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前後普遍  作者: 面映唯
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「ねえ……親がメロンパン好きで、子はメロンパンアレルギーで、でも子がメロンパン食っておいしいおいしいって言うのはやっぱり親子だからかな?」


 突然のことに藤原(ふじわら)苑子(そのこ)は首を傾げた。「え、え、なんて?」と、もう一度聞き返した。


「ごめん、例えが悪かったね。ちゃんと言う。嫌いな片親の片鱗――たとえば酒癖が悪いとか、食い方が汚いとか、なんでもいいんだけど、そういうのを自分の中に見たとき、嫌いな親みたいになりたくないって嫌悪感と意志だけで変われるのかな。血縁を超えて」


 藤原は半開きになった口をそのままに思考だけが頭の中を駆け巡っていた。これは……もし仮に、杏自身のことを言っているのであれば、軽率に答えてはいけない。いつものノリで冗談を言ったら冗談じゃなくなっちゃうやつだ。よくぞ私の口よ滑らなかった! 


 何度か経験がある。勿論、杏に対してはなかったし、そもそも杏とは大学からの仲だったが、一度もこんな話をしたことはなった。思えば、踏み込んだ話は杏とはそこまでしたことがないような。


 変われるのかな、という語尾をそのまま読めば杏自身ではない誰かの話になるが……あえてそうしたようなニュアンスを覚える。そもそも杏はこのことを言う前に、メロンパンで比喩しているのだから、やっぱりこれは杏自身の話だろう。


 杏の顔を直視することができなかった藤原は、ルームミラー越しに彼女の顔を見ようとした。


 奇しくも目が合ってしまった。


「あ、ごめん。そんな大層な話じゃなくて。ごめん、困らないで。なんとなく言ってみただけだから。あ、そうだ。また今度一緒にどっか行く? 次は南の方とか。私飛行機乗ったことなくてさー、ほら、苑子はあるでしょ? 一緒に行ってくれると安心なんだけどな」


 乗用車が一台、追い越し車線を走り抜けていった。車内には音楽が流れているが、杏が気を遣ったのか、音量が低い。カーナビの地図の下に、小さく、Lonely cocoa と書かれている。


 話し疲れて話題も無くなった頃だった。一泊二日、銀山温泉に行くだけの旅行。温泉街を回って、風呂に入って、宿で話をするだけの旅行だったが、それぞれの近況を話すだけでも楽しい時間だった。


 今度はしっかり、杏の顔を見た。横顔。サングラス。ハンドルを握る手。


 さっきの杏の言葉を自分に当てはめてみた。


「私だったら……変われないかもしれない。もちろんね、変わろうとは思うんだよ。杏は知ってると思うけど、私の家は片親で、そこまで不自由なく過ごしてきたけど、でもそれって、お母さんがそう思わせないようにしてたからだって、大人になって気づいた」


 うん、うん、と杏は相槌を打っていた。


「何も知らなかったんだなあって。知らないから幸せだったんだなあって。お母さんのことは大好きだし、尊敬してるけど、でも、私はああはなれないだろうなあ。昔さ、お母さんと喧嘩したときに、絶対に早く結婚して家を出てやる、そんでもって離婚は絶対しない、って息巻いてたんだけど、どうでもよくなっちゃった。なんなら、離婚はしないって思って結婚しても気づいたら離婚してそうだよ私は」


 いつの間にか自分の話になっていることに気づき、あ、と藤原は思う。ごめん、と言おうとしたときに、「やる決断よりも、やめる決断の方がよっぽど覚悟がいると思うなあ。そんな歌があったよ。ビーバーに」と杏が言った。


「どんな歌?」


「誰かがいろいろ考えて決めたことを、運命って一言で片づけんなよーって歌。まあタイトルは運命なんだけどさ。27のアルバム擦り切れるほど聞いたなー。懐かしい」


 杏は、「聴くか」と言ってカーナビを操作した。


「私はなぞるんじゃないかと思うんだよ。どっちかって言うと」


 カーナビの画面の下で、曲名が変わった。男の人の声が流れる。


「いくら右往左往したところで結局未来は変わらなかった、っていうタイムスリップ系の話みたいにさ。毎日何千何万と判断を下す人間の脳のことだから、理論上は無数に枝分かれした未来があるはずなんだけど、自分で決断したように思っているだけで、実際はその判断を下すことがすでに決まっているみたいな。無数の枝分かれはダミーで、初めから一本しかないの。まあ、これが一般的な運命の意味の要約なんだけど、初めから決まっていようと何と言おうと、その人が決めるに至った経緯も決断も、絶対に美しいから自信持ちなよ、ってよく大学時代この曲に励まされたんだが、」


 そこで杏は話を切った。


 藤原は彼女の横顔を見る。サングラスの隙間から眼を見る。


 何か思い出しているようにも見えた。何から話そうかと要約しているようにも見えた。


 曲が流れている。


「大学二年くらいのときに、あのやっすい池袋の飲み屋で、平田(ひらた)さんと池辺(いけべ)さんと飲みに行ったの覚えてる? その後平田さんは歩いて帰って、残りの三人はカラオケでオールして翌朝五時のこっつぁぶいサンシャイン通り駆け下ったの」


 なんとなく覚えていた。店の名前を出さなくても覚えていたのはきっと、池袋で安いと言うと大学生ご用達のあの飲み屋ぐらいしかないからだ。


「なんとなく覚えてる」


「私も酔ってたからあんまり覚えてないんだけど、どうしてそうなったのか、一人ひとり自分の秘密を話します、みたいな感じになって、あ思い出した。違うわ、黒歴史か。黒歴史一人ずつ話そうってなってさ、やだなあって思ってたら私の思ってた黒歴史のニュアンスと違ってさ」


 覚えている。たしか、最初に平田さんが高校時代いじめられていた、と言い、次に池辺さんが実はうつなんだ、と告白し、その流れで藤原は実は片親で、と結果的に本当の話をしてしまった気がする。用意していた架空の下世話なネタは結局言わず仕舞いだった。


 あのとき杏はたしか、私にはそんな感じの本当にないの、と手をぶんぶん振っていなかったか。


「あのとき話せなかったことが今の今まで忘れてたんだけど、なんか思い出しちゃって。これも運命ってやつかな。まあまだ高速長いし、言いたいだけだから聞き流してよ」


 そう言って微笑むと、杏は話し出した。




「ああー何から話そうか……きっかけは先輩の論文かなんかの発表会。絶対出なきゃいけなかったんだけど、その日、兄の引っ越しがあって手伝ってくれって母に言われてたのね。十二時半くらいには行くからって新居のアパートの方で待ってたんだけど、時間通りに来なくて。十四時にはそこを離れなきゃ間に合わなかったんだけど、もう過ぎちゃってて。遅れていくこともできたけど、嫌じゃん。講義で遅れていくときもそうだったけど、教室に入るとき全員の視界に入る訳よ。あれが嫌でさー、遅れるくらいならもう行かないって感じだったから、要するにサボったのね。私にしては珍しく。


 一回サボると今までなんでこんなに真面目に言われたとおりにしてたんだろうとか、もうなんだかどうでもよくなってきちゃってね。元々、大学卒業したら同じような毎日を繰り返すのかとか、漠然とした不安に悩んでたのもあって、きっかけは取るに足らないことだったけど、そこから怠惰になっていったのよ。きっかけはいつも些細なものだと思った。結局、延期されたものでしかない。もっと早くにだらしなくなっていたかもしれないし、ずるずると真面目にこの先もやり続けていたかもしれない。このことに限らず、あらゆることが生まれたその日から延期されているように思えた。


 佐々木くん、覚えてるよね? 三年の夏までで私は大学やめちゃったんだけど、もうそのときは、私の自由だ、どうとでもなれって開き直ってた感じだったから、一類の絶対取らなきゃいけない科目を取らずに、二類の取っても取らなくてもいい科目で時間割組んで履修登録したのね。大学から電話来てたけどしらばっくれてたら親に電話行って、バイト先に電話来て、で教授と面談して、大学辞めますってことになったんだけど、まあ、暇な訳よ。講義を最低限しか取ってないから。


 そのとき教授とも話した覚えあるんだけど、何かやること決めないとやめたところで意味ないよって。あのときは全然わかんなかったけど、今ならよくわかる。学校とか仕事って、何もない人間にとって一種の依存先なのよ。仕事が無くなったら、お金がなくて生きられないのは勿論だけど、それ以前に何もなくなっちゃう。きっと、教授には人として堕落していくのがわかってたんだろうね。そういう意味で、学校って楽だったんだなってそのとき思った。自分で決めなくても大人に言われたことをやっていればいいだけだったから。実際、ある程度言うことを聞いて、駄目なら相談すればそれなりの環境が手に入る見込みがある。大人は経験済みだから当然よね。その道標や多くの標識を失うんだとしたら、自分で道標を築かなきゃいけない。付随した標識を立てなきゃいけない。これって結構根気がいるのよね。就活を経験済みの大人や、多くの就活生を見てきた精通している大学の教員と違って、そもそも私にはその標識の先に、求めた環境があるかどうかもわからない。大丈夫、って不安を打ち消して、私には才能があるって思い込んで、いつまで信じていられるか馬鹿でいられるかって戦いよ。私はどうにでもなれって感じだったけど。


 家族とか、趣味とか、他に依存先があるならともかく私にはなかった。だから、就活します! って宣言して部屋出た。あの人の部屋きったなかったな。いい人だったけど。実家に名刺あるし。まだいるんかしら。


 就職先は地元に決めた。案外簡単に決まっちゃって拍子抜け。昔と違ってこだわりがなければ就職先はいくらでもあったから。それで、どうせあと三か月で地元に帰るんだしそれまでだから、って保険かけて話しかけたのが佐々木くん。


 私の中で恋愛って結婚に紐づくものだった。一緒に遊んで、一緒に話して、それで結婚。恋愛と結婚は別物って人もいっぱいいるの知ってたけど、それでも二十代って貴重じゃん。子ども産むってなれば遅くても三十後半。貴重な二十代の時間を結婚する気もない人と過ごして無駄にするのは相手に悪いと思ったし、気が引けた。今思えば傲慢な話だけどね。


 でも、三か月となれば話は別。終わりが初めから見えてるとやっぱり組み立てやすい。どうせ三か月だしそもそも私と一緒に出掛けてくれるかわかんないし、って理由付けて大学のグループLINEから友達追加して「のみいこ」みたいなこと送った気がする。どうせ返ってこないだろうって思ってたら返ってきちゃったんだよねえ。うん。


 もうその辺の記憶はあんまりない。なんで一度も話したことのない私に返信してきたのかも、なんで佐々木くんだったのかも。講義で度々見かけてたはずなんだけど、覚えてる服装、黒のMA‐1だけ。


 それもまた運命ってことにしちゃう。佐々木くんを選ぶことが初めから決まっていたって。その方が気が楽だしね。


 佐々木くんとは腹を割って話せていた気がしてた。もしかしたら腹を割って話せていると思っているのは私だけで、彼はそんなこと夢にも思っていなかったかもしれないけど。


 何回か一緒に出掛けたんだけど、一回強く言っちゃったことがあって。あれ、って思ったの。こんなこと今まであったっけって。そりゃ、仲が良くなれば他人行儀じゃなくなって、敬語も抜けて、嫌なことは嫌だって言えるようになるのかもしれないけど、そういうのとちょっと違った。それで申し訳なくなって、ごめん、ごめんって謝って、ご飯代奢って、欲しいって言ってたCDまであげて。佐々木くんは自分で買うって聞かなかったけど、すごく悪いことをしたなって無理矢理、買って押し付けて。


 なんか直感でよからぬものは感じたんだけどその正体が掴めないまま何日も経って、ふと講義中に思い出した。つまらない講義だったから、電車で読んでる小説取り出して読み始めて四、五ページ。優しいケースワーカーが落ちていく話なんだけど、そこに出てくる若い女が五歳の娘を蹴ってその後に、「●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●」って言った。


 ぴしっと、脳の中で何かが鳴った気がした。


 その若い女は、「●●●●●●」と娘に訊いた。「●●●●●●●」と。


 そこからは早かったな。


 佐々木くんに強く言っちゃったときのことに重なるだけならよかった。でも違ったんだよね。私があの小説読んでて思い出したのはそんな事じゃない。


 母のこと――。




 何かの帰り道。多分夏休み。大学の。あと数キロで実家に着くだろうというところで母は口にした。


 実際にどういう言葉を使ったのかは覚えていない。ただ、運転席に座る母のことを、後部座席から眺めている自分。車が進む農道。その景色と残像。それだけ。それなのに忘れられない。ばあちゃんのことをよく叩いた。酒に酔って、髪を引っ張った。止めようとすればお母さんが引っ張られた。早死にした祖父。献身的に看た祖母。そんな祖母も、杏が中学の頃に亡くなっていた。


 やっと、大人になったのだと杏は思った。子どもにこんな話はできない。それでもできれば聞きたくなかった。聞いてしまったからには聞く前の自分には戻れない。


 悪いのは母ではない。母はずっと誰かに一緒に背負ってもらいたかったものを今の今まで一人で抱えていたのだ。母は耐えたのだろう、今も昔も。悪いのはネグレクトが連鎖することを知ってしまっていた私。自信がない私。可能性を捨てたかった私。自分に虐待の素質があろうと跳ねのける自信がない。だって、有線のイヤホンが引っ掛かって、ばっ、て取れるだけでイライラする私だもん。普段から余裕を持って生きていても、いくら煙草で気分を沈めても、思うには思うんだ。イラっとしちゃうと思うんだ。ちょっとした拍子に手が出て、偶然打ちどころが悪くて、稀有なことかもしれないけど、偶然の一回が一番最初に来て、そんなの嫌だ。私も嫌だし子どもはどうだ。手が出るのはよくない。母は私に手を出さなかった。怒ることがあっても、家を荒らすことがあっても、子どもには手を出さなかった。


 酒を嫌った母。


 飲み過ぎないでね、と何度も言われた。


 私は嫌いだけどあなたには許す、そういう優しさがあったから。幼い頃に厳しくされていたから今こうして自分の頭で考え、予測し、自発的に行動し、様々なことを俯瞰できるのだろう。


 感謝しかない。


 苦しんだ分幸せにならないと割に合わない。


 ●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●――私の人生を見たかのように、タイミングよく彼らの声がした。




 気づいたら少し荒い息をしてたの。隣の優しい子が声をかけてくれて、トイレに立ったんだけど、そのまま家に帰った。鞄忘れたこと思い出して、教室に取りに来たら部屋の電気が一つだけ点いてた。まだ椅子の上に鞄があった。その隣で律儀に待っててくれたのが苑子だよ」


 答え合わせ、とはテストにだけ使われるのではないのだと思った。あの日、藤原は杏に声を掛けた。怖い顔をしていたから気になって声を掛けた。でもそれだけじゃなかった。


 以前別の男子が会話しているのが耳に入ってしまった。佐々木と二人で出かけている女子を見たと。それが杏だった。


 好き、とまでは思っていなかったが、佐々木に少なからず好意を持っていたのも事実。そのことについて聞いてみようと思ったのだ。


 そうか、あの日――藤原は過去を悔いた。そんなことがあった杏に、大丈夫だった? と声を掛けたのは覚えているが、一緒に帰るときに根掘り葉掘り佐々木のことを聞いてしまったのだ。杏はすべて何とはなしに答えた。杏は、え、全然そんなことないよ、なんかちょっと話してみたいなって思っただけだから、と引き下がった。そのときはほんとかよー嘘だったらしばくからなーとか思っていたが、実際三か月後には退学していたので彼女の言った通りだった。


「もしかして、私に気を遣ってた?」藤原は不安になって訊いた。「佐々木くんのこと根掘り葉掘り聞いちゃったから」


「ぜんぜん!」


 杏は平然と言った。


「好きだったよ、確かに。そういう意味では嘘ついちゃったね、ごめん。でもそれどころじゃなかったから私は。それに、初めから三か月だけって決めてたから」


「そのあと連絡とってないの?」


「……んーごめん、また嘘ついた。何回かLINEした。その度に馬鹿だなあーって思ってたけど。どうせ付き合う気もない癖に未練たらたらじゃんって」


「付き合えばよかったじゃん」そう言ったあとで、藤原は失言だったと気づいた。


「ねえ、苑子だったら、前向きに生きるか後ろ向きに生きるかどっちを選ぶ?」


「……よくわかんないかも」


「前向きに生きようかなー」杏が呟く。「よし、連絡してみよう」


「まじ?」


「うん! 苑子が」




 あの後どうしたっけ。確か次のパーキングに停まって、返信が返ってきて、何度かやり取りを繰り返したら、「なんかこれは文字の使い方変わったね」「彼女か嫁いるね」って、二人で文面で察した、はず。


 お。


 杏の視線に「加藤」の文字が入る。結局自分で探しても見当たらなかったので、店員に声を掛けたのだった。若い男の店員が案内したのは杏が探していた棚とは逆の棚で、客から見えやすい棚のエンドに大きく売り場を広げていた。


「今年最注目ねえ」


 華やかな色のマーカーで描かれたポップの文字を読み上げ、平積みされている一つを手に取った。



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