12
夏、はいつも私を自虐させた。夏そのものに焦燥を抱き始めたのはいつの頃からか。ばっ、と弾けて消えてしまう花火は切ないのに、晩夏の夜独特の温みは、初秋を迎え、冬を超えて春を迎えても消えない。どうして人と人とが心の底を撫でるような印象が抜けないのだろうか。花火大会だろうとクリスマスだろうと、どの季節でも人と人とは愛し合うのにどうして夏にだけこんなにも焦がれているのだろうか。
窓越しに聞く蝉の声。燦燦と降り注ぐ日差し。青々とした空を隠す、青々とした葉を携える樹木。その麓を通り過ぎていく車いすの老婆。車いすを押すナース。何を話しているのだろう。きっと他愛もない話だ。ナースは形式的な返事しか返さない。かといって、他人行儀ではない。憎めない。いっそのこと、もっと踏み込んで話してくれたらいいのに。私はそれを拒まない。
もし私が、余命少ない命なのだとしたら、きっとそんなことを思う。そうだな……北海道のイメージ。広い草原で、今日みたいに青々とした夏の空で、隔てる建築物が何一つないところに一本の樹木があって、その下で背中を預けながら読書をする。大きな樹木の下は日陰になっていて、すごく暑いのに風通しが良くて、でもそんなことに気付かないくらい読書に集中できて、でも帽子を被っていたらふいに飛んでいってしまいそうで。そんな木の下で近づく残りの時間を費やす。人ひとりいない草原の木の下で、学生の頃みたいにありあまる時間を無駄遣いする。永遠のように続いていくような気がしていたあの頃の持て余していた時間を、永遠にそこで使いたい。ねえ、樹木葬って知ってますか? もし私がそういう話を切り出したら、ナースは何と答えるだろう。
――世の中には自分と同じことを考えている人が絶対に一人はいるんだよ! だってこんなに広いんだもん――
いつか大学の教室でそんなことを話した生徒がいた。名前は何だったろう。記憶を手繰る。長机の右隣に座っていて。こっちを見ていて、どの講義でも一番前に座っている印象で、でもこのときは後ろで、話したこともほぼないのにすごい熱量の籠った声だなと前を向くと、ホワイトボードの前で私たち以外みんな何かを書いていて――
「それならホワイトボードに意見や主張を書くまでもなく、誰かの引用で事足りるねー。そいつが論文書いてればだけど」
今では判然としない、残像となった彼女に向かって呟いてみる。自然と口角が上がっていることに気づき、熱量のある話って好きなんだよなーと顧みる。何なら話の内容なんかどうでもよくて、その熱心に話している人の表情なんかが好きなんだよなあ。
コンコン、と音がする。杏が窓から視線を外すと、病室の入り口には仁科の姿が見えた。どう反応していいかわからず、彼女が近づいてくるのを待っていた。彼女はベッドの脇に来ると、杏の胸に飛び込んだ。
「え、なになに、どうしたの」杏がそう言えば、「どうしたのじゃないよ! 本当に死んじゃったのかと思ったじゃない」杏の胸元で顔を上げた仁科の目には光るものがあった。
「死ぬ?」杏は思わず笑みをこぼした。「胃潰瘍で?」
「もう、笑うなー! 久々にこんなに恥ずかしくなった!」
「ありがとう。心配してくれたんだね。私も久々だなあ、泣かれるほど心配されたの」
「大げさだと思ってるんでしょ?」
「そんなことないよ」杏は仁科の体を起こし、ベッドに腰かける態勢にさせた。「本当にうれしいの。なんだろうな……体裁とか気にしてさ、迷惑かな、とか、痛い奴だと思われないかなとか考えてさ、あんまり本音で会話しなくなったよなあって、それこそ今入院してて時間いっぱいあるから、そんなこと考えててさ。病院に来てくれるだけでもうれしいのに、泣いて抱き着いてまでくれるなんて、そうそうあることじゃないよ。だからうれしい」杏はにっこりと笑う。「でもさ、なんで私が死んじゃったと思ったの? そもそも誰から聞いたの? それも胃潰瘍なのに」喋りながら杏は噴き出す。
「もうー、それはいったん忘れて!」
「はいはい、ごめんね」
「会社の連中が話してるの聞いたのよ。最初は、杏が休みだって聞いて、へえ珍しいな、って思ってたら今度は自殺したらしいって話が聞こえて来て……今思えば噂の段階で信用したあたしが馬鹿だった。噂なんて大概信憑性ないのに。あーーほんっとに恥ずかしい。穴があったら潜りたい」
杏が布団を上げて「入る?」と訊く。
仁科は手と首を横に振る。
「でもなんでだろうねー」杏は布団を整えながら話す。「どうやったら胃潰瘍から自殺に辿り着くのかさっぱり」
「手術はしたの?」
「まさかー、してないよー。朝起きたらすごくお腹痛くってさー、腹痛で病院行くのもどうかとは思ったんだけどほんと痛くて、それで会社に遅れますって言ったら、こないだの振替で休みでいいよってなって。病院行って、診察中におえーってなっちゃって、検査になった」
「そっかー」仁科はベッドに後ろ手を付いた。「どっかの馬鹿の想像力が飛躍しすぎちゃったかな」
「だね。もう大丈夫。ありがとう来てくれて。昼休み終わっちゃうから」
「うん、そうする。また連絡するね」
手を振る仁科に、杏も手を振り返す。開きっぱなしの引き戸の向こうから彼女の姿が消える。
杏はまた窓の外を眺める。樹木の麓をぽつぽつと歩く人。病衣のポケットからスマホを取り出す。ベッド脇に置かれた鞄から、通勤時に使っている有線のイヤホンを取り出し、差し込む。耳にイヤホンを入れる。ウィジェットの再生ボタンを押す。曲の世界観に入り込めれば、きっとこの白い退屈な病室の景色は変わる。耳から流れている声に耳を澄ます。目を閉じる。病室の景色は黒く消えた。まぶたの裏の黒い景色は、杏の働くビジネスオフィスの一室へと姿を変える。
デスクの横を通り過ぎていく社員。話し声。電話のコール音。雑踏。デスクの上に頬杖を突いた女がいる。そして、彼女の頭の中では、コピー機から吐き出された資料を振り上げ、仕切りとなっている本棚を倒し、息の詰まるこの空間を壊して、もっと自由に、といった妄想が繰り広げられている。
杏の頭の中では耳から聞こえる音楽と一緒に映像も流れていた。すでに何十回も見たミュージックビデオだ。当然っちゃ当然だろう。映像の中で踊るアイドルグループだろう彼女たちは、表現力に長けていた。自然と彼女たちが歌う声に耳を傾けている。と、数時間前まで信じていたのだが、実際は違った。
アイドルと言ったら普通歌って踊るだろう。そういう先入観に囚われていた自分にも驚いたし、わかって聴いても別々だとはわからないごくごく自然な表現になっているのも驚いた。何より、アイドルを躍らせておいて、歌うこの声の人物は何者なんだという興味に駆られた。
杏はすぐに検索エンジンで調べる。顔は出てこなかった。今時だなあ、と思いつつも、正体がわかってしまったら満足してしまうような気もした。隠れている部分があるから人は興味を惹かれるのだろう。上手いやり口だ。
曲が二番に入ると、ミュージックビデオの雰囲気はガラッと変わる。それまで楽しそうに踊っていた彼女たちの表情は忽然と消える。真顔になった。段々と険しくなる。それに沿うように踊りも激しくなっていた。初めにデスクに頬杖を突いていた子の手にはナイフが握られている。アイドルにナイフを持たせるんだ、と思うが、曲調に沿っていて違和感はないから不思議だ。表情からは怒り、恨み、そういった負の感情が読み取れた。パントマイムのように、彼女の前には誰もいないがまるでそこには敵がいるかのようで、ナイフを振りかぶったときに、周りで踊っていた子たちに囲まれ、渦の中に飲み込まれるかのような最期を迎える。そしてそれはやっぱり空想で、飲み込まれたはずの彼女はデスクの上で頬杖を突き、周りには初めの雑踏が戻っている。
明確に何がどういいのかっていうのが音楽に詳しくない杏にはわからなかったが、暇な病室だ。気づけば何度も再生していた。動画の下あたりに書いてあるアーティスト名。確かにそこには「加藤」と書いてあった。こういうのってもっと――やめよう。加藤。あんたのことを私は好きになった。それだけだ。
いつのまにか寝てしまったようで夜になっていた。カーテンを少し開ける。窓ガラスにも、杏の瞳にも、鮮やかな花が咲いている。胸騒ぎがしたのだろうか。どこかの騒がしさに起きてしまったんだろうか。どーん、どーんと続く音に目を覚ましたのだろう。
しばらく窓の縁に手をついて遠くで打ちあがる花火を眺めていた。花火なんて大人になってからは見に行っていない。あれ、そもそも子どもの頃は見に行っていたんだっけ、と思考を巡らす。杏の頭の中で幼少の頃の杏が立ち上がってキャッキャとその場で飛び跳ねている。ピンクのTシャツに淡いブルーの短パン。花柄のバケットハット。橋の両端の縁石に腰を下ろして皆が空を見上げている。〇〇ちゃん。ちゃんと花火見ないと。母の声だったか。幼少の杏はなぜか花火ではなく、皆同じ方向を見上げている人々の姿を眺めていた。
きっとこれが最後に花火を見た記憶。中学の頃の自分の姿を思い浮かべても、高校の頃の自分を想像しても、花火とは結び付かなかった。あ、大学――確か見た。でもそれは花火を見に行ったのではなく――杏の思い出した映像は、道端にあった煙草の自販機、その横にあった灰皿に灰を落としながら見たのだった。
花火大会に誘おうとは思わなかった。でも、彼はもしかしたら誘われるかもしれないと思って日程を空けてくれていたかもしれない。そんな自分に都合のいい想像をしては自己嫌悪を繰り返したことを覚えている。
杏のアルバイト先の近くで行われる花火大会。例年通り、売り上げが跳ね上がることがわかっていた。というのも、駅から花火大会の行われる河川敷までの主要道路の一角に位置した店だったからだ。その日限り、裏口付近で子ども用のプールに浮かべたアルコール類を販売する。
毎年のことで、その年もすでに数か月前から店長に出勤するように言われていた。休みたいと言えば休めたかもしれないが、断る勇気はなかった。断ることも、花火に誘う勇気も杏には持ち合わせていなかった。流れに身を任せたのだ。
目から入る人や耳に入る物音が増えることによって、普段よりも情報過多となった杏の頭に余裕はなかった。満員電車で疲れるの同様、普段のバイトよりも疲労感を覚える。だが、時給は忙しい日も暇な日も変わらない。
店長に「呆れた顔してるよ」と言われ、疲れたじゃなくて? と思い、当たりを見ながら考えてみると――浴衣、甚平、大人、子ども、黄色い声、リア充という言葉が思い浮かび、ああそうか、花火ってみんな大事な人と見に来るんだな、と思い至った。こっちは働いているのにのんきなもんだな、そういう顔だったのだろう。ましてや杏に恋人はいなかった。
一時間の休憩時間に、近くの公園に行った。密度の高くなった狭い歩道をすり抜けるように進んだ。辺りの人の流れは緩やかであるのに、その中を焦って遡上する鮭みたいだった。まだ夏だぞおい。やれやれ、と木陰のベンチに座った。公園は混んでいなかった。涼しい。風が吹いていた。ベンチの背もたれに寄りかかり、背中をのけぞって見上げれば、近くに立っている欅の木の枝が薄い青空を覆っていた。写真に撮れば、下から枝が生えているように見えるだろう。実際に撮った。
休憩から上がり、花火大会が始まるまでのピークの時間帯、客単価は下がり続けた。レジを打ち続け、レジから出れば冷ケースを補充し、「うわ、ぬるっ」と嫌味を言われ、「割り箸ないですか?」と聞かれ、もう何度言ったかわからない、ありません、すみません、を繰り返し、次にレジに入る頃には二十時を迎えていた。あれほど賑わっていた人々は店内から姿を消し、代わりに荒れてぼこぼこになった食品の棚が疲れたように残っていた。
「疲れたね」
今年から変わった店長とそんなことを話しながら、二人でレジの点検をしていた。外から花火の音が聞こえ始める。
「始まっちゃえばもう来ないよ」
「そうですね」
「帰り、煙草吸って帰ろう」
優しい店長だった。
閉店時間の九時を迎え、自動ドアの電源を切り、同じアルバイトの子と一緒にドアの前に立って手動ドアにする。入ってこようとするお客を丁重に退け、店内に残っていたお客を見送った。ドアを閉め、鍵を閉め、打刻し、四人のアルバイトと店長とともに店を出た。
店長と一緒に駅とは反対側にある煙草の自販機に向かう。そこに灰皿があったからだ。
花火は九時には打ち上げ終わっているはずだ。既に九時半を超えていたが、人の波は止まなかった。二人で煙草に火を点け吸いながら、流れの止まない人々の群れを眺めていた。
「傍から見るとキモいですよね」杏はそんなことを口走っていた。
「人を花だと思えば、少しは綺麗に映るんじゃない?」
え、と思い見れば、店長がにやけている。
世の中には見かけによらず、素敵なじーさんもいるもんだ。まるで、綺麗なものは隠しておくものだと言われているみたいだった。白髪に眼鏡の皴の寄った顔の店長。その皴一つひとつに、経験があって、思い出があって、その大事なものを隠す代償として、残ったように思えた。貫録を覚えた。
杏が最後に見たのは、そういう花だ。
まだ、遠くから流れてくる花火に、目が離せずにいた。
もう少し病床の上で見たかった景色があった。余韻は美しい。囲われた部屋から雲をじっと見ていると、普段は絶対に気づかないのに、雲が動いていることがわかる。
普通に過ごしていたら忙しくて見落としてしまうものが見える。見えていないものが見える。そんな病院生活も二日で幕を閉じた。
退職届はすでに受理されているはずだ。退職日は来月の半ばだが、四十日分の有休消化が一昨日から始まっているので、実質すでに退職済み。最後の出勤日に入院することになるとは、人生何があるかわからないものだ。だが、一日有給が繰り上がっただけで、さして変わりはない。会社の荷物はすでにあらかた整理して持ち帰っている。ああ、それもあってか。もしかしたら荷物が少なかったこともあって、どっかの社員が自殺と勘違いしたのかもしれない。本当に死にたい奴は、荷物なんか片づける余裕ないんじゃ、とも思うが、考えるのをやめた。事前に自殺する日を決めてしっかりその日に死ぬ奴もいるはずだ。
病院を出た足で、CDショップに向かった。たった二日であったが、仕事しかしてこなかった杏にとって、仕事を奪われてしまえば残るのは時間である。一日とはこんなに長いものなのか。何かするには短いが、何もしないとなると時間はありあまるほどに長い。
CDショップに入ると、加藤、の文字を探した。今時はサブスク、ストリーミング、所謂CDという形態ではなく、配信という形で楽曲をリリースすることが多くなっている。CDと配信の両方でリリースする人もいるが、中には配信限定ということも少なくはない。
事前に調べてあった。時間はありあまるほどにあったのだ。加藤、のCDを探そうと右往左往した。
どうしてその子だったのだろうかと思う。人が誰かを好きになることに理由なんてないと言われればそれまでだが、それじゃあロマンがない。惹かれ合うべくして惹かれたんだよ、と教えてくれたらもっと相手を愛せるではないか。もっと相手ときつく結ばれるのではないか。
心理学者や生物学者に聞けば、こういう仕草が法則が……生存本能が……と言うのかもしれないが、杏にそんな知識はない。知識を得たところで本当に相手は振り向いてくれるのか。好きな相手に想ってもないことを言ってみたり、思ってもない仕草をしてみたり、それで手に入ったところで、偽りではないだろうか。仮に結婚したら、同棲しているうちに本性がばれて離婚するのではないか。
こと、恋愛に関しては仕草が、法則が、を使ってもいい。ただ結婚は別だ。自分だけの人生ではない。子どもを産むとなれば猶更だ。子どもに気を遣わせたら死にたくなる。
未だに結論は出ない。合理的な結婚でも、恋愛結婚でも、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。そうとしか言えなかった。
ただ、杏は――それ以前だった。




