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前後普遍  作者: 面映唯
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 欲から逃れるのに手っ取り早いのは、別の欲に転嫁することだ。些細な欲はいくらでも作った方がいい。酒に煙草に賭博。気づいたら強欲になっているはずだ。強欲になったお前は当初逃れたかった欲はおろか、その欲から逃れたかったと感じていたことすら忘れるだろう。いつしかこの先、そのことをふと思い出すときが来るということも忘れて。


 感情は無常である。感情から完全に逸脱した人はきっともうこの世にはいない。仏様ですら慈悲の念から脱していない。何か変えたいのであれば何かに乗り換えるべきだ。サラリーマン、ニート、サラリーマン、ニートと繰り返してフリーターになるのもいい。


 人間は欲から完全に脱却することはできない。当たり前のことだ。感情が無くなれば、我々は厳かではなくなる。人間ではなくなる。だから金を大事にするのも最後の晩餐みたいな一日を繰り返すのもいい。だが、何もかも無くすとなると話は別だ。失くそうと隠そうと、すればするほど対極にある欲が顔を出すのだ。この感情は忘れられない? 環境を変えろ。クレジットの与信がない? デビットにしろ。あんたのせいで口座が空っぽだ? お前みたいな現金な奴は現金がお似合いだ。店主はきっと喜ぶはずだ。


 無くそうとすることが間違いである。そんな俺は自殺志願者である。



 生きたい、と普段から思う人は果たして少ないだろう。だがその人たちが現に生きているというのなら、彼らにはきっと深層心理的な意味で生きたいという欲が備わっている。その逆も然りだろうか。死にたい、と思っているのに死ねていない、今、生きてしまっている人は、深層心理では生きたいと願っているのだろうか。


 わからなかった。一つ言えるのは、生まれてしまった時点で欲から逃れられないこと。生きている、という事象に対して、欲、という側面を持つのならば、欲を持たない人間などこの世には存在しないではないか。天国で生きているかもしれないって? それは俺の範疇では判断がつかない。


 要するにだ。欲から完全に逃れる方法が一つはあるのだ。天国とか地獄とか、転生とか、そういったものを除いて。


 その方法の一つを選び取ったと聞いたとき、誰かを敬うだとか尊ぶという感情から長く離れていたせいか、自分の中で微かに熱を感じた。また欲が生まれた。こいつは厄介。近づきすぎると、抜け出せなくなる。でも、死にたいという欲であれば、死んだら本望だし、生きていても普通だし、別にそこまで嫌うほどでもないのでは――。


「なんだよ、これ……」


 哀しいのか? 悲しんでいるのか。寂しいのか。それとも淋しい? 仁科の言ったとおりだった。もっとこうしてあげればよかった、もっとこういうこともできたのではないか、杏にとっては不都合であったとしても、もっとああしていれば死ぬことはなかったのではないか。


 理屈ではわかっていた。何を望んでいるかなんて本人にしかわからない。産まれた瞬間、死にてえ! と思っておぎゃーと叫んだのかもしれないし、最初は生きたかったけどだんだん死にたくなったのかもしれない。友達が欲しかっただけ。傲慢だ。傲慢だ傲慢すぎる。何を他人の俺が一社員について考えているんだ。馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ。なんでどうしてもっと馬鹿に生きられなかった。頭で考えて、理屈で正当化して、正しい判断をして、正しいからって正しく判断するべきじゃない場面だってあっただろう。間違った選択をすることで得られるものだってあったはずだ。どうして……完璧でなければならない。どうして何も捨てられない。嫌われたっていいじゃないか。誰か一人に良しと思ってもらえれば。そうだ。それを良く思わない人がいるからじゃないか。誰かに良くしたら、別の誰かはそれを良く思わないから、だから、人に近づきすぎず、かといって遠すぎず、真面目に、口数少なく、余計なことを喋らずに、ほどほどの関係性を保ってきたんじゃないか。長く居ると情が沸く。だから、二、三年周期で職を転々とする。わかっていたことだ。正しさなんて人の数ほどある。どの正しさを選び取るかは奴らの自由だ。俺はこれを選んだというだけ。その正しさに見合わなかったものが、俺の中から零れ落ちていく。


 半端な生き方をした。


 転居を決意した理由の隣人が亡くなったらしいと、風の噂で聞いた。今ならわかる気がした。彼が周りの住人に迷惑をかけてまで話し続けた理由が。迷惑でしかなかったが、亡くなったと聞いたときのこの侘しさ。拭えない。どれだけ嫌いでも、拭えない。これから死ぬ人間にとっては、それが悲しくも、この上ない声援のようにも聞こえる。それが死の答えである気がした。



 どうしても生活の質を下げたかった。


 ブランド品。靴。CD。小説。


 本当の意味で、一か月後に死ぬとわかっている感覚で生きてみたかった。


 気づくのだ。自分にとって服とは――でもダメだ、下げなきゃいけない。一度上がった生活水準は、それなりの決意を要した。CDとは――思い出を彩る装飾品、きっかけ。


 服もCDもすでに段ボールの中だ。服の色も、CDのジャケットも視界にはない。なのに、どうもこう想像してしまうのだ。封のされた段ボールを見ると、その中にはあの服が入っていて、このCDが入っていて、その全容を頭が頭の中に映し出す。映し出されたら、その服を着て出かけたときのこと、行った場所、隣にいた人、CDを聞いていたときの環境、あの日感じたこと、そういうものがとめどなく溢れて来て止まない。


 どうして――俺はこんなものを好きになってしまったのだろう――。


 形あるものなのだからいつかは無くなる。無くなる時のことを想像して手に入れる人は少ない――。


 ああ、なんて残酷なんだ。どうしてこんなにも美しいのだろう。


 何かが無くなるときの妄想、抱いた感覚、この感情が美しいとするなら、何かが無くなるために何かを手にしていたのかもしれない。


 人間も? いつか心おきなく死ぬために今を生きている。どうやって死ぬかの問題じゃない。いつ死ぬかの問題じゃない。早く死のうが、遅く死のうが、交通事故で死のうが病で死のうが自殺だろうが、関係ない。


 もうそこにお前はいない。


 こんな漫画みたいな人本当にいるんだ。初めて杏を見たときに抱いた感情だ。他人と比べることに慣れた知にとって、それは厄介な感情だった。それでもやっぱり、自分が好きなんだ。自分を好きにならないとやっていけなかったんだ。どれだけ醜くても服が綺麗なら印象は変わる。


 結局知が好きだったのは自分ではなく、他者から見えた自分の姿だった。


 くだらん。


 理想の生き方。再考な生き方。ホープを一カートン。あと何本吸えば、あといくつ希望を取り込めば、あと何回信じれば、何回望めば、期待すれば、願えば、ウィッシュじゃない、現実的なはずなんだ、ちらついているんだ、ちらついていたからだ、こんな自分を殺せるだろうか。


 段ボールを肘置きにして、煙草を咥えている。テーブルの上の灰皿から、吸殻が崩れる。灰が散らばる。部屋中に舞い踊る煙は、火災報知機を作動させていてもおかしくない天井模様。火災報知機は、キッチンにしかない。スプリンクラーは元々ない。人工的な雨でも、降ってくれればそれなりに感傷に浸れるだろうに。頭が冷えるだろうに。まあいいや、また明日。そうやっていつの間にか瞼が落ち、開けっ放しのままのカーテンから差し込む日差しと早朝から活動している人々の生活音に目覚める。また日が昇った。考えるよりも先に身体が動いて、ルーティーンが始まる。冷凍庫から冷凍うどんを取り出し電子レンジに入れる。昨晩買ったスーパーの売れ残りの菓子パンを咥え、布団を畳む。チン、という音とともに電子レンジに近づき扉を開ける。塩コショウを振って麺を啜る。シンクに置く。水につける。服を脱ぐ。シャワーを浴びる。バスタオルで拭く。ドライヤーの風、整髪料のベトベト、着替えた背広。つるつるになった歯を舌で舐める。カバンを引っ手繰って、ポケットのスマホを確認して――。


 モラトリアム。


 すべての行いが猶予。


 音楽か、彼女か。


 この期に及んで決めあぐねている。


 才能がないことなんてとっくにわかっているのに、まだ本気じゃないからと言っていつまでも諦めることを先延ばしにしている。


 このことを話すためには覚悟がいる。


 今すぐ決断するには覚悟がいる。


 変えるしかないんだ。大事なモノを握りしめて離さない方角へ、方位磁石の針をくるっと。何度人生をやり直したって、後悔からは逃れられない。後悔は人間に与えられた、人間を美しくするために備わっている必然的感情。


 俺の辞書には、失って困るようなものは持ってはならないって書いてあんの。


 それじゃあ駄目だ。


 損なわれた感情からしか思想は生まれない。嬉しいとか楽しい感情からも生まれるかもしれないけど、愚痴とか、ふざけんなって感情が強い意志を生み出すのは確かだった。


 未だ、決めあぐねている。


 まわる、

 まわる。

 言葉が、

 思想が、

 何かが。

 何事かが。


 テーブルの上は吸殻でいっぱいだった。頭が揺れている。手を伸ばすのが億劫になって、テーブルの上に灰を落とした。テーブルが焦げやしないだろうか。さっきから煙のにおいがする。山盛りの灰皿に手を伸ばし、おぼつかない視界と震える指先で何とか掴み、段ボールの上へと移動させようとする。ダンボールの角に灰皿をぶつけ、床に灰と吸い殻が広がる。掃除しなきゃ。掃除機どこだっけ。コロコロとクイックルワイパーしかないや。早く、取りにいかないと。立ち上がろうとして立ち上がれなくて、何度か試して面倒になって、重い腰を床に落とした。天井を仰ぐ。右手を口元に。くゆらせた煙、吸い込んだ煙は均一になって吐き出された。火だけはちゃんと消さないと……視界が定まらない。頭が痛い。肺がきゅうきゅうする。震えている。何に震えているんだ俺は……。灰皿を床に落としたことを忘れ、元あったはずのテーブルの上に火種を押し付ける。ちゃんと消さなければ――焦点が合わす、あてずっぽうにフィルターを押し付ける。やがて力尽きたかのように、その場で背中が床を受けとめる。


 煙が雲のように浮いている。


 まるで浴室のようだ。


 俺がやりたかったのは、これから死ぬ人に向いた創作だった。


 全然普通じゃないよね。


 なんて、居もしない加藤に向かって呟く。




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