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CDショップの黄色いビニール袋をぶら下げ向かった先。小学生の頃、帰宅したら仲の良かった子の家に行って一緒にゲームをした。他人の家に上がる行為は少々気が引けた。その友達もその子の親も、歓迎といった感じだったが、慣れ親しんだ自分の家の床を歩くのとは違った。靴を脱ぐ――その行為がまるでこれから他人の懐に入る準備のような気がしてならなかったのだ。そこは自分の家ではなく他人の家。今まで見えていなかったものが見えてしまう懐。
今ではそんな後ろめたさ、忘れてしまったみたいだ。
インターホンを押すと、直後、「あいてるよ」とLINEが届く。杏はドアノブを引いた。靴を脱ぎ、框に上がる。靴を揃え、廊下を歩く。コンクリートむき出しの、所謂デザイナーズ物件というやつだろう。
廊下を進んだ。先のドアが半開きになっている。開くと手前にソファとテーブル、右の奥に、横を向いたモニターと置かれたデスクが見える。そこにヘッドフォンをした知が座っていた。
「誰の?」知が言う。知の視線を辿る。杏の手元にあった。黄色い袋の中身のことだろう。
「加藤って人のCD買っちゃった」
「へえ。舐めたネーミングだ」
「知ってる?」
「クローゼットに下着が入ってるな。雑巾みたいになってるけど」
「は?」思わず声に出る。クローゼットに下着が入っているのは普通だが、今の話の流れだと加藤の下着が入っていることになる。
「うそでしょ?」
「マジ」知はヘッドフォンを外してデスクに置いた。「いるならやるよ。昨日返そうと思ったら返すの忘れて、今日捨てようと思ったらゴミ収集車に置いて行かれて、いわくつきかもしれないから怖いんだよね。そしたらさっき捨てないでね! ってLINE来たんだけどどう思う? 怖すぎるからあげる」
それは確かに怖いが、私がもらってはいけないような気がする。
「さっきまで入院してたんだけど」杏は話を変えた。私も怖いので。「入院って、まあ暇で暇で。それで動画サイトで音楽聞いてたんだけどそしたらこの加藤って人の曲がお勧めに出てきた」
「それでCD買うくらい好きになっちゃったと」
「うん」
「どの曲が良かった?」
「あーー、曲名忘れちゃったんだけど、一曲だけ男の人が歌ってるのがあってそれが良かった。ミュージックビデオもなんだか見入っちゃって。古いのと新しいの二種類あるんだけど何度もループよ。特にアイドルが踊ってる方」杏がそう言うと、「へえ」と知は言ったが、どうも、したり顔のような何かを隠しきれていない表情である。
「え、嘘だよね?」
「ほんと」
「まだ何も言ってないんだけど」声が良くて歌っているのは誰だろうと思って調べたのだ。他の曲は女性の声だったので加藤自身が歌っているのだろうと思ったが、この曲に関してボーカル〇〇といった欄や記載がなく、いくら調べても名前がなかったので不思議に思っていたのだ。
なんでこの曲だけ、と杏は思った。映像はアイドル。曲は加藤。声は謎の男。
もうすでにほとんど杏は確信を得ていた。一昨日、「やりなおそう」と言った後、少し会話をした程度だが腑に落ちる。加藤の曲は、彼女の近くにいた誰かについてのことが書かれているように杏は感じていた。それに杏は自分を重ねたがために、今こうして態々CDまで購入したという訳である。
本当に重なっていたとは。
加藤の隣にいたのが知だとすると――思ってもみない展開に心躍る自分がいる。これは上手くいったのでは――。
「いや、まさか、加藤の曲で歌っているのが知くんだなんて、それもまさか同じ職場にいるなんて夢にも思わなかったよ。それで。昨日ここに加藤が来たんでしょ?」
「大倉はどうだった?」
「あ、え? 私? ……嫁いた。そっちは?」
「相棒がいた」
「は。相棒って何よ」
「さあ、恋人に代わるもんだよ」
「え、ダメじゃん」
「これでやりなおすのは今からでも遅くないってのが嘘だって証明されたな」
「やりなおそうって言っておいてなんだけど、どうする? これから」
「取り敢えず煙草は吸うな。ベランダじゃなくて部屋の中でワンカートン」
「死ぬの?」
「どうだろうね」
「こういうときは残り物同士付き合おうってなるもんじゃない?」
「それはもう死を意味してるよ」
「あんた、自分が大分失礼なこと言ってるのわかってる?」
「前向きに生きるか後ろ向きに生きるか」
「話を逸らすな」
「どっち?」
「私は前向きに生きる」
「ばかいえ、死んでやり直せ」
「棺から甦れって言うの?」
「ああそうだ」冗談だったのに。「葬式で生き返らせろ。葬式ではやさぐれカイドー流してくれ。坊さん歌上手いから、ツーン、で木魚叩きながらお経調で黙黙と歌ってもらってくれ。Cメロでもう一人の坊主が乱入してきてラスサビでハモってもらえ。したら坊さんの望み通り何度でも蘇れる」
知が顔に似合わず笑っている。
結果、彼はそっちを選んだ。やっぱり寂しい。あなたが死んで悲しいですとひたすらに歌った普遍的な歌があったじゃないか。
彼は後ろ向きに生きるらしい。じゃあ私は前向きに生きる。
後ろ向きな人と一緒にいるとそういう感情になっちゃうんだよね。でも別に、否定するわけじゃない。後ろ向きなことに自信を持っている人が一人はいてもいいと思うし、対象が何であろうと、自信を持っている人は皆一様に強い。
「あーだめだめ、ほら、私DVしちゃうから」そんな自虐ネタは出さずに終わった。嫌な女だ。残り物同士とか言っておきながら、恋人になろうと提案されたらされたで否定するつもりでいたなんて。でも、もし……DVしちゃうからってネタっぽく言ったとしたら、知はなんて返事しただろう――。
自分のことなのに、まったく、何を望んでいるのかわからない。
きっと、返事を聞きたいだけなのだ――妄想が過る。杏が自殺したという根も葉もない噂が流れたとき、知は何を思っただろう――杏のちゃちな脳みそが妄想を広げる。何を期待しているのかわからない。けど、杏の脳は、彼が杏の死を知ってひどく落ち込んで、自殺していて欲しいと望んだ。
要は確認だ。実際に死んで欲しいとは思わない。「困っている人が大丈夫って言っていても実際大丈夫じゃないんだよ、それぐらい察してよ」何の仕事のときか忘れたが、いつか知に伝えた言葉だ。あの日から、彼が言葉の綾に騙されず空気を読んでいる場面を度々見かけるようになった。言葉をそのままの意味で理解するのではなく、その言葉の先、前後を想像して、遠回しにこう言われているのだな、と解釈しようとしているみたいだった。勿論、端的に指示されているわけではないので、いくつかの選択肢が浮かぶものだ。外れくじを引いていることもあったようだが構わない。相手のことを理解しようとする行為に感銘を受けた。へえ、できるじゃんと感心した覚えがある。
こと、仕事に関して言えば、雑用等はともかく、遠回しではなく簡潔に指示するべきだ。確認も怠らない。だが、言われる前に理想通りに動いてくれるのならそれに越したことはない。
もうあんたなんか知らない、と部屋から出て行った恋人の心情は、追いかけてくるか来ないかを試している。
量っているのだ。器量を。「すき」と言葉で聞きたいのと同じ。試しているのだ。わからないから。不安だから。自分への好意がどれほどまでに寄せられているのか。好きならいくら私が遠くに逃げようと、必死こいてでも追いかけて来てくれるでしょ? と。
杏が自殺したとして、知が絶望するくらいでは足りない。交通事故じゃない。自殺なのだ。その先、前後を想像して欲しいのだ。杏と同じくらいの気持ちを抱いて欲しい。二つの感情が共存して欲しいのだ。そして同じ一途をたどる。
でも実は、杏は死んでいなかった。胃潰瘍だった。
知がそれを知らずに死んだとしたら。私はどうしただろう。実際は偶発的な噂だったものの、仮に杏が試すつもりで意図的に自殺した噂を流して、彼が杏の感情を推し量って的外れな感情を抱いて死んでいったとしたら。
そしたら、私も耐えられなくなって死ぬんだろうな。
結局一緒か。どっちが先に死んだかというだけで。どっちが先に推し量ったかというだけで。
何がしたいんだろうな。そうやって帰宅途中、改札を抜けて。駅構内の規則的な音と雑踏に自身の存在を消されながら歩いて。ぼんやりした頭でやっぱりぼーっとして。背中にぬくもりを感じた気がして、耳が冴えて、自分の後ろに誰かが密着していると知る。ゆっくりと首を回すと、死んだと思っていた人間が後ろにいた。狼狽えて、そのまま頭も体も動けずにいる杏に横顔を見せ、その場を去っていく後姿――妄想。
全く、何を夢見ているのかわからない。
そんなもの、わからなくていい。
あんたの声が救い。それがあればいい。あなたの声を半永久的に聴けることが前向きに生きるための根幹。
恵まれているんだよ。人を愛せるってことは、好きになるってことは。私の大好きな小説と曲が問うている。
痛いの痛いの、ぜんぶ飛んでこい。




