第一話 魔央高校
広大な敷地の中、一か所だけ、近づいてはいけないところがあった。
それは屋敷の離れで、鬱蒼と茂る森のような庭に隠されていた。
少年がそれに気がついたのは先日のことだ。
歳の離れた兄に尋ねると、「あそこには近づいてはいけませんよ」とだけ言われた。
少年は納得できず、とうとう頷くことをしなかった。
翌朝。まるで冒険に出かけるような気分で、少年はその禁じられた屋敷の離れに向かう。
広い庭の森はほんの小さなものだが、まだ幼い少年にとっては深い森と同じ。家に帰れず、一日中迷ったこともある。
だが、今はその心配もない。迷子で泣いた頃に比べて身長は伸び、背の高い木々の間から屋敷の屋根が見えるようになったのだ。
少年は森の中を、ちょこんと顔を覗かせる瓦屋根を目指して走り抜けた。
辿り着いた先は、造り自体は小さいが、少年の住む母屋と同じ木造建築の屋敷。建てられてあまり年数が経っていないのか、まだ新しいようだ。
ぐるりと離れを一周するが、他には何もなさそうで、少年はがっくりと肩を落とす。正直、せっかく早起きをしたのに、期待外れだった。と言っても、何を期待していたのか本人も分かっていなかったが。
朝食に遅れてはいけないから、と少年が身を翻したとき、微かに声が聞こえた。
少年の家系は非常に聴力が良く、音の聞きわけも得意だった。そして、例に漏れず音に敏感な少年は、自分の耳が拾った声を、気のせいだとは微塵も思わなかった。
どこから聞こえたのか、と離れの屋敷を周る。角を一つ曲がったところで、少年の上からその声が聞こえた。
それは本当に小さな声で、少年の背よりも少し高い位置に、鉄の格子がついた窓があった。ガラスなどついていないようで、格子の柱に白くて細いものが捲きついている。驚くほど白いそれにぎょっ、と息を呑むが、それはよく見ると人の手だ。
ここに人が住んでいたことに驚きながら、少年は声を掛けてみた。
「だれ?」
返事が返ってく来る様子はない。少年はもう一度尋ねる。
「ここに、すんでるのか?」
すると今度は、耳触りの良い澄んだ声がそれを肯定した。
声の調子からして、あまり歳の変わらない少女。
少年は背伸びをして格子に手を伸ばし爪先立ちをするが、わずかに届かない。
仕方なく、少し離れて助走をつけ、少年は格子に飛びついた。腕の力を使い、身体を引き上げる。
何とかよじ登って格子の内側を覗いた少年は、その部屋の主と思しき少女の奥に広がる光景に言葉を失くした。
その部屋は、何もなかった。
石張りの壁と床。隅には申し訳程度に本が数冊置いてあるだけで、とても部屋とは言い難かった。
少年は目の前の少女に焦点を合わせる。
長い黒髪の少女だ。前髪も後ろ髪も、伸ばしているというよりは、ほったらかしにしているというほうが正しい気がする。着ているものは簡素で、腕は白く、折れそうなほどに細い。足までは見えないが、おそらく腕と同じであろうことが容易に想像できる。
「《あなたは、だれ?》」
「《おれのなまえは、おとはひびき》」
尋ねたのは少女の方だ。
その少女の問いに、まるで何かに操られるように、言葉が口をついて出た。
少年は自分の喉に触れるが、特にどこか変なところは感じられない。
「《おとは、ひびき? どんな“じ”をかくの?》」
「《おと、はね。ひびく、よろこぶ…》」
またも、自分の意思とは違う何かが少年の口を動かす。
しかし、それが何なのか少年には見当もつかない。
「よろこびが、ひびく……とても、すてきななまえね」
長い前髪の隙間から、少女の大きな瞳が微笑んだ気がした。
喜びが響く。
そんな風に自分の名前を考えたことがなかった響喜は、このとき初めて自分の名前が綺麗なものだと思えた。
胸の奥が、熱い。
身体の中で動く心臓の鼓動が、妙に気になった。
「きみの、なまえは……?」
カラカラに渇いた喉から、何とか絞り出す。
それと同時に風が吹いた。
少女の靡いた前髪の隙間から、大きな黒い瞳が覗く。
「ちとせ。わたしのなまえは、ことのえちとせ」
――五歳の夏、少年と少女は出会った。
このとき少年の中に芽生えた淡い想いは、まだ名前もつかないまま、彼の中で眠っている。
全ての人間は、一つだけ魔法を使えた。
なぜそんなことができるのか。長年研究されているが答えは出ず、ほとんどの人々はただそういうもの、とだけ認識している。
魔法は親から子へ遺伝する。
苗字に魔法と同じ字を持つ彼らには、同じ魔法でも、強い魔法、弱い魔法がある。そして、特に強い魔法を持つ人間の家は栄えていた。
そんな中、一つの魔法であらゆる魔法を使う魔法使いがいた。
『言』葉。
苗字にその字を持つ魔法使いは、同時に世界を掌握するだけの可能性を秘めている。
音羽響喜は、先日、高校二年生に進級した。
国立魔央高校。
大学に附属するこの学校は全寮制で、三国に一か所ずつ建てられた唯一の魔法学校だ。
今までは、魔法は親から遺伝するため、『親に習うもの』として魔法を教える学校はなかった。
彼は、『音』の字を持つ音魔法使いの名家の次男坊。
建設当初、あまりに入学希望者がいなかったため、王家や権力者の親族、または名家に、魔法学校への入学の誘いがあったらしい。
窓際、中ほどの席に座る響喜は、そこから見える満開の桜が咲き誇る景色を見ながら、欠伸を噛み殺した。
現在は三時限目で、科目は歴史。昼食まで後一時限残っている。
黒板に書き連ねられる文字を懸命に追うクラスメイトに倣って、響喜もそちらに目を向けた。
淡い水色のスーツに身を包んだ女性は、響喜のクラス担任である速水潤子。色素の薄い癖のある髪は肩にかかるほどの長さ。優しい顔立ち通りの性格で男女問わず生徒に慕われていた。
柔らかな声音が歴史の背景を語る。
「私たちの住んでいる陽生国は、両隣の海琉国、月映国と共に一つの王国でした」
三つの領地を治めていたのは、国王の信頼が厚く、また国で最も魔法の優れた領主たち。
しかし、ある日国王が死に、病弱だった王子が王位を継承したものの、やはり長くは生きられず。正妃を深く愛していたために他に妃を持たない国王には、亡くなった王子以外に子がいなかった。
次に王の座に就くのは、三人の領主のうち、一人。
そして誰も、その座を譲ることはしなかった。
当然、戦争が起きた。
陽生領を治める陽王院の領主の『火炎魔法』が燃え盛る。
海琉領を治める海王院の領主の『水流魔法』が大地を飲み込む。
月映領を治める夜王院の領主の『幻影魔法』が混乱を招く。
五年の月日を費やし、多くの命が消え、それでも決着はつかなかった。
やがて彼らは、領地を国と改め、決別した。
一つの王国は、三つの国となったのだ。
それでも、たびたび戦争は起こった。互いに粗を探しては、それを原因に戦争を起こしたのだ。
そして互いの兵力が尽きた頃、互いの利益を鑑み、和平条約が結ばれる。しかし、戦争は無くならなかった。
そして、四度目の和平条約が結ばれたのは、今から五十二年前のこと。
「その条約をきっかけに国王が代わり、三国の間で積極的に文化交流が行われるようになりました。互いの文化を取り入れることで国を発展させる。国民の多くは、今の王たちに期待しているようです」
速水が言い終わるより先に、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
「今日はここまで。次は魔法実技の授業ですね。皆さん、頑張って下さい」
浮かれる生徒たちににっこりと声援を送って、彼女は教室を去って行った。
魔法実技。
魔法を教える学校であるためか、生徒はこの授業が好きだ。
魔法実技の授業は、魔法の特性によってクラスを分け、全校合同で行われる。
炎や剣のように、攻撃性のある魔法を使う生徒は『能力系』。その中で、近接、遠距離、防御、万能にクラスが分けられる。
物を動かしたり、傷を癒したりできる魔法使いは『支援系』。学校内でも特に割合が多く、移動や治療、研究などクラスもその分たくさんある。
攻撃性の高い魔法使いは暴走させることがないよう力の制御を学び、救助活動や研究などの魔法に長ける者はその幅を広げるための術を学ぶ。
「響喜」
眠気も吹っ飛び、早く更衣室に向かうべく席を立ったところへ、馴染みのある声が彼の肩を叩いた。顔を向けると、褐色の肌、黄玉の瞳、そして輝く銀色の髪を持った少年が立っている。それは月映国の人間の特徴で、少年は一年生のときに留学してきた守屋信護だ。
すぐに体操着を用意し、二人は更衣室へ向かう。
陽生国は黒髪黒瞳が特徴だ。文化交流が盛んになり、この学校でも他国の留学生が年々増えているとはいえ、信護の外見はかなり目を引いていた。
それでも彼は、その柔らかい物腰や整った目鼻立ちが女子生徒から高い評価を受けている。廊下を歩くたび振り返る女子生徒が多いのは、そのせいだろう。
響喜の場合、色素が薄い短髪に少しつり上った目、背は信護よりやや低い。性格は無愛想というほどではないが、彼のように丁寧でもない。女性が好むのは、やはり優しい男なのだろう。
「そういえば、実技の授業、一緒に受けるのは初めてだな」
「去年は教室も実技も、クラスが違ったからね」
「今年は俺と同じ、『能力系万能クラス』か」
信護は去年、『能力系防御クラス』を受けていた。それは、彼の持つ魔法が『結界』だからだ。
魔法実技は、自分の持つ魔法に合わせて生徒自身が選択する。より多くの技術を学ぶため、ほとんどの生徒が毎年違うクラスを選択していた。
響喜も去年は、『能力系遠距離クラス』を選択している。
しかし、受けた授業は一年を通して学ばなければいけないため、高校三年間で学べる授業は必然的に三つまでだ。
「僕の結界は守るだけじゃなくて、攻撃にも応用できるから。ちゃんと攻撃面でも制御を学んでおきたいんだ」
それは言い換えれば、信護の一族は、『守護』の魔法使いの中でもそれだけ優れているということだ。
「おい、どこ行くんだよ?」
不意に、廊下を左に曲がろうとした信護を呼び止めた。
「どこって……更衣室だろう? 早くしないと遅れるよ?」
それを聞いて、響喜は呆れたように大きくため息を吐く。
「あのな……何度も言うけど、更衣室はこっちだ。そっちは反対」
そう言って、響喜は右へ続く廊下を指差した。
勉強も運動もできる信護の、唯一の欠点は、極度の方向音痴だ。それはもう、彼の選ぶ道の反対を行けば迷路から脱出できるほど致命的に。
「そうだっけ? なかなか覚えられないんだよなぁ。響喜と一緒に来て正解だ」
「絶対一人で出歩くなよ。迷うんだからな」
「分かってる、分かってる」
笑いながら、彼は響喜の後に続く。
確かにこの学校は広い。
だが、せめて普段使う校舎の中くらい、いい加減覚えられないのか。
信護を一人で出歩かせてはいけない。
彼と出会って一年、そのことは身に積まされていた。
春の暖かい陽気が降り注ぐグラウンドに出た二人を待っていたのは、同じように眩しい金色の髪を波打たせた少女だった。
「もう! 二人とも何してたのよ。授業が始まっちゃうじゃない」
腰に手を当てて、翠玉の瞳を吊り上げる彼女の名は、五十嵐舞香。鮮やかな髪と瞳は、海琉国出身の母親譲りだ。たまに意地の悪いことを言うこともあるが、根は面倒見が良く責任感が強い。響喜にとっては、物心ついたときから一緒にいる幼馴染みだった。
その彼女の後ろから、ひょっこりと少女がもう一人顔を出す。舞香より背が低く、手足が驚くほど細い。長い黒髪と同じ色の大きな瞳は、硝子玉のように透き通っている。
言枝千歳。現在、音羽家に身を寄せている少女だ。
「響喜さま、そんなに気にしなくても大丈夫です。信護も……。先生はまだ来てない」
音羽家に多大な恩を感じており、音羽の人間である響喜に対して敬語を使う。敬語もさま付けも必要ないと何度も言い聞かせたが、何でも素直に従う彼女が、そこだけは頑として譲らず、今ではもう諦めていた。
「千歳、二人を甘やかしちゃ……」
「まあまあ、間に合ったんだからいいじゃないか」
「そういう問題じゃないでしょ!」
舞香の小言に信護は肩を小さくしているが、響喜は幼い頃から慣れているため、右から左へ聞き流す。千歳も本気で気にしている風でもなかった。
そこで響喜は、千歳の黒髪に目を留める。
「千歳、髪が解れてるじゃねぇか。着替えた後、ちゃんと梳かさなかったのか?」
「あ……」
響喜の言葉に舞花の怒声が止んだ。
「まったく……」
「千歳。後ろ向いて」
だが、響喜が触れるより、信護の手が伸びるほうが早かった。
「せっかく綺麗な髪なんだから、ちゃんとしないともったいないよ」
「……ありがとう」
そういう彼は、まるで壊れ物を扱うように優しく、丁寧に、千歳の解れた髪を梳かしていく。
二人の様子に居心地の悪さを感じて視線を無理やり剥がすと、舞花がこっそり耳打ちしてきた。
「何? 響喜ったら、信護にヤキモチ?」
「はぁっ⁉」
いきなりの爆弾発言に声を上げると信護が首を傾げて尋ねてくる。
「どうしたんだい? そんな大声出して?」
何でもない、と信護に返して、響喜は声をひそめた。
「何言い出すんだよ!」
「千歳をとられて拗ねてるんじゃないかと思ったんだけど?」
「い、意味分かんねーし! あいつが世話焼きなのは今に始まったことじゃねぇだろ!」
顔を真っ赤にしながら、響喜は周りに聞こえないように声を小さくして怒鳴るが、舞香には全く答えた様子はなく、ますます焦ってしまう。
「何を話してるんだろ? あの二人」
「知らない」
それぞれのやりとりを余所に、制服から体操服の着替えを済ませた生徒たちは、教師が来るまでの時間を、雑談しながら過ごしていた。
話題はおそらく、定年退職した教師に代わり、誰が能力系万能クラスの魔法実技を担当するのか。
思い思いに予想を立てる生徒たちの前に、ようやくその後任の教師が現れた。
「静粛に」
よく通る鋭く冷たい声音に、生徒たちが一瞬で固まる。
身長は一八〇センチを超えているだろうその男は、屋外での授業だというのにスーツの上着を脱いだだけの出で立ちだ。それでなくとも、気温は日に日に上昇し、制服の長袖も暑くなってきているというのに。
黒い髪を後ろに撫でつけ、四角いフレームの眼鏡の奥から、鋭い眼差しで教え子を一瞥する。
「今日から魔法実技の能力系万能クラスを担当する、氷堂銀だ。前任の教師はあくまで魔法の制御を教えていたようだが、私の授業ではいずれ起きるであろう戦争を目的とした戦術を学んでもらう」
その宣言に、生徒は一斉にざわついた。
「戦争って……」
「まさか、殺し合いをしろ、とか言わないよな?」
「それは犯罪よ。いくら何でも……」
「…………」
実戦を想定した訓練を受けるのは、騎士隊への志願者のみのはずだ。
氷堂の言葉を、響喜たち四人と同じ意味で受け止めた生徒の一人が、挙手をして発言を求める。
「子どもにそんな教育を受けさせていいんですか?」
「お前たちは子どもと言えども魔法使いだ。そして魔法は武器であり凶器。銃や剣と変わりはない。年齢に関しても、私の父が戦争に出たのは十五の時だ」
質問を切り捨てた男に、さらに質問という名の反論が繰り出された。
「でも、今は三国とも互いに友好関係を築けているわけだから、戦争なんて起こらないんじゃ……」
「すでに三度も破られている条約など当てにはならん。仮に現王が条約を守ったとして、次代の王もそうだとは限らんだろう」
再び短く切り捨て、その冷ややかな視線がぐるりと生徒を見渡す。
「他に質問がなければ授業を始める」
ブラウスの胸ポケットから黒い万年筆を取り出した氷堂は、紫色の石をつけたキャップを外すことなく、グラウンドに向けて一振りする。
グラウンドが大きく揺れた。そして、そこから音を立てて、十五本の氷の柱が姿を現す。五本ずつ間隔を空けて横一列に整列するそれらは、春の陽気を浴びても溶ける気配を全く見せない。
「さすがは、『氷』堂ってことか……」
「それだけじゃないよ、響喜。柱の下を見て」
信護の言葉を受けて、響喜たちは視線を柱の下に動かす。
十五本の氷柱全ての根元に、淡い光を発する陣が描かれていた。
「溶けないように『まじない』が掛けてあるのね。氷堂先生は『まじない』の研究をしている研究者なのかも」
「それにしても、魔法陣をあれだけ用意するなんて、ご苦労なこった」
「まぁ、仕事熱心な先生ってことなんじゃない?」
「あたしだったら、絶対やりたくないわ」
「…………」
計算を基に文字や図形を配置する魔法陣は、一つ描くのに早くても五分から十分は掛かるだろう。その労力を考えると、何だか気が滅入る。それ以上に、あんな大きな男が、チョークでちまちまと魔法陣を描いている姿を想像すると、吹き出しそうだった。
そう言っている間に、氷堂は説明を始めた。
「この氷柱は五本で一組。三人ずつできるように用意した。この柱を、一度の魔法で五本全て破壊しろ」
「一度に五本⁉」
「そんな無茶な」
悲鳴を上げたのは、一人や二人ではなかった。
「泣き言は聞かん」
氷堂が手本だとばかりにペンを構えると、空中に鋭い氷の槍が現れる。一拍置いてペンを振り下ろしたのを合図に、槍は五本に砕け、それぞれ氷柱に向かって飛び、それらを破壊した。
さらに一振りすることで、壊れた氷柱が復元される。
「準備ができた者から始めろ」
そう言われても、すぐ動くことができるはずがない。
「お前たち、前に出なさい」
ざわざわと互いに相談し合う生徒に苛立った様子もなく、氷堂は近くにいた生徒を三人指名し、氷柱の前まで行くように指示ではなく命令を下す。
三人は互いに顔を見合わせながらおずおずと氷柱の前へ移動し、紫色の石の嵌められた『媒介』を手にそれぞれ魔法を発動させた。一人は炎を、一人は雷を、一人は大きな土を固めた土塊を五つ作り、それを氷柱に投げつける。
ひゅん、と風の切る音に続いて、柱の砕ける大きな音が響き、十五本中四本の柱が破壊された。
その結果を見た氷堂は、実技を終えた生徒に目をくれることなく、次の生徒を呼ぶ。
「次」
短く近くの生徒を三人指名する。しかし結果は、先ほどの生徒たちとあまり変わらない。
その後も生徒達は氷堂に指名されるままに魔法を放つが、結果はあまり思わしくなかった。
「次」
氷堂の声に、響喜は信護と舞香を誘う。
「次は俺たちが行こう」
「ああ」
「分かったわ」
「響喜さま。信護と舞香も。頑張って」
千歳の声援に、響喜はくしゃり、と彼女の頭を撫でて氷柱に向かった。
数メートル先に鎮座する氷柱は、端から見るよりも遠く感じる。
響喜は腰に巻いたホルスターから、銃身に紫色の石が飾られた愛用の紅い小銃を抜いた。
紫色の石は『魔晶石』と呼ばれる天然の魔力の塊で、本来『媒介』と呼ばれるべきなのはこちらの石だ。
魔法使いの魔力は、そのままでは体外へ出ることができず、魔法を発動することもできない。そのため、魔晶石を介する必要があるのだ。
媒介として使うこの石は、魔力の通り道でしかないので、大きさや数に意味はない。ほとんどの魔法使いは自分の好みに加工し、装飾をする感覚で使いやすい物に嵌めこんでいる。
また、魔晶石は魔法陣と併用することで、『まじない』としても効果を得られた。
緻密な計算と古代の文字を組み合わせた魔法陣は、個人の持つ魔法以外でも使用できるため、日々研究と開発が進められている。その場合、魔晶石の魔力を使用するので、大きさや数、質の良さが意味を持ってくる。
響喜は両脇を見た。
左側では、信護が右耳につけたピアスに触れ、五つの四角い結界を形成する。
右側では、両のこめかみを飾る紫色の花のヘアピンに触れ、舞香が風を纏う。
響喜も小銃を構え、石に魔力を注ぎ、頭の中で発動する魔法をイメージした。
銃の中に弾は入っていない。必要ないからだ。
自然が発する音波が銃口から入り、五発の銃弾として装填されるのを感じる。
次の瞬間、彼が引き鉄を引くのと、信護たちが魔法を発動するのはほぼ同時だった。
五つの音弾と、攻撃用に作られた結界、風刃。
放たれた十五の魔法が、十五本の氷柱に襲い掛かった。
そして――。
「二本か……」
「僕は三本」
「あたしは響喜と同じ、二本よ」
頭の中のイメージで魔法を発動させるが、狙いを定めるのは彼らの目と腕。ボールを投げて狙った的に当てようとするのと同じ感覚だ。それを同時に五つ操作しようというのだから、そう簡単ではない。二本倒せただけでも充分だ。
続く他の生徒も、五本全てを破壊できた者は一人もいなかった。
千歳を除いた全員が実技を終え、氷堂は彼女に目を向ける。
「お前が最後だ」
「え……」
冷徹な眼差しに晒され、千歳が怯んだ。
「わ、わたしは……」
「待って下さい」
舞香は彼女を庇い、それに続いて響喜と信護も氷堂の前に出る。
「千歳の魔法は特殊だ。こんな攻撃的な魔法を使うことはできない」
きっぱりと言いながら睨みつける響喜を、氷堂は冷ややかに見下ろした。
「特殊、というのは魔法の危険性を指しているのか? だったら他の魔法でも同じことだ。先ほども言った通り、魔法は凶器。その使い方を学ぶことで、初めて武器となり得る。国のため、そして己を守るためにも、それを知っておく必要があるだろう。例外はない」
「ですが、先生。言枝さんの魔法は、僕たちの魔法と危険性が異なります。彼女の魔法は意図せず発動してしまうんです。誤発動では済まされない事態になるかもしれない」
言葉を使う魔法使い。彼女の魔法は『希望』だ。
何かをしたい、何かをして欲しい、何かが欲しい。
そんな願いを、欲求を、魔法として発動してしまう。それが千歳の持つ魔法だ。
その上彼女は、信護の言った通り、無意識に口にした言葉すら魔法に変えてしまう。
それがたとえ疑問でも、答えを望むことになってしまい、口にすることができない。
「誤発動は未熟な証。そういう魔法使いこそ、訓練が必要なのではないのか? 危険だからと言って魔法を禁止していては、本人のためにならない。違うか?」
「それは……」
最もな言い分に、響喜は反論できなかった。
「それとも、こんな『化け物』に魔法を使わせるなと、そう言いたいのか? 一人一つしか魔法を使えないはずなのに、一人でありとあらゆる魔法を使いこなし、媒介すら必要としない言葉使いは危険だと」
その氷堂の台詞に、身体中の血が一気に沸騰する。
「この……っ」
逆上したのは舞香だけではなかった。信護の黄玉の瞳が剣呑に光り、舞香の金色の髪が風に煽られ、響喜が持っていた銃を握り直す。
だが、それを止めたのは千歳だった。
小さな手に体操着の裾を引かれ、響喜は気を張り詰めたまま振り返る。
「千歳……」
響喜に名を呼ばれ、彼女の無表情に影が落ちる。
「クラス全員が実技を行ったのに、わたしだけやらないのは道理が通りません」
「それは……」
仕方のないことだ、と言いかけて響喜は言葉を噤む。
彼女の言いたいことは、そういうことではない。
「わたしなら、大丈夫です。ちゃんとやれます……」
それは、上手くやれる。失敗することはない、という意味だ。
胸の奥がもやもやする。まるでパイプの中に石が詰まっているように。何かが胸に埋まっているようだった。
「…………分かった」
しばらく考えるように黙っていた響喜がようやく息を吐き出すように言うと、微かに千歳は頷いた。
氷柱の前に立った彼女の黒い髪が、風に吹かれて靡く。
同じ授業を受ける全員の視線の中で、小さな手を胸の前で組んだ千歳は、ゆっくりと息を吸い、言葉を紡いだ。
千歳に媒介は、魔晶石は必要ない。
「《微弱なる音の波動よ……》」
その言葉だけで、響喜が使った魔法を使おうとしていることが分かった。
彼女の言葉に従い、木々のざわめきや、鳥の鳴き声が発する微かな音波が千歳の手に集まっていく。響喜はそれを、音魔法使いであるがゆえに視覚でとらえることができた。
千歳はさらに言葉を重ねた。
「《固き弾丸となって――》」
千歳の紡ぐ言葉を受けて振動数を増し、強化された自然の音波に、クラス全体が息を呑む。
やがて、凛とした彼女の声が、望みという名の命令を下す。
「《五本の氷柱を打ち砕いて》‼」
キィィンと形成された弾は一つ。その小さな音の弾丸は、目にも止まらぬ速さで、うねるように柱の横へ曲がった。そして駆け抜けた弾は、氷柱を真横から、指示された通り、撃ち漏らすことなく、五本全てを破壊した。
目を瞠り固まる生徒。その中で、渇いた拍手が一人分鳴る。
響喜が顔を向けると、満足そうに手を叩く氷堂がいた。
「見事だ、実に素晴らしい。あらかじめ『五本の氷柱』と指定して撃ち漏らしを避けられるとは」
「おい、いい加減に……」
氷堂の勝手な賞賛に、響喜は声を荒げようとする。だが、それより早く信護が口を開いた。
「もういいでしょう。行こう、千歳」
千歳と氷堂の間に割って入った信護は、彼にしては珍しく語気を荒げる。そして、彼女の腕を引き、そのまま校舎の方へ足早に去って行く。
「言葉使い……やはり、あの魔法ならば……」
呆然と信護の背を見送っていた響喜には、吐息と共に紡がれた氷堂の言葉は耳に届かなかった。
「信護、痛い」
そう言われて、彼はようやく足を止めた。
どうやら学校の下駄箱まで戻って来たようだ。
さすがに、目的地が見えていれば迷うこともない。
「ごめん、千歳」
手を離すと、彼女の細く白い腕には彼の手の痕が赤く残ってしまっていた。
それを見た信護の顔が大きく歪む。
「本当にごめん。痛む?」
赤くなってしまった箇所を撫でながら尋ねる彼の声は、今にも泣き出しそうに震えている。
こんなつもりじゃなかった。
ただ、彼女を傷つけるあの教師から千歳を守らなくては、と。
そのつもりだったのに。
これでは、誰が彼女を傷つけたのか分からないではないか。
「平気。見た目ほど痛くない。大丈夫」
表情の乏しい千歳の顔は、強がっているようには見えない。
それでも、信護の気持ちは晴れなかった。
生徒たちの視線を受けた氷堂は、眼鏡を中指で押し上げて彼らを見渡す。
「まあ、いい。授業も終わりだ。今日は解散。以上」
ありがとうございました、とやや気の抜けた返事をした生徒たちは、友人と話しながら校舎に散っていく。
「あんな怒ってる信護、久々に見た」
怒ること自体多くはないが、信護の沸点は意外と低い。
そんなしみじみと言う響喜に舞香は答えなかった。彼女はただ、千歳と信護の姿が見えなくなった校舎の入り口を、ずっと見ている。
「舞香?」
響喜の問いかけに、はっと我に返った舞香は、何かを取り繕うように言葉を発した。
「あ……えぇ、そうね。それより、ほら、あたしたちも早く戻りましょう?」
いつもと同じ笑顔。だが、先の彼女の表情を見た後だからか、響喜にはそれがぎこちなく見えた。
自分の言った台詞は無意味に消えてしまったわけだが、彼はそのことには触れず、ただ小さく頷く。
「僕は……」
そこまで言って、言葉に詰まる。
何を、言いたいのだろう。
それすらも分からず、信護は千歳の手を離せずにいた。
彼女の手はとても小さく、力を入れれば簡単に折れそうなほど細い。
「信護、わたし、本当に痛くない。大丈夫だから」
気遣うように見つめる少女の目は、乏しいながらも心配する色が見て取れる。
まだ腕のことを気にしていると思ったのだろう。
そんな彼女がたまらなく愛しくて、胸を切なく締めつける。
言葉を重ねる千歳の髪に手を伸ばし、信護は無意識に、その小さな頭を抱えるように、彼女の細い身体を抱きしめた。
「千歳……僕は、君が……」
そこまで言いかけて、ざわざわとグラウンドから戻ってきた生徒の気配に、信護はゆっくりと千歳の身体を離した。千歳の表情は無垢な子猫のようで、異性に抱きしめられたことに対する戸惑いは一切感じられない。
戻ってきた生徒の中には、響喜と舞香の姿もある。
「もう! 信護ったら、どうして先に行っちゃうのよ!」
「ご、ごめん……」
舞香の声は冗談まじりに言っているが、彼女の目は本気で自分を責めているように感じて、彼はたじろいでしまうが、意識は自然と、響喜と話している千歳のほうへ向いてしまう。そんな彼の様子に気づいたのか、いないのか。舞香は小さく嘆息した。
「ま、別にいいわ。千歳、早く着替えましょう。お腹空いちゃった」
金色の髪を揺らしながら、舞香は頷く千歳を半ば強引に引っ張って行った。
「あ、響喜さま、また後で……」
「おう」
千歳に片手を上げて応じた響喜に、信護は微かな劣等感を抱いた。
彼女はどんな状況でも、響喜のことを忘れない。
恩を感じているから? 彼女は度々そのようなことを言っていた。
けれど――。
隣で陽気に話す、同性の中では最も親しい友人。
そんな彼が、たまに、どうしようもなく煩わしい。
そう思うことが、確かにあった。
三国にある魔央高校は、五十二年前に新しく代替わりした国王たちが、平和の証として建てたものだった。校舎のデザインは、芸術センスに秀でた海琉国が。校舎の防壁や寮などのセキュリティは、まじないの研究が進んでいる月映国が考案。そして、高い建築技術を誇る陽生国が建設した。
寮のドアを開くと、豪奢過ぎない華やかなエントランスが出迎えてくれる。正面には寮監督の部屋があり、その両脇から延びる二つの階段が二階で合流している。そこには食堂、さらに三階は談話室になっていた。
そして、エントランスから右側に続くドアは女子寮へ、左側に続くドアは男子寮へ繋がっている。
部屋は生徒一人に対し一部屋。
寮へ続くドアノブの中央には、不可思議な模様と紫色の石が埋められている。二つのドアには、それぞれ男性、女性しか入れないようまじないが掛けられているのだ。
まじないは魔晶石の魔力を消費するため、月に一度交換しているらしい。
全ての授業を終え、寮のエントランスで別れた彼らは、各々自分の部屋へ帰った。
夕食を済ませた四人は、去年からの恒例で談話室に集まっていた。部屋の半分は遊戯室として使えるよう設備が整えてある。
部屋は、学校の生徒が多く利用できるようにかなりの広さがあり、談話できるスペースは、大人数用の大きめのテーブルや勉強するためのカウンターテーブル、恋人や少人数の友人と使える二人掛けのテーブル。
大人数用に用意されている二人掛けのソファーでローテーブルを挟んだ席には、響喜の右隣に千歳、正面に舞香、斜向かいに信護という形で座っていた。
話題はもちろん、四時限目の授業でのこと。
「あぁ、もう! 頭に来ちゃう!」
そう言いながら、舞香はミルクとシロップで甘くしたアイスコーヒーを一気に飲み干す。
彼女は金色の髪をつむじで束ね、レースをあしらった淡いピンク色の服にデニムのミニスカートを穿いていた。
その隣で、信護も大きく相槌を打つ。昼間の行動が示す通り、彼にも許しがたい出来事だったようだ。ブラウスの上に緑色のベストを着た信護は、本人の落ち着いた雰囲気によく似合っている。
白いワンピースに黄色のカーディガンを羽織った千歳は、彼らを宥めるように口を開いた。
「わたしは気にしてない。それに、氷堂先生の言ったことに、一つも間違いはなかった」
「間違ってんだよ。お前はもっと怒れ」
隣りにいる千歳の頭を軽く叩くと、千歳は「いたっ」と小さく声を上げる。
氷堂の暴言とも取れる台詞を、何の抵抗も気概もなく受け入れる彼女に微かに腹が立った響喜は、コップに注がれているオレンジジュースを自棄気味に飲み干した。
着慣れた赤と黒のロングTシャツの袖を少し下ろす。深草色の膝丈のジーンズから入って来る空気は少し冷たく、時期的に穿くにはまだ早かったようだと少し後悔した。
「でもさ、あいつが言ってたこと、どう思う? 戦争が起こるって話」
響喜の話題転換に、信護は褐色の指を顎に当てる。
「僕は一理あると思ってるよ。でも、今の国王たちは今までの人たちと違うとも思う」
「……国王同士、年に何回も、自国について直接会って意見を交換してるって聞いた。響喜さま、わたしは、王さまたち自身が戦争を憂いているように感じます」
「そういうことって、昔はなかったんでしょ? 和平条約を交わしたって言っても、冷戦状態だったって、速水先生が授業で話してたわ」
千歳と舞香の話は、担任である速水から聞いたものだ。歴史の教師である速水の授業は分かりやすいと評判で、彼女自身、世界の情勢にも詳しい。
「『三度も破られた条約は当てにならない』、か」
確かにその通りだと響喜も思う。今が良くても、戦争の引き鉄は何がきっかけで引かれるかは分からない。歴史の授業でも習ったが、度々起こった戦争の理由は、そのほとんどが下らないものだった。巻き込まれて死ぬのはお前たちだけではないのだと、憤りを感じるほどに。
「もし戦争が始まったら、あたしたちも戦わなくちゃいけないのかしら……?」
歴史の中の出来事が突然現実味を帯び、舞香は震えた声を出す。
実際、氷堂はその可能性を考え、生徒たちに戦闘訓練をさせているのだ。
陽生国は、国土自体は世界一だが、それに比べて軍事力が低い。今までは何とか持ち堪えてきたが、これからも上手くいく保証はなかった。
軍だけでは力が足りず、一般市民まで戦争に参加しなくてはならなくなったのも事実。
氷堂の父が十五歳のときに戦争に駆り出されたのならば、その可能性は大いにある。自分たちには、魔法という大きな武器があるのだから。
「それは、大丈夫」
重い空気を払拭させるように、千歳が明るめの声音を発した。
小さな手のひらを胸に当て、彼女は珍しく微笑を浮かべて響喜を見る。
「もし本当にそうなったら、響喜さまがわたしに『戦争を止めろ』と命令を下さればいいのです。それで全部解決します」
その台詞に、一番に反応したのは響喜だった。
「そんなのダメだ!」
テーブルを叩いて立ち上がった響喜に、周りの視線が集まる。それに気づいて、何事もなかったように座り直したが、頭に上った熱は、そう簡単には冷めなかった。
響喜の態度にやや目を丸くしている彼女は、どうして止めるのか、何を怒っているのか分からない、と言いたげだ。
「千歳。いくら学校一の魔力を持つ君でも、戦争を止めるなんて大きな魔法を使って無事なはずない。魔力が尽きて死んでしまうよ」
信護が優しく、その中に責めるような響きを持たせて言った。
言葉使いの魔力は、響喜たちやそこらの魔法使いとは及ばないほど遥かに高く、強い。強さは魔力の質、高さは魔力の量を表している。魔力が強ければそれだけ強力な魔法が使え、魔力が高ければそれだけ長い時間魔法を使っていられる。
だが、そんな彼女の魔力をもってしても、世界に干渉し、「戦争を止める」という魔法は無謀だった。それに、仮にその望みが叶えられたとしても、その先に彼女がいられる可能性は限りなく低い。
魔力が切れれば魔法が使えない、ということはないのだ。足りないときは、生命力が魔力を補う。つまり、命をかければ自分の力量以上の魔法が使えるということ。
しかし、それを意識的にも無意識的にも使えるものはいない。命を失う恐怖が、その行為を止めるからだ。それは裏を返せば、死を恐れない人間ならば、生命力を消費するほどの大魔法を使うことができるということだった。
そして、信護や舞香がどう思っているか分からないが、響喜は、千歳ならそれができると思っていた。
なぜなら、彼女は昔、死に近い場所にいたから。
実際、千歳の目は本気だった。
そこにはやはり、己が死ぬことへの恐怖は微塵も感じられない。
「信護の言う通りよ。絶対にそんなことしちゃダメ」
子どもに聞かせるように言う舞香に、千歳は「でも」と続ける。
「わたしだって……」
響喜はそんな彼女の頭を撫でて、強引に黙らせた。
「お前が何かする必要はねぇよ」
言葉はぶっきらぼうだが、その声は優しい。
「そういうことは、国の偉い人たちに任せておけばいい。お前は俺の傍にいればそれでいいんだ」
何とかそうまとめてみるが、彼女の顔は納得できないと語っていた。
談話室での集まりをお開きにし、響喜は自室に帰ってきた。
生徒の部屋にも、当然まじないが施されている。こちらのまじないはエントランスのものとは少し違っていて、『部屋の主』のみが開けることができるようになっていた。
つまり、響喜の部屋を開けることができるのは響喜だけ、ということだ。
暗い夜の景色を空色のカーテンで隠し、電気をつけて明るくしている。
部屋の家具は全て備え付けで、生徒の部屋が全て同じ作りになっていた。右奥にはベッド、その足元の壁にクローゼットが埋め込まれ、左奥に机、その手前に本棚。広さも一人で過ごすには申し分ない。
響喜はポケットから携帯電話を取り出した。メモリから兄の名前を見つけ、コールする。まだ九時だから、電話を掛けるには遅くない時間だ。
三度目のコールを聞く前に、相手は応答した。
「もしもし、奏司兄さん?」
『ええ。こんばんは、響喜』
低すぎない声が、彼の耳に届く。
音羽家当主である音羽奏司は、五歳離れた響喜の兄だ。尊敬する兄の声に、自然と背筋が伸びる。
魔央高校を首席で卒業した兄は、病気で他界した父に代わり、大学へ行きながら当主としての仕事をこなしていた。常に冷静で、弟に対しても敬語で話すのは昔からの癖だ。
夜の挨拶をする奏司に「こんばんは」と返し、響喜は昼間の氷堂のことを話した。
『そうですか、そんなことが……』
「兄さんは、ひょ……じゃなくて、先生の話をどう思いますか?」
つい「氷堂」と言いそうになって、慌てて「先生」と改める。礼儀に厳しい奏司の前で、教師を呼び捨てにはできない。口調も、兄に対しては自然と丁寧なものになる。
電話の奥では、思案している兄の様子が窺えた。
『そうですね。その氷堂先生の言っていることに間違っているところはありませんね。実技の授業に関しても、ほとんど千歳を見学の状態で受けさせる授業方針にはずっと疑問を感じていましたし。まぁ、かといって、千歳には簡単すぎて学ぶこともないでしょうが』
電話の向こうで苦笑していた奏司は、「それと」と続けて不意に緊張感を増す。
『いつ戦争が起こるか分からない、という考えには私も同意見です』
信護と同じように、氷堂の考えに同意を示す奏司。その言葉は、いつになく響喜の胸に重くのしかかった。
最初氷堂に聞いた時は反感を持ったが、尊敬する兄の言葉なら、そうなり得るかもしれないと素直に納得してしまう。
『しかし、だからと言って子どもに戦争のための戦術を教えていいとは思いません。子どもは未来の担い手。大人はそんな子どもを守る責任があるのです』
それに、と奏司は続けた。
『魔法は凶器だと氷堂先生は言ったようですが、私はそうは思いません。誰かの役に立ちたい、大切な人を守りたい。魔法とはそれを叶えるための力です。我々はその力を与えられた、私はそう思います』
魔法は、大切な人を守るために使うもの。
奏司の言葉は、胸の中へすぅっと浸透していった。兄はいつも欲しい言葉を自分にくれる。だからこそ、響喜は悩みや不安な気持ちを素直に口にすることができるのだ。
俯いてしまっていた顔を上げた響喜に、携帯の向こうから兄の真剣な声が聞こえる。
『授業は大変でしょうが、千歳のこと、任せてもいいですか?』
尋ねているが、これは「任せますよ」と言っているのだ。
「はい!」
響喜が大きく頷いて意気込むと、電話が切られ、しんとした部屋にツーツーと携帯の音がやけに響く。
その音をしばらく聞いて、彼は力なく腕を下ろした。
「任せて、か……」
魔法実技の訓練を思い出し、兄の期待に高揚していた響喜の気持ちは一気に降下していく。
一度に五本の氷柱を破壊した千歳の魔法。
その結果は、自分より千歳が優れていることを証明していた。
事実、言葉魔法を使う彼女なら、誰に狙われても、自分で何とかできるだろうし、響喜が守る必要などないのかもしれない。
けれど。
――もし本当にそうなったら、響喜さまがわたしに『戦争を止めろ』と命令を下されればいいのです。
響喜の、携帯を握る手に力がこもる。
違う。
千歳が俺たちを守るんじゃない。
俺が、千歳を守るんだ。
それが必要だとか、必要じゃないとか、そういうことは関係ない。
義務とか責任とかではない。
そう決意を固め、響喜は暗転した携帯を机の上に置いた。