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どんなことでもいい。例えば、今日ピザが食べたいとピザ屋に行く。カメラロールを開きふいに、懐かしいなと思ったとき、あのころ聴いていた曲が聞きたいなと動画サイトに飛んだとき、ああ、今の自分にはこれが必要だったんだなと思えた瞬間、必要なものは必要な時に意図せず現れるという理屈に筋が通る。
イヤホンからは加藤の歌声が聞こえる。苦痛な満員電車を彼女の曲で乗り切った知は、無事会社へとたどり着く。デスクに着くと、それを確認したかのように、数メートル先にいた仁科が近づくのが見えた。今日は何を言われることやら。視線を外し、持っていた鞄から資料を取り出す。
「ねえ、聞いた?」
「音楽なら満員電車の中で聴いてきたよ。久々に部屋以外で音楽聴いたけど悪くないね」知はポケットの中に入っていた無線のイヤホンを見せる。
「そうじゃなくてさ」
「わかってるよ。聞いたも何も、朝起きてから仁科と話すまで誰とも話してないから聞いてない」
「そうだよね。あの……なんて言うか聞きたい? 私が今から話すこと」
「ああ?」いつも自信たっぷりに言うくせに、今日はやけに口ごもる。ついに仁科にも罪悪感というものが……ないない、と我に返る。この女が誰かに気を遣うということなど、自分がホームレスになる未来と同じくらい想像しないはずだ。どうせまた課長に何か言われて俺のところに伝書鳩みたいにコクコクしながら伝えに来ただけだろう。
「何? 言ってみて。どうせそのうち聞くことになるだろうから早い方がいい」そう言って知はデスクのパソコンの電源を入れた。スリープにしていたパソコンはすぐに立ち上がり、押し慣れたパスコードを入力する。
「杏が自殺したって」
パスコードを押し終えた知の指が止まる。一寸して、エンターを押す。デスクトップの画面がモニターに広がる。
「そう」知は昨日の資料のファイルを開く。
「そうって」
「それ以外になんて答えればいいんだよ」資料のファイルが開き、昨日課長に指摘された箇所に手直しを加え始める。
「もっとなんかあるでしょう。どういう状況だったのかとか、なんでそんなことしたのかとか、昨日の会社ではどんな感じだったのとか」
「どんな感じも何も、もう死んだんだろ」知は入力し続けていたが、その言葉が地雷だったのだろう。仁科は知の頬を叩いた。それでも何もなかったようにキーボードを叩き続け、キーボードの音だけが聞こえ始めて数秒、仁科は「いいから手を止めろよ!」と声を荒げた。知の胸倉を掴んでデスクチェアから立たせ、対峙する。
仁科は言葉に詰まる。
「もう遅いだろ。何をしたって。仁科が欲しい言葉を言ったって」
力の入っていない仁科の手を、知はゆっくりと胸元から外した。「生きてるときに気づいていれば食事にでも誘ったかもしれない。まあ、彼女からしたらよく知りもしない男と食事なんてまっぴらだって断られたかもしれないけどな。でも多分、そもそも気づけない。死にたい奴ほど普通に生きる。気を遣うからな」知はデスクチェアに座り、再びモニターに向き合いキーボードを叩き始めた。
「自殺したくない奴は自殺なんかしない。だとしたら本望。この曲が好き、この人が好き、だからずっと聞いていたい、ずっと一緒に居たい、ってのと同じくらい死にたかったと考えればわかりやすいだろ」
「でももっと、こうしてあげればよかったとか、そういう後悔みたいなのが……」
「傲慢だな。死んでからじゃないと気を遣えないなんて。まあでも……それは俺も同じか。こういうのはどこかで折り合いをつけるしかない。自分の役割を全うしてでも他人を無視するか、他人の役割にまで首を突っ込んで、自分の役割を疎かにするか。それとも……仁科は、両方とも器用にこなせそうか?」
仁科は答えなかった。
「俺にはできない」
モニターの画面がフリーズする。マウスを動かしてもカーソルは止まったままだ。慣れた手つきでショートカットキーを押すと、モニターの画面が消える。自身の顔が露になる。目頭を人差し指で擦る。涙はすでに枯れている。




