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暖色のベッドランプが優しい。視界は勿論のこと、真っ白なガウンの下は何も着ていない私のことを温めてくれる様。人肌と布団の温かさよりも暖色の与える視界の温かさにプライオリティの天秤が傾いている。私の中に優先順位などあったのか。仁科はそっとベッドから出る。
ベッドとは別に置かれた一人掛けのソファーに座る。ソファーの前にある一本足の丸テーブルの上には黒い灰皿があった。吸殻が一つ。ベッドで寝ている男が吸ったものだ。
ソファーから立ち上がる。正面に大きな鏡の付いたデスクがある。置かれたバッグの中から黒いポーチを取り出す。ポーチの中で煙草を一本引き抜き、同じくポーチの中にあったライターで火を点ける。
かち、と鳴る。
白い煙が口元から燻る。蓋の開いた隙間から噴き出すように、漏れ出る。
ソファーに戻り、腰かけ、足を組んだ。頭の中は昼間のことだった。
初めて褒められた気がした。そのときのことを何度か思い出した。実際は、たぶん誉め言葉だったとは言えない。「人には役割がある」「仁科にはできても自分たちにはそれが果たせない」そんな感じの言葉だったはずだ。
私にしかできないこと。
私のおかげで助かっている人。
仁科の頭の中で変換された言葉は、無造作に煙草を口元へ近づける。自分の意志とは別に、何度も頭の中で反芻される。
そんなこと考えたこともなかった。頭はいい方ではない。仕事もそこそこ。何をしているかはどうあれ、自分のおかげで誰かは救われている。
何も考えていなかった。
ただ身を任せ、
愛想を振りまき、
嫌われないように、
好かれるように
優しいふりをして、
言われるがまま、
誘われるがまま、
仰せのままに。
左様でございます、と。
その、何も考えていない行為の裏側で、どこかでは助かっている人がいる。そう思った瞬間、自分の行為が意味を持つ。
誰かのために。
これは奇妙な感覚だった。
人なんか皆自分で精一杯だ。誰かにお節介を焼ける程、現代の社会は甘くも余裕もない。人に優しくしたらこっそり通帳の桁を一つ増やして欲しいくらいだ。一回優しくするごとに百円落ちてくる仕組みがあったら世の中優しさや豊かな銭と生活で溢れるんでない?
他人に気を遣っていられるほど余裕はない、と思うのに、どうしてか、仁科は悪くないと思ってしまっている。勤務後、無償で好きでもない上司と一緒に薄暗い部屋に入ることが悪くないと思ってしまっている。
安売りしてはいけないことぐらいわかっている。
でもそう簡単な話でもないじゃんか。
頭のいい人は、きっと考えるのだろう。自分にとってこれが大事、これはいらない、この人といると時間の無駄、なるべく理想に近づけるように頭で考えて実行する。
でも、何がいいとか何が悪いとかわからないじゃん。
自分にとってこれは得なことなのか、実は他人から見れば損をしていると思われているだとか。そういう視点に頭が悪い奴はまず辿り着かない。何かもやもやっとしたものがあるのがわかっても、それがどうしてもやもやしているのかわからない。
知識がないのだろう。教養もない。
答えに辿り着かないから、考えるのをやめた。プスプス、●●●●●●●●●●●●、●●●●●●●●●●、あれもだこれもだとタスクが一度に増えて、まあもういっか、と思うみたいに。
結局こういうのはどちらかが許すしかない。言い方を変えれば諦めるとか我慢するとか。そうしないといがみ合い続ける。どちらも互いの意見に納得せず、己を貫くのなら、平行線みたく、交わることも、近づくこともなく、永遠と続いていく。人の話を聞かない人に何を言っても無駄だ。時間が惜しいし疲れるのは自分。他人の声に耳を傾けず、自分が法律状態の人が羨ましかった。自由に生きたい。でも、そうなろうにもどうするのが自由なのかわからなかった。他人の意見に背いてでも貫くのが自由? 誰かを傷付けてまで突っ走るのが自由? それって信念なんて大層なもの? 前しか見えていなかったら大事なものを見落としてしまうような気がした。だから何も考えなくなった。目の前に落ちたものを拾うように、背後に落ちた枯葉に気づけるように、左右で同時に舞い上がった二羽の雀を見過ごさぬために、ただ成り行きに身を任せた。
何かを少しずつ削っている音がしていた。擦れて粉になったものはふっ、と吹けば飛んでいってしまって行方不明。神隠し――天井に煙が燻る。この煙も数秒後には消えてしまう。火種に舞い戻ってきたりしない。「仁科が嫌だって言えば受け入れるよ」この言葉が消えない――。
私が嫌だと言えば、上司は受け入れてくれるだろうか。
仮に受け入れられたとして、次は誰がその役割を果たすのだろうか。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●――暖色に似合わないBGMがそう歌っている。私もまた誰かの元を転々とするのだろうか。芸能人の髪には高値がついても、私に値はつかない。言うことを聞いて、相手の思うままの態度でいられれば、相手は誰でもいいのだ。
「役割、かあ」
今朝、杏の視線が気になった。あれは明らかに知のことを見ていた視線だ。自分の意志とかそういうものが無くなると、他人の意志や方向、感情などが浮いて見えるようになってくる。根拠のない自信が沸いてくる。
杏のあの視線は「好き」というよりは「なぜ」と困惑しているようなニュアンスを含んでいるように思えた。
何だったんだろう。ほんとのきもち。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●。
大事なのは雀か? 枯葉か?
削れてなくなったものはもうどこにもない。
ここに在るのは?
目の前に何か落ちている。
それを私は拾う……だけ。
また流れに身を任せるか、それとも。
――賭けるか。
こんな私にだって役割はあるかもしれない。水を掛けられれば四季折々咲いてしまう都合のよい花ではなく、もっと別の、ありきたりで、普通で、上も下もない真ん中の、手段ではなく目的が――誰か一人にとっての役割が。作用が。
知が私と上司の関係を知ったら何というだろうか。今すぐやめろというだろうか。絶対言わない。仮に言ったとしても、個人的にはやめて欲しいけど、と付け加えるはずだ。役割がなんたらと理屈っぽく話し、最後に決めるのはお前だ、自分で決めろと。自分で決めたならそれが正しいと。モテない男だ。
モテていないところ悪いが、今、理屈っぽいのを求めている。
そんな私は運で対抗する。
さて、どうやって賭けよう――仁科は煙草を灰皿に擦り付ける。そうだ。煙草――灰を落とさずにフィルターまでたどり着いたら……どうする。駅前の居酒屋に誘おう。
仁科はソファーを立った。煙草を立て、水面に唇だけ出すみたいに、下から吸う自分の姿を想像したら滑稽に思えた。まあいい、ここは会社ではない。上司はいるが、寝ている。鏡の前に行き、黒いポーチから煙草を引き抜き咥える。
一度咥えた煙草を、デスクに置いた。
鞄の中から淡いブルーのポーチを取り出す。
誰に見られるわけでもないのに――心の中でそう思う。
鏡に自分の顔が映っている。
薄暗い部屋の明暗。
唇に沿って、●●●●●●●。




