上げた。
まだ食べ足りない気持ちをグッ、と堪える。
あのデザートは響喜のものなのだ。
すると、スプーンでアイスを掬い上げた響喜は、仕返しとばかりにそれを千歳の口にねじ込んだ。
突然冷やされた口内に、一瞬頭が真っ白になる。
してやったり、と悪戯っぽく笑う響喜に、再び恥ずかしいような、何だかよく分からないものを感じたが、分からないものを考えても仕方がないと千歳は思考を放棄した。
今は、冷たくて美味しいアイスに浸りたいのだ。
そして、添えられたイチゴを差し出す響喜に、千歳はその小さな口を開けるのだった。