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老兵、再度戦場へ

 もう少しすればこの街にも冬の足音が聞こえてくるだろう。体に感じる風が変わった。しかし秋の空気がその形を潜め始めた頃、彼女の元に訪れたのは冬ではなかった。


「そろそろマフラー出すかなあ。ストールじゃ寒いや」

 校門を出たところで彼女は呟いた。異国の地に立って早数か月、段々とこちらでの暮らしにも慣れ始めていた頃だった。

 彼女の名前は片桐嘉乃。この地では珍しい日本人だ。嘉乃はここアメリカに留学中の大学生だった。彼女の人生プランの1つが、海外で事業を展開する企業への就職で、この米国留学もその為のステップだった。去年はイギリスに留学しており、今年もそうしようと考えていたのだが、様々な国での経験も大事だという担当教授の鶴の一声でアメリカに方向転換していた。

「いやでもまたミシェルに日本人は寒がりだとか言われるかな……いや、今出さずしていつ出す!」

 ミシェルというのは大学の友人で、嘉乃の頼れる相談相手でもあった。そんなミシェルの口癖は「日本人は計画性が高い」である。

「でもまず今日のコーヒー買いに行かないと」

 嘉乃のこの後の予定は、ストックの切れたコーヒーを買いにダウンタウンへ行くことだった。コーヒーを売っている馴染みの店は営業時間が短く、冗談抜きで日没と共に閉店するような店だった。日本のコンビニの様な年中無休の24時間営業という店はこちらではほぼ皆無である。その為、嘉乃は腕の時計を確認しつつ店へと足を向けた。


「ヤバいヤバい。意外と時間食っちゃった……」

 普段通る道が道路工事をしていた為、嘉乃は回り道をした。しかしその回り道も水道の工事だとかで塞がれていた。仕方なく再度道を変えたが、今度は赤信号に何度も引っかかった。巡り合わせの悪さに舌打ちをしながらも嘉乃は急いだが、時計を確認すると今日の終業まであと数分というところだった。

「間に合ってー……今日じゃないと時間ないんだから……」

 明日は友人たちと勉強会、明後日はホームパーティという予定が嘉乃には詰まっていた。つまり今日を逃すと明々後日まで自宅でのコーヒーブレイクは楽しめないということだ。軽いカフェイン中毒の嘉乃にとってそれは一種の苦行だった。それだけは避ける為、嘉乃は変わらない赤信号に対し早く変われと呪いにも近い念を送り続けていた。この信号さえ変われば、お目当ての店はすぐそこだった。

 そして嘉乃の念が信号に届いたのか、足を止める赤が進行を許可する緑に変わった。しかしここぞとばかりに飛び出そうとした嘉乃は、またも阻まれた。

「失礼、お嬢さん」

「わっ、と、何ですか? 今私急いでいるので……」

「少しでいいんだ。道を教えて欲しい」

 横断歩道を渡ろうとした矢先、嘉乃は何者かに腕を掴まれた。舌打ちを抑えて振り返ると、そこには男が居た。こちらの人間だろうか、年の頃は嘉乃の遥か上だろうに体躯はしっかりとしている。嘉乃の二の腕を掴む掌も、生きてきた年月を示す皺は刻まれていてもその握力までは衰えていなかった。その証拠に嘉乃の若干弾力のある二の腕に男の指が食い込んでいる。

「み、道? どこに行きたいんですか?」

「この街にサンダースという男が経営するバーがあるだろう? そこに行きたいんだ」

「サンダース、バー……? ああ!」

 嘉乃には1つだけ心当たりがあった。この田舎町にある目ぼしいバーと言えば、レオナルド・サンダースという男が経営する寂れた一件の店だけだった。

「そのバーならもう1つの通りの先ですよ」

「そうか。そこまで案内して頂くことは……」

「すみません、私急いでるんです。行けばすぐ分かる場所にありますから大じょ、」

 嘉乃の言葉は最後まで男に伝わらなかった。突然のブレーキ音と銃声が嘉乃の声をかき消したのだ。

「な、なに!?」

 いかにも高価そうな黒塗りの車の窓からこれまた黒いものが顔を出している。嘉乃の故郷ではほぼ目にすることのなかった武器、つまり銃である。状況を簡潔に言えば、その口が嘉乃と男に向けられていた。

「ちっ……来い!」

 男は嘉乃の腕を掴んだまま走り出した。自分たちの反対方向に逃げ出した2人に、車から突き出た銃口も方向を変える。背後を振り返れずに走らなければならなくなった嘉乃は、状況の整理に頭を動かすのに精一杯だった。たとえ振り返れたとしても余計に混乱するだけだっただろうが。

「曲がるぞ!」

「わっ!」

 男は細い路地に入り込んだ。先程の車は入れるかどうか微妙な細さの路地だった。

「あ、あの、これっていったい……」

「あ? 悪いな。説明する余裕は今は、って来やがったか!」

「え? えー!?」

 車は急激なハンドル捌きで路地に強引に入って来た。黒塗りの塗装が建物に擦れる嫌な音がしたが、ドライバーは気に留めていないようだった。ガラスは全て煙っている為、中の人間の表情や人数が分からないというのが余計に嘉乃の恐怖を煽った。

「仕方ねえ、こっちに入るぞ!」

「へ?」

 男は建物と建物の間に嘉乃を引きずり込んだ。今度こそ車はおろか体格の良い人間は入り込めない様な狭いスペースだった。

「あ、あの! いい加減どういうことか説明してもらえますか? 私は理由もなくあんな襲撃を受けるようなことした覚えはないんですけど!」

 嘉乃は狭いスペースで男の手をようやっと振り払い、詰め寄る。頭が混乱して、とにかく現状から逃げ出したいのが本音だった。

「お嬢ちゃんは運が悪かった。それだけだ。さっきので死ななかっただけ御の字だ」

「なっ、何ですか、それ!」

 道を尋ねた時とは違い、男の言動は幾らか粗暴になっていた。少し伸びた白い前髪を掻き揚げる仕草ですら乱雑だった。

「あれは三流の殺し屋だろうな」

「こっ……」

 普通に過ごしていれば創作物以外で耳にすることは少ないであろう単語に、嘉乃の頭は余計に混乱した。誰かの恨みを買うような真似はした覚えはないかと必死に記憶を掘り返す。

「街中でおっ始めやがって……仕事が雑にも程があるぞ、ったくよお」

「ま、さか、さっきのってあなたを狙って……?」

「そうだろうな」

「ほ、本当にとばっちりだ……!」

「仕方ねえよ。今日の運勢に文句を言うんだな」

 無責任な口調の男に嘉乃は苛立ちを覚えたが、それよりもこの場を脱出するのが先だと判断した。

「私、帰らせてもらいます! だって無関係ですもんね!」

「まあ、お家まで無事に帰れるならな」

「それって……」

 嘉乃の言葉はまたも爆音によって阻まれた。

「きゃっ……!」

 嘉乃たちの居る場所にあった建物の片方が弾け飛んでいたのだ。衝撃と爆音で倒れ込んだことすら今の嘉乃には分からなかった。混乱と興奮で正常判断のメーターが振り切ってしまっていたのだった。

「大丈夫か」

「え? ……え?」

 気付くと、嘉乃の上に男が覆い被さっていた。混乱する頭が認識したのは、男の腕を流れる赤いものだった。

「ちょ、ちょっと! 怪我してるじゃないですか!」

「ああ? ああ、これか。こんなん掠り傷だろ。それとも古傷が開いたか?」

 慌てる嘉乃に対し男は何でもないように負傷した腕を振る。

「な、何言ってるんですか! 結構血が出てるじゃないですか! あああ、ガラスが刺さってる……」

 嘉乃から見れば大怪我も良い所なのだが、当の負傷者である男は全く気にしていないようだった。

「純情なお嬢ちゃんには刺激が強かったか? しっかし本当に三流だなあ。グレネードでも使ったのかあいつら」

「ぐ、ぐれ?」

「……ああ、1つだけ良い仕事をしてくれたみたいだな」

 男は口角を少しだけ上げると、嘉乃の上から退いた。笑うと目尻に皺が寄るのは彼の重ねてきた年月の証拠であるが、そこに浮かぶものは決して穏やかなそれではなかった。

「ここまで来たら一蓮托生だ! 来い!」

「え、ちょ」

 今だ混乱する嘉乃を腕一本で起こし、男は建物の残骸を軽々と飛び越える。嘉乃がそれを追うと、男の向かう先にはレトロな車があった。壊された建物は車庫として使われていたのか、車以外のものはほぼそこにはなかった。

「ははっ、俺もこいつもよっぽど悪運が強いみたいだな! あの爆発で無傷だ!」

「腕怪我してるの忘れたんですか!?」

「ああ? こんなん怪我のうちに入らねえよ」

「ああ、もう……」

 嘉乃の心配を余所に、男は車に乗り込む。屋根のないオープンカーであった為、飛び乗ったという表現の方が正しかっただろうが。

「何やってんだ。乗れよ」

「え……私も、ですか?」

「口封じに殺されてえってんなら無理強いはしねえが」

「乗ります」

 嘉乃が助手席に乗り込んだのを確認した男はエンジンをかける。車庫であったであろう場所に爆発音とは別の音が大きく響く。

「それじゃちょいと、ドライブといきますか!」

「え、え!?」

 急発進した車の推進力に耐え切れず嘉乃は後ろにのけ反った。肌に感じる風が痛い。冬の訪れが近いのだろう。

「それ着けときな。まだ健康な目にゴミが入っちまうぜ」

 男は嘉乃にゴーグルを渡した。何時の間に着けたのか、男は既にゴーグルを装備していた。

「舌噛むなよ!」

「わああっ!」

 ミラーで背後からの追跡者を確認した瞬間、男はハンドルを切った。急激な動きに嘉乃はまたも体のバランスを崩した。先程と違うのは、倒れ込んだのがシートでなく男の腕であるところだった。

「おいおい、男に縋り付くだけの女ってのは自滅するんだぜ?」

「好きでこうなったわけじゃないです! ああ、怪我のこと忘れてた……ちょっとすみません」

 男の腕に触れた掌にぬるりとしたものを感じて、嘉乃は男が怪我をしていたことを思い出す。傷口のガラス片を抜くのは手が不安定なこの状況では無理だと判断し、止血を試みることにした。首に巻いていたストールを解き、男の傷口の上部を縛る。

「運転中だってのにやるじゃねえか」

「そこはすみません。でも痛々しかったので」

 巻かれたストールを一瞥し、男はスピードを上げた。その衝撃で嘉乃はまたもシートにのけ反った。

「どこまで行くんですか!」

 猛スピードで驀進する車の運転手に嘉乃は問い掛ける。乱暴な運転による雑音に負けないように自然と声は大きくなる。

「一般人の目に付かねえとこまでだ! これ以上街中で騒ぐのは御免だ!」

 男が嘉乃に応えるのと同時に銃弾が嘉乃の真横を通過した。銃弾は、嘉乃のような一般人でも知っている高級メーカー製の車体を数ミリ削っていった。

「あ、危なかった……」

「おい、車……傷付いたか」

「え、は、はい」

 不意に男は声のトーンを下げた。仄暗い感情を含んだ低音に嘉乃は一瞬怯んだが、車の塗装を確認し返事をした。

「クソが……あとでちょっと仕置きするだけで済ませてやろうと思ったが……」

「え、あ、あの、よく分からないけど、落ち着いて」

「られるかあ! ちょっと運転頼んだぞ」

「へ!?」

 そう言うが早いが、男はシートから腰を上げた。その左手には、どこから取り出したのか知らないが後ろの車が嘉乃たちに向けている物と同種の物が握られていた。

「え、ちょ、ちょっと待ってください! 一般人の目に付かない所まで行くんじゃなかったんですか!? 騒ぎ起こしたくないんでしょう!?」

「車に傷を付けてくれたとあっちゃ話は別だ……どうにかしてやらねえと腹の虫が治まらねえ……」

「自分だって傷付いてるのに……」

「俺の傷と車の傷は別だ!」

 ハンドルを任された嘉乃は男の車への並々ならぬ愛情を感じ、絶対に自分の運転で車に傷を付けまいと決心した。アメリカの運転免許は持っていなかったが、日本の運転免許ならば持っている。教習所で習ったことを思い出しながら不自然な体勢で嘉乃は慣れない外国車を恐々ながら猛スピードで運転する。

「思い知れ!」

 不穏なことを口走りながら男が引き鉄を引いた。その音量に鼓膜を刺激されながら嘉乃は運転し続ける。今何が起こっているのか、これから何が起こるのかも分からないが、とにかく人目に付かない場所を目指さねばならない。トラブルに巻き込まれることを何よりも避けたかった留学生の嘉乃は、犯罪の片棒を担がされたような気分で町外れの公園に向かってハンドルを切った。

「もう一発ぶち込んどくか……」

「あ、あの! 身勝手で申し訳ないんですけど、ひ、人殺しだけは!」

「ああん? それはめんどくせえからしねえよ! 今はな! とりあえず公園まで引き付けろ!」

「今はってどういうことですかあ!」

 嘉乃が未来を案じている内に、車は公園に辿り着いた。車体に傷が付いていないか嘉乃は降りてすぐに確認する。幸いなことに飛ばされてきたゴミ以外、車体に付いているものはなかった。

「良かった……」

「まだ良くねえよ。あいつらを絞り上げなきゃならねえ」

「……」

 嘉乃たちに遅れること数分、追跡者たちの車が変わり果てた姿で目の前に現れた。フロントガラスには銃弾が撃ち込まれ、車体にも何発か銃痕があった。高級車の面影はほとんどない。この状態で追跡を続けた彼らのプロ根性を誉めるべきなのか、逃げなかったことを蔑むべきなのか、嘉乃には分からなかった。

 そして、力なく止まったそのみすぼらしい元高級車から、2人の男が転げ落ちてきた。男はすかさず彼らに歩み寄る。彼らは男に再度銃口を向けたが、男の威圧感とここまでの運転の疲労が彼らの手元を不安定にさせていた。男は怯むことなく2人の手から素早く拳銃を奪い去った。

「てめえらが実行犯だな……? 俺から逃げずここまで着いて来たことは褒めてやるが……どうもやり口がプロじゃねえなあ?」

 素手で武器を奪われたことで彼らの序列が完全に決定したらしかった。殺し屋たちは男に怯えきっていた。

「ひっ! す、すんません! い、依頼されたんです! だから……!」

「だから見逃してくれってか? それはムシが良すぎるんじゃねえのか? てめえらもこの世界の端くれなら腹括れよ」

 男の言葉に、殺し屋であろう2人は平謝りするしかなかった。男の表情は嘉乃からは見えなかったが、余程恐ろしい顔をしているのだろうと嘉乃は身震いした。声だけでも相当立腹のようだったからだ。

「ど、どうか命だけは……!」

「命乞いも見苦しいがまず俺が聞きてえのは……てめえらの雇い主の名前だ」

「い、言います! 言いますから!」

「早く言えよ」

「さ、サンダースです! サンダースが俺らのボスに……!」

「ほお?」

 殺し屋の口から出たのは、男が当初向かう予定だったバーの経営者の名前だった。

「お、俺たちは、ボスから、命令されただけでっ」

「そうか……ボス、あいつか」

 男はそれだけ言うとおもむろに立ち上がった。そして、今だ座り込んだまま哀れに狼狽える殺し屋たちの顔を掴み、短く宣告した。

「ここまでご苦労」

 嘉乃はここでやっと男の表情を捉えた。先程の声のトーンからは想像できない程良い笑顔だった。そして次の瞬間、男は殺し屋たちの後頭部を地面に強かに打ち付けた。

 嘉乃の耳は不愉快な鈍い音を捉えた。意識を飛ばしたのか、殺し屋たちは男の手が顔から外れても起き上がってはこなかった。

「あの……」

「殺しはしねえって言ったろ。聞きたい情報はもう引き出した。あとは……」

「俺らの仕事だ」

 嘉乃が振り返ると、そこには地元の警察官たちが控えていた。あれだけ派手な逃走劇を街中で演じたのだ。今の今まで警察の登場に気付かなかった方が不思議なくらいだ。

「おっ、アランじゃねえか。元気か?」

「仕事中だぞおっさん」

 アランと呼ばれた男は気絶した男たちに手錠を掛ける。

「殺しちゃ、いないみだいたな」

「当たり前だろ? 下手すりゃ俺が獄中生活だもんなあ」

「俺はすぐにでもあんたをぶち込みたいんだがな」

 穏やかでない会話に、嘉乃は不安を覚えずにはいられなかった。本来警察の登場は喜ばしいことなのだろうが、嘉乃は手放しで喜べずにいた。

「その子は?」

 アランが嘉乃に気付き男に問い掛ける。自分に話題を振られた嘉乃は焦りながら事情を説明しようとする。

「あの、私は……!」

「通行人だよ。事件とは無関係だ」

 男が嘉乃の言葉を遮った。アランは男と嘉乃に疑わしい視線を向けていたが、男がこれ以上何も嘉乃に語らせる気はないと判断したのか、それ以上の追究は諦めたようだった。

「じゃあ早いところここから離れた方がいい。若い子には刺激が強いだろ」

「じゃあお前らが早くそいつら連れて行けよ。悪いのは全部そいつらで俺はシロだぞ」

 嘉乃を遠ざけようとするアランに対し、男は逆に早く立ち去るように要求した。その強引な提案に、アランは男をじとりと睨む。

「おいおい、そんなに見つめるなよ。照れるだろ」

「見つめてねえよ気持ち悪い。……また何かあったら呼び出すから覚悟しとけよ、おっさん」

「はいはい」

 アランはそう言うと他の警官に指示を出し、公園から去って行った。去り際に男に疑わしげな視線を送るのを忘れずに。

 そして残されたのは男と嘉乃だった。

「さてと……お嬢ちゃんを送ってってやるか」

「い、いや、遠慮します!」

「何だ? ここまで一緒に走ってきた仲だろ?」

「それだけです。いや、それ以上に聞きたいことが、たくさん、あります! まずあなた、何者なんですか!?」

 嘉乃の胸に去来する疑問は多々あったが、いの一番に確かめておきたいことは男の正体だった。

「んー、それは説明すると長くなるなあ。で、今何時だ?」

「は!?」

 嘉乃の質問には答えず、男は的外れな質問を返してきた。

「いいからいいから。何時だ」

「そろそろ、6時になります……」

「6時ぃ!? くっそ、サンダースの野郎締めるのは明日だな……悪いなお嬢ちゃん、送るのも出来なさそうだ」

「別に、いいです……」

 時間を聞いて慌てだした男を冷めた目で見ながら嘉乃はこの後の帰宅方法を考えていた。この公園からだと、少し時間はかかるが徒歩での帰宅が可能だと嘉乃の頭は弾き出した。一種冷静な嘉乃の横で、男も何か思い付いたのか、明るい顔で嘉乃に話し掛けてきた。

「ああ、じゃあこうしよう。俺の正体が知りたきゃ明日の4時にこの公園に来な」

「え」

「もし来たんなら話をしてやろう。じゃあな」

「ちょっ」

 自分の用件だけ伝えると男は颯爽と車に乗り込み発車させた。

「これも明日来たら返してやるよ!」

 嘉乃が止血の為に巻いたストールを解き、高く掲げながら男は颯爽と去って行った。短い時間の出来事に嘉乃は呆然としていたが、着き始めた街灯が嘉乃を現実世界に戻した。

「明日、勉強会だっての……!」


「くっそ、どうしろってのよ……」

 もうここには居ない人物への悪態を吐きながら嘉乃は下宿先のアパートへと足を向けた。この季節、日が落ちるのは早い。すぐに夜の帳が街に落ちるだろう。視界が少しでも開けたうちに帰ろうと、嘉乃は自身に言い聞かせた。

 ただ、コーヒーを買いに行った先で起こった短時間の出来事は、嘉乃の記憶に強く足跡を残してしまった。帰路でも、たった数十分前のことを思い出しただけで嘉乃の体は震えた。

(コーヒー、買えなかった……)

 目的を果たすことなく厄介ごとに巻き込まれてしまった嘉乃の体に、季節の変わりを告げる寒風が突き刺さる。しかし、あの車で感じた風よりは優しかった。

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