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前後普遍  作者: 面映唯
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 会社を出たのはニ十一時過ぎだった。日常であるからか、今日は早く仕事が終わりそうだと思ったとはいえ、落胆はない。早く家に帰りたい理由も、もう浮かばない。


 夜でも外は暑かった。シャツが背中にへばり付いている。冷房と汗の臭いが混ざった電車に揺られ、家に着くころには、課長の二度にわたる怒鳴り声は頭の中から消えていた。玄関のドアを開けると、昼間の暑さを吸収したような熱気がもわっと全身に降りかかる。電気をつけ、エアコンを入れる。ワイシャツとインナーシャツを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。スポーツブランドの短パンと部屋に干していたインナーシャツを着て、デスクの椅子に座った。腹は減っていない。酒瓶がそこにあったから口にした。パソコンの電源を入れ、動画サイトに飛んだ。数年前まで隣の部屋に住んでいた女の顔がそこに映っている。


 この部屋にも何度か出入りしていたが、この部屋で見るような彼女は画面上にいない。もっとお前はずぼらだっただろうが、とコメント欄に投稿してやろうと思ってやめた。知が望んだことだったからだ。ヘッドフォンをすると、自分好みの曲が流れてくる。どうして? この曲に関して言えば知が作ったものだからだ。だが、別の曲が流れてきたとしても、知は自分が作っていてもおかしくない曲だと思うだろう。何なら自分が作った曲だと錯覚してもおかしくない。それくらい、知と加藤(かとう)の音楽の趣味は合致していた。それ以外は何一つ合わなかった。服も、食も、生活でのこだわりも。シンプルと複雑。薄味と濃いめ。声質、歌唱力。


 最初に加藤の曲を聞いたとき、女の人なのにいい曲を作るなあと思ったのが本音だった。偏見である。男性脳と女性脳の違いのせいか、なんせ女性でここまで複雑でありながらまとまっている曲を作る人は、知の中で二人しか思い浮かばなかった。どちらかと言うと、女性アーティストは歌詞や歌声で訴えてくるタイプが多いのではないかと思っていた。故に、声や歌い方が好きな女性アーティストならいくらでもいた。だが、曲の構築と歌唱力の二つを兼ね備えた女性アーティストは稀有だった。


 そもそも、音楽に歌詞や声などあってもなくてもいい。ボーカロイドに嵌まった理由もそこにあった。勿論、接していくうちにボカロ独自の無機質な声、調教で変わる歌い方や、最近では人間の声に近づいてきているせいか、JPOPと変わらなくなってきている点についても、好きだなあと思うことは多々あった。


 音楽を作るうえで、大前提にあるのは曲だ。その上に詞があり、歌があり、人や表情、動作がある。知は、自分の歌声を聞きたいとは思わなかった。寧ろ聞きたくない。でも、自分の好む音楽が聴きたいから自分で作った。声の好きなボーカロイドという友達に歌わせて。


 加藤は、歌が下手だった。音痴ではない。だが声質に深みがあった。だから、あのまま加藤が歌い続けていても、そのうち世間様が見つけて今の知名度まで上り詰めていただろう。


 ただ、彼女はあのとき焦っていた。当然だ。二十後半にもなって正職に就いたことがなく、養ってくれそうな男どころか、彼氏が最後にいたのは学生の頃。漠然とした不安はあったのだろう。知がいくら「そのうち売れる。絶対」と言っても「なんでそんなことあんたにわかるのよ」と逆切れされるばかりだった。


 その理由は知にもあった。


 知が自分で聴く専用に作った曲を加藤に聞かせたところ、加藤は知と同様のことを感じた。加藤が「ネットにあげなよ。絶対再生数あたしぐらい行くよ」と言っても、知は聞かなかった。


 興味がなかったからだ。「結婚式をするとしたら、二人だけで挙げるタイプだ」と知は言った。


「その二人の結婚式を中継した画面越しに見て幸せになる人もいるんだよ」と加藤は言う。


「まあ、それなら確かにいいか。他人の幸せなんて俺に関係ないし、態々俺は不利益被らないもんな。相手の親に気使ったり、もてなす準備も要らねーしな」


「そうよ。それに、そんなに他人の評価気にしないなら自分で歌ったやつ上げればいいじゃない。それとも怖いの? 自分の声を聞くのが」


「自分の歌声なんて自分で聴きたかないが、俺の音楽が何年も音楽やってる加藤の再生数をこの動画一本で越えちまうことを危惧して、俺の美しい音楽を俺の歌声で少し汚しといてやる」



 知は、酒瓶に口をつける。デスク上のモニターには数年前、盛大な煽り合戦の元、動画サイトにアップされた、知自身が作り、歌った曲が流れていた。SNSで壁紙を依頼し、その壁紙に歌詞が流れるだけの動画だ。再生数は……最後に見たときより二倍近くになっている。当時の加藤にも今の加藤にも及ばない数字だ。ただ、正直驚いた。知自身、こんなにも再生されるとは思っても見なかった。


 コメント欄を見る。下に、下に。


 曲自体の評価もあったが、一番多いコメントは……


「声が好きです!」


 未だに知は自分の歌声を聞くと違和感がある。調べたところによると、頭蓋骨に響くのと響かないのとではこんなにも気持ち悪い差が生まれてしまうらしい。


 自分の声は今でも嫌いだ。


 嫌いだけど、声がいいのは事実なのだろう。


 加藤がああやって言うから。



 その年の冬。「あたしに暮れも盆もないのよ」と毎年実家に帰っていなかった加藤が珍しく帰省した。東京に帰ってきて早々、彼女は知の部屋に来た。


「知に言っておこうと思って」


「何を」


「あたし、次の曲がダメだったら就職する。彼氏も探す。そんで結婚する」


「そうか」


「……それだけ?」


「あん?」


「驚かないの?」


「普通のことだろ。世間の大抵の女性は、誰かに宣言するまでもなくそうしてるよ」


「そうじゃなくて。あたしが音楽やめるってことに対して」


 企画の資料を作っていた知は、そこでやっとパソコンの画面から視線を外し、加藤の顔を見た。声からは全く想像もできない面だった。珍しく化粧をしていない。素朴な顔。皴の寄った頬と眉。眉が細い。目元が薄い。唇が青い。部屋が汚くて、音楽のこと以外は家事も何もできなかった加藤でも、化粧だけは、薄くても知と会う際にいつもしていた。


 していない。


 余裕がない。


 知の頭に文字が浮かぶ。


「だらだらと続ける努力よりもさ、やめる決断ってのが一番しづらいよな。俺もさ、いつかはやめなきゃいけない、このままじゃいけないって何年も思ってることがあるんだけどさ、未だにだらだらと決めあぐねてる。俺がどうこう言える話じゃないから、加藤が決めたことにとやかく俺は言いたくない。でも、加藤の曲は好きだよ。これからも俺が生きてる限りはずっとね。勿論、加藤の歌も」


「上手い知に言われても、全然慰められないんだけど」


「俺は好きなんだよ。女の人にしては低い声とか……低い声が」


「それだけなんじゃない」


 加藤から口角から笑みが零れる。


「あたしの曲、知が歌ってくれたらいいのになあ」


「ダメだろ、最後の曲は。集大成みたいな感じにしなきゃ」


「だからだよー。私の声じゃ売れないって十年かけて気づいたあたしの集大成にはふさわしいね」


「まあ、確かに、女の人が作った曲を男の人が歌うってスタイルあんまり聞かないな」


「ほら! ほら! いいじゃん、ね?」



 そうしてできた曲で、加藤はその夏、レコード会社と契約することになる。


 最後だからと、今までめんどくさがって避けてきたミュージックビデオまで撮影した。俺の声で歌う加藤の姿はなかなかにシュールだった。今までの加藤のファンからしたら誰この声、となったかもしれないが、初めてその曲を聞いた人はきっと、この画面で踊る女の人の声だと疑うことはなかっただろう。


 知のやったことと言えばレコーディングのみ。仕事が休みの日に一日で終わらせた。加藤は何テイクも取りなおさせようとしていた。「最後なんだよ! 忘れたの?! 妥協したくない!!」とインカムで吠える加藤に、「もう俺の声にしてる時点で十分妥協してんだろ」知がヘッドフォンを置くと、彼女も渋々納得した。一、二、テイクならともかく、十テイクもやってんだ。売れっ子アーティストじゃねーんだから。



 懐かしかった。ヘッドフォンのプラグをオーディオインターフェースから抜き、スピーカーのプラグをつなげて流した。ベランダに出て、煙草に火をつける。窓の隙間から漏れる音楽。自分の声はやっぱり好きじゃない。でも、何度も聞いてしまう。


 本来二人だけのものなのに、自然と必然か、周りを巻き込んでしまうのが幸せになっている。


 加藤に言われても、今でもその感性は変わらなかった。知は音楽が聴ければそれでよかった。それ以上は何も望まない。


 自己顕示欲も、承認欲求もない。初めてこの二つの言葉を知り、人にあるのは当然のことだ、と喋った心理学の教授の声は、数日の間、知の身体の中で絶えず聞こえ続けた。普通の人にあるものが自分にはないと知って知は不安になった。数日後、答えは出る。その日の心理学の講義の最後に知は手を挙げた。自己顕示欲も、承認欲求もない人はどんな人でしょうか、と。


 教授は、薄くえくぼを作り、陽気なおじさんのような柔らかい表情で「いい質問ですね」とマイク越しに言った。あのときは、固唾を呑んで彼の声に耳を澄ませ、待っていたせいで気づかなかったが、今思えば、きっと教授は見抜いていた。その、自己顕示欲も承認欲求もないのが知自身であると。


「そうですね……。〇〇さん、どう思いますか?」


 突然指名された女の子は、驚きながらもしっかりと返答した。


「えっと……内向的で、自信がない人でしょうか」


 教授は何度か相槌を打つ。


「確かに、自信がないと自己顕示欲がなくてもおかしくはないですね。でも全くないとなると、もっと違う人物像が浮かび上がります。ちょうどいいので、このことについてレポートをまとめてきてください。今週の課題です」



 結局、その次の週、教授がはっきりとした答えを言うことはなかった。もしかしたら一概にこうだとは言いきれなかったのかもしれないし、そもそも言えなかったのかもしれない。


 それが答えだった。


 講義後、知の元に近づいた教授は、「村山(むらやま)君は、趣味はありますか?」と言った。


「音楽を、聴くことですかね」


「音楽を聴くのは楽しいですか?」


「ええ、まあ。楽しいって言うか、癒されるみたいな」


「将来仕事に就くとしたら、どんな仕事がしたいですか?」


「そうですね……生きるためのお金が手に入れば職種はそこまで気にしないかもしれません」


「そうですか。また話しかけますね。一緒に煙草でも吸いながら」


 どうして俺が煙草を吸っているとわかったんだ、と困惑していれば、教授は知のポケットをポンポン、と二回叩いた。思わず自分のポケットを押さえ、ボックスの形を確認してしまう。



 その後、何度か教授と講義の後や、喫煙所で遭遇することがあり、話した。音楽や、小説、洋服についての話をした。教授の口癖は、「きっとこのCDいいと思うんですよー」と「きっとこの本面白いと思うんですよー」と「きっとこの服すごく似合うと思いますよー」だった。その度に、知は店員にそそのかされたみたいに勧められたものを買った。家賃、生活費、交通費、を除いた一、二万のお金で。貯金はなかった。バイトはこれ以上入(はい)れない。それでも知は買った。どうしても欲しかったし、読みたかったし、着たかったからだ。




 ベランダに置かれた灰皿の上で煙草の火を消し、もう一本火をつける。


 今思えば教授の行動は正しいように思える。そのせいで、部屋のクローゼットはパンパンだし、本もCDも狭い部屋に溢れている。


 心理学の講義を修了してからは喫煙所で偶に話すくらいだった。最後に話したのがいつか覚えていない。なのに、これだけ知の生活に影響を及ぼしているとは、恐るべし心理学者。


 いつかはやめなくてはいけない。この本とCDと服の買い癖。結局、加藤は音楽をやめることにならずに済んだわけだが、当時の決断には感服する。あの頃は理解できなかったが、今の知から音楽と物語と洋服を取り上げた後のことを想像するとよくわかる。


 知は火を消し、室内に戻った。


 あの頃に比べればだいぶ減った。部屋を見渡すと、加藤のいたころにはあった、雑然と部屋に晒された本とCDと洋服が減っている。


 薄暗い部屋に、窓からの月明かりが照らしている。日常的にカーテンを全開にすることはない。開けるにしても、ベランダに煙草を吸いに行くために人ひとり分開けるくらいだ。


 どういう訳か、数分前を思い返しても自覚はなかったが、カーテンが開け払われている。


 電気がいらない。青白い早朝のよう。常夜灯となった月明かり。カーテンを閉めていては気づかない部屋の明るみ。立ち尽くした知は、部屋の一点をぼんやりと見つめた。


 一緒にやろうよ、と加藤はあの日そこで言った。


 当時の知に一緒にやるつもりなど微塵もなかった。俺は、音楽を聴いているだけで満たされてしまうんだ。他人の視点がない人間に、創作や芸術をやらせても良質なものは生まれないだろう。そう、頭に浮かんだ理屈を口にしようか、迷った。顔を上げたとき、加藤の顔が物語っていた――私はそういうことが訊きたいんじゃない、と。


 もしかすると、知の思い上がりだったのかもしれない。自意識過剰で、実際にその理屈を彼女に伝えたら、オッケー、わかった、といつも通りの返事が返ってきたかもしれない。


 迷ったんだ。あの日。どうしてか、あのときだけ、喉の奥に何か丸い鉛のようなものが気道を塞ぐように。喋ろうと試みるたびに喉の奥が詰まった。自分の身体は正直で、ちゃんと理解しているんだと思った。お前はその言葉を発してはいけない。発してもいい言葉であれば、鉛が気道を塞ぐことはない。だから選べ。お前の本音は聞いていない。この場で最良の言葉を選択しろ、と。


 簡単だった。イエス、と答えればいいだけだった。言葉は何でもいい。一緒にやろうよ、お願いします、ただそうやって問いかけられたものに頷けばいいだけだった。たとえそれが嘘だってよかった。加藤に対して恋愛感情などなかったが、ついでに告白染みた言葉を伝えたってよかった。実際そうなっていくだろう未来だってあったかもしれない。


 でもしなかった。


 嘘がつきたかったわけじゃない。想像したのだ。時間にして一分もない。三十秒――いや、もっと短い。十秒……五秒くらいだったかもしれない。これから先の未来を想像した脳が見せた複数枚の描写。そのどれもに共通していたのは、彼女の哀愁を帯びた表情と、その表情を見てやるせなくなった知の心情だった。


 憂い、というものに耐性がないのだろう。何か明確に解決方法があればきっとそうする。百万を用意してその表情が消えるなら寝ずに働いただろう。一日十食で売り切れる美味しいと評判のスイーツを渡せというなら、徹夜で店の前に並んだだろう。何なら二日前から並んだっていい。でもそうじゃないだろう、人間ってやつは。いつも。いつも。どうすればいいか彼女自身に問うにしたって、場所とか、状況とか、タイミングとか、言葉尻とか、そういったものひとつ間違えるだけですべてが台無しになってもう、修復不可能になる。ここで言えばよかったものをあそこで言ってしまったが為にだ。どうして、なんで、って、こんなにもどうにかしたいと思っているのに、もがけばもがくほどずぶずぶと落ちていく。


 そういう状況を、加藤との未来に想像してしまったのだ。


 本来、一筋縄でいく人生の方がおかしいはずで、一筋縄ではいかない未来があったとして、そこを乗り越えるから美しくなるのであって、初めから二筋縄を避けようとするなど馬鹿げている。まずはそこに足を踏み入れよう。そう決心するまでにかかった時間は一分に満たない。決めた言葉を口にしようとゆっくり顔を上げたとき、加藤と目が合った。


「知のそんな顔見たくて聞いたはずじゃなかったんだけどな」


 十秒早く決断していれば変わっていただろうか。


「荷物まとめるね。明後日には引っ越すから」


 今も加藤の声が聞こえる。この青白い光の刺す部屋に、彼女は数年前確かに立っていた。


 確かにここに居た。本が散らかっていた。洋服も、CDも。でもやっぱりこの部屋は青白い。彼女がいなくなっても青白いってことは、この部屋はきっと彼女を異物とみなした。異物ではないのなら、彼女は青く染まらず自身の色をこの部屋に染めたはずだ。この部屋と加藤。この部屋を選んだのは知で、この部屋に住んでいるのも知。


「そうか、そうだよな。俺がきっと追い出したんだよな」


 知はデスクの椅子に座るとヘッドフォンで耳を塞ぐ。


 すぐそこに、記憶の中から引っ張り出した声が聞こえる。


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