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何も、気を遣うことなく生きられることだけが幸せではないだろう。あっちに行こうがこっちに行こうが、どこに行ったって問題はある。形式的なものだろうと、気を遣い合う二人だろうと、片方は気を遣って片方は自由気ままな二人だろうと、そこに幸せが存在する余地は確かにある。
何をどこまで許せるかという器量。
その器が溢れるまでは幸せなのかもしれない。欲深さは計り知れない。
走馬灯を一つずつ紐解くように、今しがた見た夢の概要を端々から見つけるように、知は今小説を書いている。
最後に知が縋ったのは、音楽でも恋人でも、すべてなかったことにできる最強の、死、でもなかった。文学なんて大層な言葉では括れない。もっとありふれていて、そこら中に転がっていて、誰にでも通づるもの。
言葉だ。
いつの間にか縫われている唇。
ぎざぎざの隙間から漏れ出る、集る息。
まるで縫口の紐を解くように。
まるで月賦が込み上げるように。
産声のように、
開口された言葉。
さて、明日が来てしまう。これからどうやって生きようか。
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●●●●●●●●●●●●●●●●、●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。
お前が歌うんかいオブザイヤーの彼女の生声を聞くまでは死ねないし、世界くんの声をもっと聴きたいからブルーピリオドの新刊が出るまでは生きることにする。●●●●●●●●●●●●いいなら、後ろを向いたまま胸を張っていいなら、きっと救われる。憧れた普通にはなれない。尖ってもいない。常に迷い、貫けない。それでも二人はきっと後ろ向きな俺のことを「そんなの普通だよ?」「普通だろ」って、何を馬鹿なことを言っているんだって、当たり前のように言ってくれるんだろう。
他人も自分も、真偽も概念も、自分の思想も好みも、景色も脳裏の映像も、現実も空想も生死すら何一つ信じられなかった。
そんな俺が最後に信じようと思ったのが言葉だなんて皮肉に思える。
言葉を紡いだ紙の束が、泣く泣く捨てた、それでも未練たらたら、そんなあなたに巡り巡って、届いて、鳥肌を立たせて、あわよくば涙を誘ってくれたりしないかな、なんて馬鹿げたことを机上で、空論に夢見ちゃっている。
そんな気持ち悪い自分のことは、やっぱり信じられないんだよな。
でも、自分は気持ち悪くても、他人は違うだろう。
慣れないバーでその日「仕事を辞めた」と話しかけてくれたスーツの似合うあなた。「変わりは誰でもよかったのよ」「五年よ! 五年!」「代えが利くだなんて夢にも思わないでせっせと奉仕していたなんて馬鹿らしい」「別に何かして欲しかったわけじゃないわよ。でも、嘘でも少しぐらい引き留めなさいよ」「ああ、なんだったんだろう、私のしてきたことって」と嘆いた真面目なあんたへ。
きっと引き寄せられるだろう。生き別れの双子が知らず知らずのうちに惹かれ合うように、●●●●●●●●●●●●ように、顔や、趣味思考、類似したものに敏感に反応し、「ああこれは」「ああこの人は」と嵌まるように。きっと俺の言葉を見つけるときが来るだろう。
引用では事足りない残滓をここへ置いてゆく。
棘のなくなったサボテン。針のないハリネズミ。あれだけ反応していたアレルゲンを失くしたニ十五歳。丸くなったんだな、とふと省みたとき、許さねーよ、とどこからか蜜蜂が飛んできて、大事な針で貫き、残して逝く。蜂から針をとったら蜂なのだろうか。それをゆっくりと吟味する暇を与えずに死んだ蜜蜂。
貫くとはこういうこと。
動悸、喘鳴、腫れ、めまい、嘔吐。意識障害の中、混濁した意識と視界の中、沸々と次第に蘇ってくる数々の感情と――手中の感覚。
アドレナリンはいらない。
針をくれ。もう一度毒針を。
何度でも息を吹き返させる。あなたたちのその見返りを求めない優しさが、意志が、不安も後悔も忘却する。




