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玄関のドアが閉まる音を待たずに、エントランスまで出た。灰色のコンクリートの壁に背を付き、壁を伝うようにその場に座り込んだ。
背中でドアの閉まる音が聞こえる。
通行人が一人稀有なまなざしで見て行った。
加藤は顔を両手で覆った。
どうして今なのよ……。
やっと一人でやろうと決めたばかりだった。
気持ちの問題だった。ふざけんな、なんで今頃、って怒りと、今からでも遅くない、一緒にやれば面白いものができそうという期待の二つがないまぜになっている。
頷けばいい曲ができるだろう。八割方加藤は思っていた。そもそもその見込みがなければ、たかが恋愛感情ごときで数年も待ちはしない。でも、いろんなものを捨てて悩んで悩んで、それを突然「一緒にやろう」なんて到底許せなかった。いい曲ができそうだと思っている自分にも腹が立つ。そんな簡単に――こっちの気も知らずに。
……もしかしたら知っていたのではないか。こっちの気を。
簡単に言ったのではなかったのかも。
悩んで悩んで言ったのかも。
感情任せに喋ってしまったときの記憶を手繰るが、上手く思い出せない。彼が何と言っていたのか思い出せない。顔も。表情も。
謝らなきゃ――加藤は涙を拭い立ち上がる。
エントランスをくぐり、玄関のドアに手を掛けたところで止まった。
なぜ今思い出したのかは、きっと前にも泣きべそかきながら知の家のドアを引いたことがあったからだ。
恋愛に躍起になっていた頃のことだ。相手の顔も、泣いて知の部屋に来た理由も覚えていない。知は泣いている加藤を認めても何も言わなかった。知のデスクの横にあるソファーで膝を抱え、鼻を啜る音が部屋にこだましていた。
「ふられたか」
「……わかってるなら聞かないでよ」
「どうして振られたんだろうな」
「いやいや、深掘るの? 普通しないからこんな状況で」
そうなのか、と知が言ったところで涙も枯れてしまい、急にどうでもよくなってしまった。自分の部屋に戻ろうと立ち上がろうとしたときに、「わかってると思うけど」と知が言った。
加藤は振り向いた。持ち上がった腰をそのままに、ソファーから見た光景。
「そういう感情を芸術に昇華しろよ。デート相手もディナー代なくても成り立つんだから金欠にはもってこいだ。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●」そう言ってヘッドフォンを首に下ろし、椅子に座った知がこっちを見、モニターを指差す姿。
私にとってこの言葉で思い出すのは実際に言葉を残したシオランでも、自身のMVに引用した雨曝しでもなく、知。私にとってこの言葉は、シオランではなく知の言葉だった。
ゆっくりと取っ手から手が離れていった。
デート代も、ディナー代も払わず、無料で貰ってしまったこの感情を忘れてしまう前に。口から出まかせだったが、実際に加藤自身も口にしたはずだ。今手にしている感情をすべてぶちこんだ曲を作ると。
気づけば走り出している。
煙草を買って帰ろう。
私の大嫌いな煙草。煙草は嫌いだった。嫌いなのに咽ながら吸う煙草。いつぶりだろう。吸った後で、やっぱり煙草は嫌いだと思うんだろう。
馬鹿だ。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、と昔聴いたから。
ロンリーココア。今日も一人で飲むココア、ならぬ飲み込む一本のショートホープ。吸い込むたった一度の二本の記憶。
そんなこと覚えてないんだろう、あなたは。
私だけのもの。
「●●●●●●●●●●●●」呟いた知の顔と薄い煙。「見てくれている人がいると信じて。きっとその人は、俺と同じだ。」
ショートホープ吸いながら聴くロングホープフィリア。アンバランスな私の遠吠え。
今回は笑える。苦いその味に。




