風姫と人の王――ウルガ王国建国神話――
昔々、雨粒が世界樹の葉から落ちるよりも、小石が積み重なって大岩となるよりも、遥か昔のこと。天の主神であるナハートアムは、混沌たる泥を聖なる矛でかき混ぜ、世界を造り上げた。
はじめに海と空が分かたれ、海から陸が生じた。陸地は動き、やがて固まり、スーヴェ、ナフラン、メアーテファリナ、カインナスア、ハルガイナという五つの大陸を形作った。
陸ができると、天の主神は神々を次々と生み出し、自らの仕事の手伝わせた。
まもなく、世界は生命で満ち溢れていった。
ある時、天の主神は、自らや子らの姿に似せて、海の底の泥から人形を作った。
神力を込められた泥は、命を与えられるとひとりでに動き出すのだ。男女一対の人形は神々の姿形を精巧に模しており、二本の足で立ち歩き、神々と同じように言葉を解した。
これが、人という生き物の始まりである。
人という生物は瞬く間に世界中へ広がっていった。
しかし、この存在は、姿こそ神々に似ていたものの、あまりにも弱く、愚かであった。
窃盗、殺人、享楽に溺れる者。支配欲に駆られ、他者を貶める者。
その悪行は、挙げればきりがなかった。
やがて神々は、人の存在に嫌気が差し、彼らを滅ぼしてしまおうと考えるようになった。
ある時、魔物の王に唆された神々は、人間を滅ぼさんと、数多くの災いを地上へ降らせた。
天の主神は神々を止めようとした。
しかし、世界を創造するために多大なる力を費やしていた天の主神には、もはや自ら地上へ赴いて人々を救う力は残されていなかった。
そこで彼は、自らの末娘である風の女神を、人の子として地上へ遣わした。
風の女神が人として生まれたのは、世界で最も大きなスーヴェ大陸の東方の海に浮かぶ、世界で最も小さな島国、カラルガ王国であった。
彼女は、王女として生まれた。
しかし、跡継ぎのいなかったカラルガ王は、彼女の性別を隠し、アウィルドという名の王子として育てた。
アウィルドとは、神の翼の王という言葉から名付けられた男の名だ。
彼女は、貧しさや、人ならざる者たちに苦しめられる民を救うため、自ら剣を取り、魔物や神々に対して、勝ち目のない戦いを挑み続けた。
だが、神々の怒りは凄まじかった。
山を燃やし、大量の水で襲い、ついにはカラルガ王国そのものを海へ沈めようとしたのである。
間一髪、アウィルドは民を率いて船へ乗り込み、島を脱出したのだった。
長い船旅の果てに一団が辿り着いたのは、スーヴェ大陸の東南端に位置する土地であった。
そこでは、ウーザン王国と呼ばれる国が興っていたが、そこの民もまた、魔物の王によって日々苦しめられていた。
アウィルドは、ウーザン王国の王、オルレガと出会った。アウィルドはオルレガにカラルガ王国から亡命してきた民の保護を願い出た。その代わりとして、魔物の王との戦いに協力すると申し出た。
二人は共に力を合わせ、魔物の王と戦うようになり、幾多の難局を乗り越えていった。
また、二人を助けるために十三人の勇士が集い、勇敢に戦った。
魔物の王との戦いを通じてオルレガと親交を深めたアウィルドは、ある日、ふとしたきっかけで性別を偽っていたことをオルレガに知られてしまった。
オルレガはアウィルドという男性名しか持たなかった彼女に、風姫――ファーシャという愛称を贈った。
ファーシャという名を貰った少女は、嬉しさのあまり、涙を流したのだった。
二人は恋仲となり、生涯の愛を誓う契りを交わした。
しかし、風の女神を我が物にしようとした魔物の王は、彼女が愛するオルレガの身体を奪ってしまった。
オルレガは魔物の王に憑依されながらも、かろうじて残った己の自我で魔物の王を抑え込み、ファーシャに自らを殺すよう、願った。
彼女は葛藤の末、涙を流しながら剣を振るい、最愛の男を自らの手に掛けることとなった。
ファーシャはオルレガの命を犠牲にしてかろうじて魔物の王を西の山へ封じることに成功し、長年続いた戦いに終止符を打った。
しかし、最愛の『人』であるオルレガを失った彼女は、彼の亡骸を前に膝を突いて悲嘆に暮れた。
ひとしきり涙を流すと、彼女は彼を救うため、人の肉体を捨てて、本来の姿を顕わした。
長い銀の髪、銀の瞳、白絹のような肌。
そして背には、真白き翼。
この世の何者よりも美しい姿を持つ風の女神は、口移しで己の命と神性のすべてをオルレガへ分け与えた。
――死した『人』を『神』へ変えること。
それは、天の主神や神々の許しを得ぬまま行われた禁忌であった。
その罪によって、風の女神は冥界の中の奥底にある地獄へ堕とされた。
* * *
目を覚ましたオルレガは、自らが風神と化していることに戸惑った。
同時に、最愛の女を失ったことを激しく後悔した。
地を殴るように拳を叩きつけ、彼女の不在を嘆いていると、一羽の鳥が彼の目の前に舞い降りた。
神鳥の姿で人の世に舞い降りた鳥の神はオルレガにファーシャの正体が風の女神であることを告げた。
オルレガは女神を取り戻すため、旅に出た。
あらゆる手を尽くしたが、どれほど探しても女神を見つけることはできなかった。
最後の望みとして、オルレガは天の主神へ助けを求めた。
すると、天の主神は、エレスの洞窟に行くようオルレガに命じた。
そのお告げを信じ、いざ、エレスの洞窟に入ると、霧の女神が現れ、地の底に広がる冥界への道を開いてくれた。
鳥の神の化身である神鳥を案内役として、オルレガは闇に通じる洞窟を下ってゆく。
その道中は穏やかではなかった。亡者たちが助けを求めてオルレガに手を伸ばしたのだ。
オルレガは亡者たちを救う方法を知らなかったため、謝るとともに、彼らひとりひとりの手のひらに指で痛み止めのまじないの紋様を描いたのだった。
やがて辿り着いた地の底の都で、彼を待っていたのは死の女神だった。
オルレガは己の命と引き換えに、風の女神を返してほしいと願った。しかし、死の女神は彼の願いを認めなかった。
なぜならば、彼女は風の女神をたいへん嫌っていたからである。
風の女神は人の世へ下る際、天の主神から授かった、神の黄金の腕輪の治癒の力によって、傷ついた命を幾度も救っていた。
それは生と死の理を歪める行為であり、死の女神にとっては到底許しがたいものであった。
だが、鳥の神が天の主神から託された伝言を読み上げると、死の女神は一度きりの試練をオルレガに与えることとした。
「冥界および地獄の中から、風の女神を見つけ出せ。一度でも間違えれば、おまえの望みは叶えない」
死の女神は冷たく言い放った。
それでもオルレガは、涙を流して感謝した。
そして喜び勇んで、冥界と地獄を巡り始めた。
死の女神の妨害は凄まじかった。
大岩の雨を降らせたり、溶けた銅を浴びせかけたり、様々な困難のためにオルレガは幾度となく大怪我を負った。
それでも、彼に宿った風の女神の神性が傷を癒し、彼は何度でも立ち上がったのだった。
やがて彼は、地獄の底で秘匿された牢を見つけた。その中には、肉が腐り、蛆が湧き、見るもおぞましい怪物と化した死体が、隙間なく詰め込まれていた。
鳥の神によれば、その牢に囚われていた者たちは皆、何らかの理由で死の女神の怒りを買い、折檻によって身体を傷つけられた者たちであった。
辺りに立ち込める腐臭も、床を覆うどろどろとした液体も邪険にすることなく、オルレガは牢の中へ分け入った。そして、死体を一体ずつ丁重に外へ運び出しながら、牢の奥を探していった。
しばらくして、牢の奥深くに身を隠す一体の骨を見つけた。オルレガは一目見るなり、迷うことなく、その骨へ歩み寄った。
目も髪も失い、ところどころに肉片をぶら下げた、見る影もない骨。
それでもオルレガは、優しく呼びかけた。
すると骨は動き出し、彼から逃げるように岩陰へ隠れた。
「見ないで!」
骨は悲しげな声で拒んだ。
それでもオルレガは厭うことなく歩み寄ると、その華奢な身体をそっと抱きしめた。
唇も歯茎も失われ、むき出しになった彼女の歯に、頬に、顎の先に優しく口づける。
そして、変わり果てた姿を見てもなお、彼は愛を囁いた。
「……ファーシャ、苦しみも傷も、全部、自分が受け止めてみせる」
そう言って、オルレガは女神の左手首に触れた。
その瞬間だった。
オルレガの中にあった神性のすべてと、魂の半分が風の女神へと移った。
同時に、まばゆい銀の光が牢を満たした。
光が収まったとき、そこにいたのは、元の美しい姿を取り戻した風の女神だった。
そして、牢の中にいた他の者たちもまた、彼女の光を浴びて、生前の姿を取り戻していた。
しかし、死の女神はオルレガの勝利を認めなかった。
オルレガは懇願した。
風の女神の罪は、自分がすべて肩代わりする。
だから、どうか風の女神を許してほしい。
しかし、死の女神は頑として認めなかった。
途方に暮れる二人の前へ現れたのは、死の女神の夫である冥界の神だった。
冥界の神は死の女神を説得した。
やがて死の女神は、風の女神の復活が天の主神の望みでもあることを知った。
それでも彼女は嫉妬心から最後まで拒絶しようとしたが、最終的には条件付きで、オルレガの願いを認めた。
風の女神は、翼を毟り取られることをはじめ、いくつもの条件と引き換えに、冥界からこの世へ蘇ることとなった。
こうして、二人は再び人の世へ戻ったのだった。
それを知った天の主神は大いに喜び、二人へ多くの祝福を授けた。
また、魂の半分を共有する存在となった風の女神と人の王に対し、天の主神は、それぞれに新たな役目を与えた。
風の女神には、翼王という名と、人の身体を。
人の王には、片翼という役目と、神の黄金の腕輪を。
さらに天の主神は、カラルガ王国とウーザン国を合わせた新たな国に、碧海の守護国――ウルガという国号を与えた。
天の主神は、強い絆で結ばれた二人に、この地と、ここに生きるすべての命を末永く守る使命を与えたのである。
二人は互いに愛し合い、幸福な生涯を送ったという。
以来、この国では、国難に際して翼王と片翼が生まれ、神鳥と霧の女神が二人を支えるようになった。
人々は天の主神と風の神々に感謝し、彼らを丁重に祀った。
やがてウーザン王国はウルガ王国へと国号を改め、二千年以上にもわたる繁栄を謳歌することとなった――。
* * *
神話が真実であることを証明するものとして、ウルガ王国王家には稀に、建国の祖たる風の女神の転生者が生まれる。
それが、翼王と呼ばれる特別な御子だった。
その御子は男女を問わず、『神の翼の王』を意味する『翼王』――アウィルドの名を授かる。
その者は神の化身の証として背中に翼の痕を持ち、国難に際して、ウーザン王の生まれ変わりである片翼――ファーシャと呼ばれる巫部や、民とともに立ち向かう運命を持つとされている。
現王――アウィルドリーシャもまた、その一人だった。




