若輩、目を向ける
嘉乃が図らずもギャングの元トップと知り合った日から、2週間ほど経った。街はもうすっかり冬の空気だった。嘉乃も寒さに備えてやっとマフラーを購入した。しかし少し前まで使っていたストールは未だ戻って来ていない。
「ヨシノ、ちょっと教えて?」
「あれ、ジョス。いいよ、何?」
ベンチでランチと決め込んでいた嘉乃に友人のジョスリンが話し掛けてきた。ちなみにここはキャンパス内の穴場で、嘉乃が1人になりたい時によく利用している場所だった。
「今度の短期留学で日本に行くことにしたんだけど、行っておいた方がいい場所とかあるかしら」
「そうなの! やったねジョス!」
ジョスリンは日本語学科の学生だった。いつか日本に行くことを夢見ていた彼女にとって、今回舞い降りた短期留学の話は渡りに船だったらしい。
「ありがとう。東京の大学だから、私としては休みに浅草とか、ちょっと足を伸ばして箱根辺りに行ってみようと思ってるんだけど」
「あー、お寺とかそういうのが観たいの?」
「そうね。寺に限らず、神社なんかも観てみたいわ」
「だったら都内でも色々あるかな。有名なのだったら明治神宮とか」
「なるほどね」
そう言ってジョスリンはメモを取る。彼女は日本の宗教文化に興味を持っているらしく、今までも旅行で日本を何度か訪れたそうだ。
「でもやっぱり短期だから京都や奈良には行けなさそうね」
「ちょっと厳しいかなあ……」
「仕方ない、それは次の機会ね。ありがとうヨシノ。参考になったわ」
「いえいえ。お役に立てて何より」
ジョスリンは長い髪を翻し、嘉乃のランチスポットを後にした。その堂々たる背中を見送ってから、嘉乃は残ったサンドイッチを平らげた。
「ジョスも目標1つ達成したかあ」
知り合った時からジョスリンは日本の知識を深めたいと強く語っていた。そのモチベーションが何にあるのかまでは知らないが、学を志す人間の熱意は良い刺激になると、嘉乃はジョスリンを見て思うのだった。
「さて、私ももう少し本腰入れて勉強しないとな」
嘉乃は日本から持参した弁当箱を丁寧に包み、ベンチを立った。今日の放課後は特に予定は入れていない。図書館で本を読んでから帰るかと細やかに計画を立てた。
「ヨシノ、ちょっといい?」
「ん? いいよ」
教室に戻ると、嘉乃に熱烈なアプローチを続けているビリーが声を掛けてきた。
「ヨシノはさ、ダウンタウンにあった小さいバー知ってる?」
「あ、え、もしかしてサンダースって人がやってた?」
嘉乃はあり過ぎるほど心当たりがあった。出来ればもう思い出したくない思い出の1つに関わる場所だった。
「そうそう。俺らよくあそこで飲んでたんだけど、最近店畳んだらしいんだよ。何か知ってたりする?」
知っている。が、それを言うことがどのような結果を呼び起こすかを嘉乃は予想し、ビリーには申し訳ないが嘘を吐くことにした。
「ちょっと分かんないかなあ……お店は何となく知ってたけど……」
「そっか、残念。あそこ穴場だからあんまり人来ないし、メニューも旨いのばっかだから今度みんなで行こうと思ってたんだよ。そしたら閉店しててさ」
「そ、そうなんだ」
知っている。何故閉店したか嘉乃は知っている。しかし真実を言うのは嘉乃を崖っぷちに追い詰めることと同義だった。心の中でビリーに謝りつつ、嘉乃はごく自然に振る舞えるよう努めた。
「また穴場探さなきゃな。もし見付けたら一緒に行こう?」
「うん、みんなで行こうね」
「2人でも行こうよ!」
「はーい」
始業時間に少し遅れていた教授が教室に入って来た所で2人の会話は終わった。今日の講義は、アメリカの経済史が焦点だった。各時代、キーマンの介入は市場に対し大きな意味を持ったと教授は語った。ならばサンダースのキーマンはヘンリーだったのか、はたまたサンダースが最後に頼った人物だったのか。
「んー、終わったあ……」
今日の全ての講義が終わり、固まった体を伸ばしながら嘉乃は呟いた。隣のビリーも荷物を片付けながら首をぐりぐりと回している。
「お疲れヨシノ。この後アーサーたちのバスケの試合があるんだけど行く?」
「んー……」
図書館に寄って行こうとも思っていたが、嘉乃には1つ別の気掛かりもあった。家のコーヒーのストックだった。2週間ほど前にジムの店で買ったコナは、遠慮して買ったせいもあってか残りがあとわずかだった。軽度のカフェイン中毒の嘉乃にとって、コーヒーのストック切れだけはどうしても避けたいところだった。
「ごめんね、今日寄りたい所あるんだ」
「そっか。残念」
「私の分もアーサーのチーム応援しておいてよ。じゃあね」
「了解。それじゃ、また明日な」
ビルと別れ、嘉乃はダウンタウンに向かった。慣れた道を一本外れ、人通りの少ない路地を歩く。人通りは少ないが、危ない香りのする人間も居ない。要するに路地に居る人間は嘉乃だけなのだった。このような立地でよく商売が成り立つものだと嘉乃はジムの店を心配した。
「こんにちはー」
「いらっしゃい」
今日もジムは無愛想だった。
「あの、コーヒー買いに来たんですけど、今日は学生のお財布に優しいのありますか?」
「味のこだわりとか苦手ある?」
「特にないです」
「じゃあ今日はキリマンジャロかな。少し前の奴だから安くしとくよ」
「ありがとうございます」
「挽くんだっけ」
「はい、そっちもお願いします」
ジムが嘉乃のコーヒーを挽こうと動いたところだった。店の奥の方から甲高い声が聞こえてきた。
「ふざけないでよ! ああもう、やっぱりあんたに頼んだのが間違いだったわ! さよなら!」
嘉乃が呆然としていると、声の主と思しき女性が店の奥の座席から足音荒くやって来た。化粧という武装で固められた顔は、纏った武装の意味を成していなかった。つまり化粧でカバーし切れないほど険しかった。
憤怒の表情を浮かべた女性は嘉乃とジムの横を通り過ぎ、店を出て行った。嘉乃はその表情になまはげや般若を連想し、ジムは怒りのままに鳴らされるピンヒールを見て床の塗装と靴の細い踵部分の心配をした。
「騒がせて悪いなジム」
「店で揉め事起こさないでって言ってるだろ」
「チップ多めに弾むからよ。勘弁」
「ちゃんとあの人の分も払ってよ」
「あ!」
聞き覚えのある声が嘉乃の鼓膜を刺激する。その後柱の陰からひょっこりと出た顔は、嘉乃の記憶中枢を刺激した。
ヘンリーだった。元ギャングのボスで、嘉乃を騒ぎに巻き込み、ストールを未だ返していない男。
「おっ! ヨシノ! 久し振りだな! 元気だったか?」
「そんなことより! 私のストール返してください!」
からからと笑うヘンリーに、嘉乃は先程のなまはげに負けないほどの勢いで歩み寄る。ジムは擦り減るであろう嘉乃の靴底を心配した。
「ああ? ストール? ……返して」
「もらってません。洗濯して返す、って言ってましたよね?」
「そうか、返してなかったか……じゃあ俺の家のどこかだな。来るか?」
「断固としてお断りします。洗濯したものを返してもらえれば結構ですので」
憤る嘉乃に対し、ヘンリーはコーヒーを飲みながら脚を組み替える。様になるその仕草は、今は嘉乃の怒りを煽るだけだった。
「もう!」
「まあまあ、そう怒るなよ。皺が増えるぞ?」
「余計なお世話です。誰かさんがストールを返してさえくれれば皺の心配をしなくてもいいんですけどね」
「細かい事気にし過ぎてると頭が老けちまうぞ。ボケるのが早いと厄介だぞお? 特に日本人は、ほら、長生きなんだろ? 健康寿命縮めてどうすんだ」
「私にとってのストールは細かい事ではないんですが」
「だから俺の家来いって」
「断固拒否です」
話し合いは何処までも平行線を辿った。嘉乃としてはこれ以上ヘンリーと関わり合いになりたくなかった。厄介事に巻き込まれるのは2週間前が最初で最後であってほしかったからだ。元とはいえ、あまり裏社会の重役と関わりを持つのは、嘉乃の学生生活にとっても喜ばしいものではなかった。
「ストールったってもう使わねえだろ? これからあれじゃ寒いぞ?」
「そういう問題ではないです。来シーズンも使えます」
「挽けたよ」
平行線に斜線が割って入った。ジムが嘉乃のキリマンジャロを持って2人のもとにやって来たのだった。
「ああ、ありがとうございます。ってあれ? もう1袋入ってるんですけど……」
「それオマケ。この前のクリスタルマウンテンの残り」
「えー! ありがとうございます!」
「この前その人が買ったのと同じだけどね」
「えー……」
「何だそのリアクションは。ジムの仕入れるクリスタルマウンテンは美味いんだぞ」
「いいけど、あんまり立て続けに痴話喧嘩みたいなことされると余計客足遠退くんだけど」
ジムはちくりと針を刺す。
「あ、すみません……って、痴話喧嘩?」
その言葉に反応した嘉乃がジムに抗議の視線を送る。ヘンリーはジムのその言葉にもからからと笑った。
「痴話喧嘩なあ。最初のアレはそういう話題じゃなかったんだけどな」
「傍目からは痴話喧嘩だよアレは」
ジムは先程のなまはげが残していったと思われるカップを片付ける。勿体ないことに、カップには半分以上コーヒーが残っていた。
「そんな色気のあるもんじゃねえよ。ビジネスだビジネス」
「ジョーカーと取引するつもりだったの? 趣味悪いよ」
ジムの言ったジョーカーの正体に気付くまで嘉乃は少し時間が掛かった。彼の言うジョーカーが先程のなまはげだと分かった瞬間、ジムの指すジョーカーの顔が嘉乃の脳内に鮮明に浮かんできた。確かにあの化粧の濃さはゴッサム・シティのジョーカーにも似ていた。
「ジョーカーねえ……どちらかっつうとクラスティじゃねえか?」
「どっちでもいいよ」
ジムはカップを持って裏に下がった。そしてその場にはまたも嘉乃とヘンリーだけになる。
ヘンリーの態度に痺れを切らした嘉乃は憤然とヘンリーに告げた。
「それじゃあ、私は帰ります。ストールはジムさんに預けてください」
「待て待て。そんな急ぐことないだろ」
「今日は家で課題をやらなければいけないので」
斜線がなくなったことで話し合いはまた平行線に戻った。どこまでも交わらない。
「いいだろそれくらい。コーヒーの1杯飲んだところで作業時間なんて変わらねえよ」
「変わります。それにジムさんの手間になります」
「もう淹れちゃったけど」
「ナイスジム!」
「……」
裏に戻ったはずのジムがいつの間にかカップを持って戻って来ていた。仕事が早い。
「でもジムさん、私今日は……」
「どうしても帰りたいなら持ち帰り用のカップに入れるけど。あ、これサービスだから」
「ありがとうございます」
「折角ジムが淹れてくれたんだからここで飲んでかなきゃ美味くねえよなあ? 家に持って帰る頃には冷めてるぞ?」
「むう……」
嘉乃は折れた。コーヒーカップをテーブルに置き、ヘンリーの向かいの席に少々荒く腰掛ける。
「ジムさんの心遣いに感謝して! ここで飲んでいくんですからね!」
「はいはい」
茶化すように笑い、ヘンリーはジムにコーヒーの2杯目を要求した。ジムはオーダーを聞き、またも裏に戻る。
「さっきの人も、そうやって軽くあしらったんですか? ビジネスパートナーなのに?」
「いや? あっちの沸点が低かっただけだ。無茶なことばっかぽんぽん言うからちょおっと諌めたらあの様だ。ありゃ事業も失敗するな」
「そうですか……」
「それに今俺に相談しに来たってしょうがねえっての。引退した老兵に何言っても無駄だしなあ」
ヘンリーは先程のなまはげが置いていったらしい書類をぺらぺらと嘉乃に見せる。極力内容を目に入れないようにして、嘉乃はコーヒーを一口飲んだ。
「こんな老兵に穴を指摘されてぶち切れてちゃあビジネスなんてやってけねえよ。すぐにボロが出る」
「そう、ですか……」
穏やかだが、厳しい口調でヘンリーは経営者を批判する。だがヘンリーの言うことにも一理ある。いくら夢を抱こうとも、ただ夢を夢見るだけでは到底実現など見込めない。現実を見据え、理想に少しでも近付くために東奔西走するのが実現への道なのだ。幻想を抱くだけなら誰にでも出来る。
「夢を見た後は現実見ねえとな。経営者ってのはそういうもんだ」
「そうですね……」
「いつまでも夢を見てる男が言っても説得力ないよ」
現実を見せる斜線が帰って来た。新しいコーヒーを持って。
「おいおいジム! 男はいつまでも夢を見る生き物なんだぞ?」
「多少現実を見なくてもよくなったからって気を抜き過ぎ」
「誰に何を言われようと夢は尽きないのさ。お前や、ああヨシノも何かしら夢あるだろ?」
不意に話題を振られて嘉乃は焦った。ジムはコーヒーを置き、「あるよ」とだけ答えて戻ってしまった。余計なことは話さないというのがジムのスタンスらしい。
「夢、ですか?」
「男は夢を見る生き物だが女は夢に生きる生き物だ。ヨシノは何に生きてるんだ?」
「……」
嘉乃は考え込んでしまった。確かに人生プランの1つとして、海外で事業展開する企業への就職はあったが、それは目標もしくは過程であり夢ではない。
「ないのか?」
「ない、わけではないと思うんですけど、目標と夢が混同している、ような……」
「ああ。ありがちな症状だな。その目標以外にしたいことはないのか?」
「それ以外……」
またも嘉乃は考え込んだ。やりたいことは漠然と浮かんでくるが、どれもふわふわとして不確かだった。それでもいいのかもしれないが、嘉乃の中ではどれもぼんやりとした像でしかなく、それで良いのかと不安すら湧いてきた。
「やってみたいことはありますけど……それを夢と呼べるかは……」
「それでいいじゃねえか。些細なもんから始まることだってあるだろ」
「じゃあ、1つあります」
1つ、ふわふわとしたものが形になった。もっと世界を見てみたいという願望があった。多くの物、人に刺激を受け、自分自身の目で世界を見たいという、些細ながらも壮大な願望だった。
「もう少し、世界を知りたいんです」
「ほう?」
「どこか他の国に行って、自分の目で色々な物を見て、自分の手で触れてみたいです」
「良いねえ。若い若い」
「からかってます?」
「誉めてんだよ」
嘉乃は少し俯いた。目標を誰かと話したことはあっても、漠然とした夢を語ったことはなかったからだ。それを警戒していたはずの男の前で語った恥ずかしさと、少しの後悔が嘉乃の顔を下へ向けさせていた。
「夢はいくら見てもお上の罰は下らないからな。良い拠り所だよまったく」
いい加減恥と後悔で居た堪れなくなった嘉乃は、勢いに任せて立ち上がった。
「あ、あの! 私もう帰ります! 課題、やらなきゃ……」
最後の方は少し声が上擦った。それにも恥ずかしさを覚え、嘉乃は耳を赤く染めた。
その姿に少し笑みを漏らし、ヘンリーも立ち上がった。
「送ってく」
「い、いいですよ! 平気です!」
「もう暗いだろ。遠慮すんなよ」
「うう……」
そのまま嘉乃は、ヘンリーに半ば強引に車に乗せられた。今日の愛車はロシェールというらしかった。ロシェールに揺られ、嘉乃は2週間前と同じ、イーストストリートの入り口で下車した。
「ストール、ジムさんに預けておいてくださいよ」
「覚えてたらな」
「忘れないでください……」
会った当初の勢いはどこへ行ったのか、嘉乃は本調子ではなかった。ヘンリーはそれを見て楽しそうに笑うと、ロシェールを動かし夜の街へと消えていった。
「うあああああ……醜態晒した……」
嘉乃はソファに倒れ込み、クッションに顔を埋め数分前の自分を深く恥じ入った。
「もう、もう知らん……どうにでもなれ……」
目を逸らしていたわけではないが、自分の夢を改めて考えたのは久し振りだった。そのタイミングが少し悪かっただけで。
「早く、ストール返してもらって、それっきりにしよう……」
思い出したくない恥と、少し明確になった夢を胸にしまい込み、嘉乃は頭を明日のことに切り替えることにした。
冷たい空気の中、この街で何よりも明瞭なのは夜空に浮かぶ月だった。