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新居のアパートにコンクリート打ちっぱなしの物件を選んだのは、上下左右の部屋の住人に気を遣わなくてもいいと思ったから、というのは建前で、一番はベランダだった。デザイナーズ物件を探していると度々目にするのが、ビルや学校のように同じ間取りの部屋が横に連なってはいない建物だった。間取りが部屋ごとに違うので、ベランダも西を向いている部屋もあれば東を向いている部屋もある。何が言いたいかと言うと、煙草だ。
知の借りた部屋のベランダは、西を向いていた。一番西側の部屋で、四階建ての三階に位置するが、西側の四部屋の内、西側にベランダがある部屋は知の借りた部屋だけであった。
おまけにこの物件、コンクリートがむき出しであるため、壁紙を張り替える必要がない。最悪自分で清掃すれば何とかなる。唯一、懸念点があるとすれば、西側四階の部屋のことだ。もし苦情が来れば換気扇の下に吸うことになるだろうが、部屋の内部もコンクリートなのでさして変わりはない。それに比べれば、コンクリートの物件特有の温度調節や湿気、電波等の問題など懸念の範疇に入らない。
もしこの物件でなければ、壁紙のあるキッチンの換気扇の下で吸うことになっていただろう。そうすると、ワンルームとキッチンの間に扉が欲しくなる。ベランダに排気される構造だと苦情になりかねない。せっかく引っ越したのに居づらくのは勘弁だった。何より、そもそも、知が引っ越しを決断した理由が隣人であるのだから、本末転倒である。
向こうも知のことを厄介に思っていたかもしれないが、それはこちらも同じだった。アパートの外で会うたびに金をせがんでくる老婆は、「ないです」と言っても「そんなわけないでしょ」と引き下がらなかった。事実だったし、返答の仕方が悪かったかと思い、「あなたに渡せるお金はありません。俺も生活に余裕はないんです」と言えば、「じゃあ死ぬ」とか「見殺しにするんだ」「次に車が来たら飛び出す」などと言い始める。仕方がなく、札を一枚渡そうとしたこともあった。お金より食べ物のほうがいいかと思ってコンビニに一緒に行こうかと考えたこともあった。だが一度許してしまったら付け込まれかねない。住所が同じ町であるならともかく、同じアパートの隣の部屋だ。部屋番号までばれてしまっている。
つくづく馬鹿だったと思う。結局、知は言われれば金を渡すようになっていた。一度拒んだ日の夜に隣の部屋で奇声のようなものを発し続け、眠れないことがあった。翌日、老婆の反対側の隣の部屋の住人が知の部屋のインターホンを鳴らした。恰幅のいい青年は、大家にもひとこと言ったが、老婆本人にも苦情を言ったそうだ。そしたら、知の住む部屋番号を口にし、あいつが私の金を盗んだのに返さないだの目上の人に敬意がないだの、知のことを悪者扱いし、終いには、あいつはあたしの親戚なのにいじわるしかしない、とまで言ったそうだ。
話を聞くと、どうやら金をせがまれていたのは知だけではなかったようだった。このアパートの住人たちは、一度は彼女から声を掛けられているそうだ。勿論、恰幅のいい青年の部屋にも来たそうだ。言っていることがおかしいのもわかっている。「一応確認ですけど、親戚ではないですよね?」と聞かれ、首を縦に振った。その上で、青年は知にこう言い放った。
「あなたが金渡せば済むんじゃないですかね。聞いた話じゃ千円で満足するらしいじゃん。それぐらい余裕あるでしょ」
馬鹿な、なんで俺が、と思った。「いや、すみません、冗談です」と青年は侘びて去っていった。ドアが閉まった後、上手いなあ、と知は思う。冗談でも一度そういう言葉を出しておけば、真面目な人間なら罪悪感が生まれるはずだ。まるで知が悪いかのように。知が老婆に金を払わないから苦しんでいるかのように。彼にそんな意図はなかったかもしれないが、すでに知の中には罪悪感のようなものが生まれていた。俺が悪いわけでもない。青年が悪いわけでもない。老婆が悪い。事実だけを見ればそうだが、元をたどれば悪いとは言えない。
奇しくも、こういうところだけは真面目に育ってしまったことに落胆した。青年の言葉などなかったことにすればいい。実際彼だって冗談だと言った。だが聴こえてしまうのだ。青年の心の声が。聴いてしまう知も悪いが、「冗談っていうのは言葉の綾でしょう。明らかに困っている人が、大丈夫です、って言っているけど全然大丈夫じゃないのと同じですよ。それくらい察してよ」
なかなかに聞き覚えのある言葉に鼻で笑ってしまう。俺の脳が俺の過去の記憶を引っ張り出して弄んでやがる。
はあ、と溜息が出る。
怒りはもう疾うの昔に忘れた。怒りを抱いたところで体力と時間を削られるだけ。疲れるんだ。だから落胆した。仕方ない、と、あきらめに変わるには三本の煙草が必要。換気扇を回し、シンクのヘリに腰かけ煙草に火をつけた。
三本の煙草はあっという間にフィルターだけになった。吸っている時間が短いのは、知が態々短い煙草を吸っているからだろう。アメスピに変えようか。何度思ったかわからない。銘柄を変えればいいのに変えない理由はきっと、なんとなく自分の中でジンクスみたいなものがあったからなのかもしれない。




