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「夫に勝つ妻はいらない」そうなので、私に負けて笑う方に求婚しました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/26

「夫に勝つ妻はいらない」


 アンリ様は、倒したご自分の王を起こさずに言った。

 私は白い駒へ伸ばしかけた手を引いた。勝ったのは私だ。けれど、盤を挟んで向かい合う婚約者は、負けたことより、私が嬉しそうにしたことに腹を立てている。

 伯母の茶会には、ほかにも三つ、チェスの盤が出ていた。すぐ隣で続きを考えていた方が顔を上げる。アンリ様はその視線に気づくと、いっそう声を強くした。


「人前で婚約者に恥をかかせて、満足か」

「恥をかかせたつもりはありません。私も、勝ちたかったんです」


 言い終える頃には、声が小さくなっていた。

 また、その言い方をどうにかしろ、と言われそうだった。謝れば済むことをどうして長くするのだ、と。この半年、何度も聞いてきた言葉だ。

 けれど今日は、始める前にお伝えした。

 わざと負けるのは嫌です、と。


 アンリ様は、伯母の客間へ入る前に私を廊下へ呼び止めた。今日は友人もいるから、あまり張り切るなよ。どこまで考え、どこから手を抜けば気に入られるのか。そう考えている自分が嫌になって、今日は本気で指したいと答えた。

 途中までは上手に戦って、最後は気づかなかったふりをする。そうすれば、彼の顔を潰さずに済む。

 以前、一度だけそうしたことがある。

 勝った彼に、君もまだまだだな、と笑われた。私は笑い返し、帰りの馬車でひどく惨めになった。それからしばらく、家の盤を開けられなかった。


「君は、結婚してからもそうする気なのか。夫を立てるということを知らないのか」

「勝負をするなら、本気でしたいです」

「では、ほかの男を探せ。こんな女とは結婚できない。婚約は破棄する」


 隣の卓で、駒を置く音がした。

 私はアンリ様の顔を見た。冗談だと言ってほしかったわけではない。それを口にするほど、私が勝ったことは許せないのかと思った。

 二年前、初めて対局した日は、考えるのが早いねと褒めてくれた。その帰りに、また会いたいと言われたことが嬉しかった。自分の好きなものを、一緒に好きになってくれる人だと思っていた。

 婚約が決まってから、彼の前で喜んではいけないことが少しずつ増えた。

 チェスだけではない。彼の知らない話を知っていても、先に答えない。自分の考えが当たっても、それ見たことかという顔をしない。そんな顔をしたつもりがなくても、彼がそう感じたなら謝る。


 今も、私の口から謝罪が出るのを待っている。

 彼が言った婚約破棄よりも、その見慣れた表情が悲しかった。


「わかりました」


 アンリ様の肩が、わずかに下がった。

 その安堵を見たら、腹が立った。私が何をわかったのか、まだ聞いてもいないくせに。


「私も、あなたに勝たせるための結婚はしたくありません。婚約を解消してください」


 彼は口を開き、すぐには声を出さなかった。

 私は膝の上で握っていた手をほどいた。指先が冷たい。けれど、言い直す気にはなれなかった。


「リュシー。意地を張るところではないだろう」

「意地ではありません。勝ったら嬉しいんです。負けたら悔しいです。それを、あなたの前では隠さなければならないのが嫌なんです」

「たかが遊びじゃないか」


 その言葉に、思わず笑いそうになった。

 遊びに負けたからと、私を妻には要らないと言ったのは誰なのだろう。胸の奥が熱くなって、今度は声が小さくならなかった。


「たかが遊びで私との結婚をやめるとおっしゃったのは、あなたです。私が謝るまでの脅しなら、もうやめてください。今のお話を、両親に伝えます」


 アンリ様が立ち上がった。私も席を立ち、詰め寄られないように椅子の横へ下がった。

 いつの間にか、伯母が隣に来ていた。ロザリー伯母様は盤を一度見てから、彼へ顔を向ける。


「今のお話は、私も聞きました。あとは両家で、きちんとお話しなさい。ここでリュシーに謝らせても、婚約を続けることにはなりませんよ」

「私は、少し気を遣ってほしいと言っただけです」

「それで婚約を破棄なさるのでしょう。妹には私からも伝えます」


 伯母が私の椅子を引いた。座るよう促され、私は腰を下ろした。

 アンリ様はまだ立っていた。私が追いかけてくると思っているようだった。手袋を取り上げ、扉のほうへ一歩動いてから、こちらを振り返る。


「本当に、それでいいのか」

「はい。もう、あなたとは結婚しません」


 何を断られたのか、今度こそ伝わったらしい。

 彼の顔から血の気が引いた。何か言いたそうに私を見て、それから、注目している人たちへ目を移す。慰める声は上がらなかった。

 扉が閉まる音を聞いてから、私は卓上へ手を伸ばした。

 倒れた黒い王を起こし、箱へ戻す。白い駒も、一つずつ片づけた。勝った局面を見ていたかったはずなのに、いまは何も考えたくなかった。


「リュシー。少し向こうで休みましょうか」


 伯母に言われて、頷いた。

 廊下へ出た途端、涙が落ちた。あんな人とは別れてよかったと、すぐ笑えるほど、二年は短くなかった。

 伯母の差し出した手巾を受け取り、私は扉から少し離れたところで泣いた。


 * * *


 一週間後、婚約は正式に解消された。

 両家での話し合いに、私は母と出席した。アンリ様は、妻なら夫の顔を立てて当然だと繰り返したけれど、私は結婚しないと同じ返事をした。

 指輪を返して帰った夜は、よく眠れた。

 翌朝、食卓でそのことを口にしたら、母はほっとした顔をした。


「眠れたなら、よかったわ。昨夜は部屋の灯りが早く消えていたから」

「お母様まで、起きていらしたの?」

「あなたが何か話したくなったらと思って。本を読んでいただけよ」


 母の目の下に、少し影があった。

 私は謝りかけ、それより先に、ありがとうと言った。母はお茶を一口飲んで、今日は私のほうが昼寝をしたいわ、と笑った。


 その午後、私は自室に置いていたチェス盤を開いた。

 何も考えずに駒を並べているうち、黒い騎士を手にしたところで、別の方の声を思い出した。


『そこへ来るんですか』


 驚いた顔のあとに、笑みが浮かんだ。

 エドガー・ヴァラン様。伯母の茶会で、何度か対局した方だった。

 半年前、初めて私が勝ったとき、彼はずいぶん長く盤を眺めていた。眉間には皺が寄り、口元は真っ直ぐで、私は怒らせてしまったかと思った。

 けれど、顔を上げた彼が尋ねたのは、どこから考えていたのですか、ということだった。


『私がこちらへ動かす前から? そんな先まで考えていたんですか』

『途中で気づかれたらどうしようと思っていました』

『気づきたかったです。今、非常に悔しいので』


 真面目な声だったから、笑ってはいけないと思った。

 そうしたら、彼のほうが笑った。


『でも、面白かった。もう一局、お願いできますか』


 そのとき私は、すぐに頷いた。

 勝ったことをなかったことにせず、次も一緒に遊んでいい。そんな当たり前のことが、とても嬉しかった。


 次にお会いしたとき、彼は私に勝った。

 前の対局を家で考え直したのだという。私が悔しがると、少し得意そうな顔をした。その顔まで覚えていることに気づいて、私は手の中の駒を見つめた。

 この騎士は、家にある駒だ。彼の指が触れたものではない。

 そんなことを考えている自分が恥ずかしくなり、早々に盤へ置いた。

 それからも何度か指し、勝ったり負けたりした。最後にお会いした日は私が勝ったが、前の茶会には彼が来なかったので、続きはまだだった。


 エドガー様との思い出は、対局だけではなかった。

 一度、領地の小さな橋を架け替えた話をしてくださった。古い橋は、近所の子供たちに「人食い橋」と呼ばれていたらしい。新しくしたのだから変わるだろうと思ったのに、子供たちは律儀に、名前の頭へ「新しい」とつけただけだったという。

 私は笑った。彼も、立派な銘板をつけたんですがね、と残念そうに笑った。

 伯母が菓子皿を片づけようとしたとき、二人とも、手元の焼き菓子を食べ忘れていることに気づいた。


 私は、あの話の続きを知りたかった。

 橋の名前は今もそのままなのか。新しい銘板は誰かに読んでもらえたのか。彼は何をしているときに笑って、何に腹を立てて、家へ帰ってから誰に話すのだろう。

 盤を挟まなくても、あの方と会いたかった。


 そこまで考えてから、私は両手で顔を覆った。

 よい対戦相手と、結婚したい相手は違う。彼が私と楽しく遊んでくださることは知っている。でも、私が何を願っても同じように喜んでくれるとは限らなかった。

 今まで、二人で出かけたことはない。お手紙をいただいたことも、綺麗だと褒められたこともない。

 私には婚約者がいたのだから、それは当然だった。何もなかったことを残念がるのはおかしい。それでも、何も知らないまま尋ねるのは、怖かった。


 断られたら、次の茶会でどこへ座ればいいのだろう。

 彼は優しいから、きっと気を遣う。今までどおり対局に誘ってくださっても、その優しさを受け取るのがつらくなるかもしれない。

 盤の向こうへ座るだけで、今ならまだ、会っていられる。

 そう思ったら、今度はそのままでいることが悲しくなった。


 夕食のあと、私は母へ話した。


「次の縁談を考える前に、気持ちを伝えたい方がいるの」


 母は少し驚き、私の隣へ座り直した。

 名前を言うと、伯母の茶会でお見かけしたことはあるわ、と答えた。何もかも承知していたような微笑みではなかったので、私はかえって話しやすくなった。


「お相手の気持ちは?」

「わからないわ。だから、私から言ってみたい」


 言葉にした途端、胸がどきどきした。

 母に許してもらうためだけの話ではない。自分で決めたことを、誰かに聞いていてほしかった。


「振られたら、また泣くかもしれないわ」

「そのときは、帰っていらっしゃい。お茶くらいは淹れられるから」


 母は成功を約束しなかった。

 それがありがたくて、私は頷いた。今度は誰かに要らないと言われるのを待つのではなく、自分が一緒にいたい人へ、来てほしいと言いたかった。


 * * *


 正式に婚約が解けてから三週間後、私は伯母の茶会へ出かけた。

 薄い青のドレスに決めるまで、鏡の前で二度着替えた。チェスをするだけなら袖口が邪魔にならなければ十分だと、以前は思っていた。

 今日はそれだけでは困る。彼に、少しでも綺麗だと思ってほしかった。

 そんなことを考えたせいで、玄関へ入った時点で落ち着かなくなっていた。


 エドガー様は、客間の窓際で伯母と話していた。

 私に気づくと会話を区切り、こちらへ歩いてくる。濃い茶色の髪は、前より少し短くなっていた。顔を見られただけで嬉しくなったあと、その顔へ何を言いに来たのかを思い出した。


「お会いできて嬉しいです、リュシー様。しばらくお姿を見なかったので」

「私も、お会いしたかったです」


 いきなり、本音が出た。

 彼が微笑んだので、私は慌てて次の言葉を探した。微笑んだだけだ。それを返事のように思ってはいけない。


「伯母様から、お聞きになりましたか。婚約のこと」

「解消なさったと伺いました。今日は来られるかどうかわからない、とも」

「もう、両家でのお話は終わっています。私は……来たかったので」


 彼は頷き、それ以上の事情を尋ねなかった。

 少し沈黙があってから、窓際の小卓へ目を向ける。そこには盤が用意されていた。


「よろしければ、一局いかがですか」


 私はその誘いを、いつもより長く考えてしまった。

 まずお話が、と言えばよかったのかもしれない。でも、彼が椅子を引いて待っている。あの席に座りたかったのも、本当だった。


「お願いします。手加減は、なさらないでくださいね」

「その余裕はないと思います。前回の負け方を、まだ覚えていますから」


 私は思わず笑った。

 彼の前では、まだ私が勝った日の話をしてよかった。あのときの嬉しさを取り戻すように、私は椅子へ腰を下ろした。


 始まってしまうと、盤の上が気になった。

 エドガー様はすぐには駒を動かさない。私の手に応じるだけでなく、少し遠いところを見ているような目をする。

 その顔が、好きだった。

 考えるときに口元を指で隠す癖も、決めた途端に迷いなく手を伸ばすところも。見とれてから、私にはいま大切な問題があると気づいた。恋の話ではない。盤上の私の守りが、あまりよくない。


「今の一手、戻してよいとは言ってくださいませんよね」

「そのお願いをされると、少し迷いますが」


 彼が顔を上げた。

 私はすぐに首を振った。甘やかしてほしい気持ちはある。でも、そのためにこの一局をなかったことにしたくはない。


「独り言です。まだ、どうにかします」

「では、どうにかされないうちに、こちらも考えます」


 彼がまた盤へ目を戻す。

 私は背筋を伸ばし、考え直した。ここで負けたら求婚できない、などという決まりはない。それなのに、やっぱり負けたくなかった。

 彼を好きな気持ちと、彼に勝ちたい気持ちは、少しも打ち消し合わなかった。


 結局、その日は負けた。

 最後の手を見て、私はしばらく黙った。見落としたところが、今ならはっきりわかる。あと少しだけ早く気づいていたらと思うと、すぐには顔を上げられなかった。


「参りました」


 私が言うと、エドガー様は大きく息を吐いた。

 ずっと平気そうな顔をしていたのに、その後には隠しようもなく嬉しそうな笑みが出た。


「よかった。途中から、逃げ切れないかと思っていました」

「そんなふうには見えませんでした」

「見えないようにしていましたから。ここを攻められると困る、と顔へ出すのは避けたくて」


 彼が盤の一角を指した。

 そこを見て、私はますます悔しくなった。その可能性を、途中で捨ててしまったのだ。

 彼は私の説明を聞き、そちらへ来られなくて助かりました、と言った。私の失敗を笑っているのではない。けれど、勝った喜びを隠してもいなかった。

 私もその顔を見て、笑えた。


「次は、そちらも考えます」

「楽しみにしています。お茶のあとに、もう一局?」


 頷きかけて、私は止まった。

 このままなら、いつもと同じだ。対局をして、話して、楽しかったと礼を言って帰る。次の茶会を待ちながら、彼がほかの方と結婚するかもしれないことを考える。

 そんなことは嫌だった。


「その前に、別のお話をしてもよろしいですか」


 声が硬くなった。

 エドガー様の笑みが静まり、どうぞ、と返ってくる。今ならまだ、橋の名前のことを聞ける。続きが気になっていたのですと言えば、二人とも笑って済ませられる。

 私は椅子から立った。


「少しだけ、向こうで」


 隣の談話室は、扉が開いていた。伯母が客間から目を向けたので、話をしたいのだと口にする。伯母は頷き、私たちのために入口近くの椅子を示した。

 衝立で隠れるような場所ではない。けれど、盤を囲む人たちの話し声は遠くなった。

 私は小さな長椅子の端に腰を下ろし、向かいへ座る彼を見た。


 * * *


「驚かせると思います」


 言ってから、前置きなど考えてこなければよかったと思った。

 彼が背筋を伸ばした。私も逃げずに話さなければと、足を揃えて座り直した。

 私は膝の上へ置いた手を、そっと重ねた。


「エドガー様。私と結婚していただけませんか」


 彼の目が、私の顔に留まった。

 返事はなかった。客間のほうから、誰かが笑う声が聞こえる。私たちだけが、その笑いから取り残されたようだった。

 彼の沈黙を、都合のよい意味には取れなかった。


「アンリ様と別れたから、誰かと結婚したくなったのではありません。あなたに、お会いしたかったんです」


 用意していた順番が、わからなくなった。

 好きなところは、たくさん考えてきた。それなのに、いちばん伝えたかったことから出てしまう。


「あなたと対局するのが好きです。でも、今日は盤がなくても、来たと思います。橋の名前の続きも聞きたいですし、ほかにどんなことを考えていらっしゃるのかも、もっと知りたいです」


 エドガー様は身を乗り出しかけ、私が話し続けると、口を閉じて耳を傾けてくれた。

 その顔を見ると、目を伏せたくなった。けれど、言い終わるまでだけはと堪えた。


「私が勝ったとき、悔しがって、それでも笑ってくださったでしょう。あのとき、とても嬉しかったんです。あなたが負けたからではなくて、また一緒に遊びたいと思ってくださったから」


 言葉にすると、また胸が熱くなった。

 あの場では笑っていた。でも、本当は泣きたいくらいほっとしていたのだと、今になってわかった。

 彼はそんなことを、知らない。私が勝って喜んでいるだけだと思っただろう。それでよかった。彼には、普通のことだったのだから。


「先ほど、あなたが勝って嬉しそうにしたお顔も、好きです。私、悔しかったですけれど。また、あんな顔を見たいと思いました」


 さすがに恥ずかしくなった。

 それなら勝たせてあげればよいではないかと、自分で考えた。そういうことではない。次は私が勝ちたいし、その次は彼に勝たれても、また会いたい。

 盤を片づけても、帰らずにいられたらと思う。


「あなたが好きです。お断りされるかもしれないとは、考えてきました。でも、何も言わずに帰るのは、嫌だったんです」


 最後の言葉まで言うと、口の中が乾いていた。

 もう、言い足すことはない。断られる前に逃げ道を作るような言葉も、付けたくなかった。

 彼がゆっくりと息を吸った。


「私は今、とても格好の悪いことを考えています」


 思いがけない返事に、私は瞬きをした。

 エドガー様は口元へ手をやりかけて、途中でやめた。先ほど盤に向かっていたときより、ずっと困った顔をしている。


「もう一度言ってほしい。けれど、もう一度お願いする間も待たずに、お受けしたい」


 今度は、私がすぐには理解できなかった。

 お受けしたい。その言葉だけが、頭の中でもう一度響いた。


「私も、あなたが好きです。あなたと結婚したいです、リュシー様」


 彼ははっきりと言い、それから、小さく笑った。

 いつもの笑みとは違った。口元がうまく整わないような、嬉しくて仕方がない顔だった。

 私は、その顔を見たかった。

 けれど、これほど嬉しくなるとは知らなかった。


「よかった……」


 自分でも驚くほど頼りない声が出て、目に涙が滲んだ。

 あれだけ話したのだから、返事もきちんとしたかった。それなのに、もうその一言しか出てこない。

 彼が身を乗り出し、手を差し出した。


「お手を、取っても?」


 私は頷き、自分から手を重ねた。

 手袋越しでも、指が包まれる感触はわかった。盤の上を動くのを何度も見た手だ。それが、いまは私の手を離さずにいる。


「今日、対局のあとに、外出へお誘いするつもりでした」


 彼が言った。

 私は顔を上げた。彼は目元を赤くして、少しだけ困ったように笑っている。


「けれど、来てくださったのを見たら、言い出せなくなって。婚約が解けたばかりなのに、私まで急いで何かを求めてよいのかと思いました。まず、いつものように話せたら、と」

「私も、いつものようにしていたら、帰れなくなりそうでした。言わなければ、帰れないと思って」


 彼が私の手を握る力を、少し強くした。

 客間からは駒を片づける音が聞こえた。お茶が来るのだろう。いつもなら、そろそろ次の席を気にしていた。今はこの手を繋いだまま、彼の話を聞いていたかった。


「あなたがいらっしゃる日は、席を取っておこうと思っていました。誰かの対戦相手に決まってからでは遅いので」


 彼は私たちがいた窓際の卓へ目を向けた。

 いつも空いていた席を思い出して、私は胸が苦しくなった。偶然なのだと思っていた。あの席に座るのを、私だけが楽しみにしていたのではなかった。


「私が考えているときも、見ていらしたのですか」

「ええ。眉を寄せて、それから、いいことを思いついた顔になるでしょう。その顔を見るのが好きでした。私にとっては、たいてい困る知らせでしたが」


 涙の残ったまま、笑ってしまった。

 彼も笑った。あの顔を、向かい側から見ていたのだ。私が彼の考える顔を好きだったのと同じように。


「これからも、わざとは勝たせて差し上げられません」

「それは、私もお約束できません。ただ、負けても、また相手をしてください」


 その頼みは、私の願いと同じだった。

 私は返事をして、彼の手を握り返した。盤がなくても、もう話したいことがいくつもある。今日はどれだけ時間があるのか、次はいつ会えるのか、母にどう話せばよいのか。

 どれから口にするか考えているうち、彼が、もう一つだけお願いしてもよいですか、と言った。


「本当に、もう一度聞いてもいいでしょうか。先ほどの言葉を」


 まさか、と思った。

 彼は少しもふざけていなかった。対局の手順を確かめるときより、ずっと真剣な顔で待っている。

 私は笑うのをやめられなかった。恥ずかしいけれど、今度は返事を知っている。言っても、誰も私を追い返さない。


「エドガー様。私と結婚してください」

「はい。喜んで」


 その短い返事に、また胸がいっぱいになった。

 彼は重ねた手へ顔を寄せ、私の指先に口づけた。私は息を止め、客間の伯母と目が合ってしまった。

 伯母は扇で口元を隠した。

 隠す前に笑っていたのを見てしまい、私はいよいよ顔が熱くなった。


 * * *


 母には、その日のうちに二人で話した。

 父も揃う日にエドガー様が改めて訪問することになり、その日取りを決める間も、私は嬉しくて、ときどき話を聞き逃した。母に同じ時刻を二度尋ねられ、彼と顔を見合わせて笑ってしまった。

 母は困った顔をせず、今日はよく眠れそうね、と言った。

 その晩は、あまり眠れなかった。


 一週間後、エドガー様が初めての外出に迎えに来てくださった。

 いつもの茶会とは違う。最初に何を話そうかと昨夜から考えていたのに、玄関へ出た途端、用意した挨拶を忘れてしまった。

 彼も、私を見て一度言葉を止めた。


「とてもお似合いです。その色も、髪飾りも」


 私は礼を言い、それから、黙っていられなくなった。


「見ていただきたくて、選びました」


 彼の顔が赤くなった。

 自分から言った私まで照れてしまい、侍女のマリーを伴って外へ出た。二人でしばらく道の先を見て歩く。少し歩いてから彼のほうを見ると、同じところでこちらを向いて、目が合った。

 今日は、私たちの間に盤がない。それだけで、慣れたはずの顔がこんなに近かった。


 通りの途中に、小さな玩具店があった。

 窓には旅行用のチェス盤が飾られている。思わず足を止めたら、彼も同じものを見ていた。


「小さいですね。持って歩くには、よさそうです」

「お出かけのたびに、対局するのですか」


 私が尋ねると、彼は考え込んだ。

 欲しそうだったので笑ってしまったけれど、買いましょうとは言わなかった。私にも、今日はしたいことがある。


「また今度、見に来ませんか。今日は、あなたと歩きたいです」


 彼がすぐにこちらを向いた。

 そして頷き、窓から離れて、腕を差し出してくれた。


「私も、そのために来ました」


 私は彼の腕を取った。

 ちょうどよい歩幅を探すように、二人で少しゆっくり歩き始める。手袋の下の指が、彼の上着をそっと掴んだ。

 道の先には菓子店がある。伯母のところで食べ忘れた焼き菓子を売っていると、彼が教えてくれた店だ。


「今日は、食べ忘れないようにしましょうね」

「盤がなければ、大丈夫だと思います」


 店の前に着いたところで、彼はそう言って私を見た。

 そのまま、ずいぶん長く見ている。私は嬉しくなり、少し困り、それから、彼の腕へ自分の腕を近づけた。


「……あまり、大丈夫ではないかもしれませんね」


 私が言うと、彼は声を立てて笑った。

 好きな人と出かけて、好きなものを食べ、嬉しくなったら一緒に笑う。私は今、そのために歩いている。

 店の扉を開けてくれた彼へ笑いかけ、今度は忘れずに二人分の菓子を選んだ。


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