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前後普遍  作者: 面映唯
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7

 何年ぶりだろうこの感覚。何年か前に経験したかのような思わせぶりな感覚に思えるが、そんな経験したことなどない。誰かの昔話を聞いて、誰かの何かの小説や音楽を、目にして耳にして、懐かしくもないのに郷愁を覚えるような。


 此処は俺の故郷ではない。でも鳥肌が立つ。


 この歌は俺に向けられたものじゃない。でも共感する。感動する。


 似た光景を錯覚して映し出す既視感のような、白昼夢のような、そういった普遍的な感情だ。知が今手にしているのは。


 LINEの友達欄から加藤を探し出し、トーク画面に移ると過去のメッセージは消えていた。機種変更したからだろう。確か三年前。それから一度もやり取りしていないということだ。


 あの頃は、あれだけ適当に返信していたはずなのに、今は文字を打ち込んでは消している。繰り返している。送信ボタンが押せない。本当にこの文章でいいのか。返信は返ってくるだろうか。今更になって何連絡してきてんのよ、だったらあのとき一緒に音楽やりたいって言えばよかったじゃない。


 加藤が正しい。知の想像した加藤の返信に、ぐうの音も出ない。


 思えば、慣れていることだった。怒られるとわかっていて上司の元に書類を持っていくのだって同じことじゃないか。上司には毎度のことで怒られるとわかっているが、加藤の場合まだ、少なくとも、上司よりは怒られない確率の方が高い。


 駄目で当然なんだ。そういう保険を掛ける。万が一、保険とはそういうものだ。その万が一に賭けるのだ。都会のビルの麓で走る車を縫うように進んで行く一人の青年。彼は轢かれずに、目的地にたどり着けるのだろうか。


 死んで元々だ。


 そうやって伏線を張って送信ボタンを押した。




「久しぶり、元気だった?」返信が届くのに時間はかからなかった。


 何度かやり取りを繰り返す。


 返信が届くたびに一喜一憂している自分。


 きもちわりいな俺、そう思っている一方で、「軽すぎるよりもいいんじゃない?」と大倉杏に言われたことを思い出しては一憂する。「一途だったんだよ。考えすぎるのは、先読みしようとするのは。相手の立場に立って物事を考えて、その相手本人以上に自分がそいつになっていて、すれ違って、空回ってしまうのは、あんたが真面目だからだ。自分と同じ熱量で恋愛してくれない。だから、私は離れた。自分が狂っていくのがわかったから。愛して、怒って、自虐に変わり、その頃には相手は消えている。重い。どこが? 人を好きになるのに重いとか軽いって何? その方が失礼じゃない? あんたの人生の上で暴れ回りますよ、って宣誓が俗に言う告白じゃないのかしら」


 話して間もないのに、まるで知のことを分かったかのような言い草が若干癪に障るが、実際そうなのだから反論できない。知が気持ち悪いと思うことを杏は肯定した。世の中は広いらしい。出逢う前からそう言われていた気さえしてくる。


 杏は肯定してくれるかもしれないが、知は違った。知は知自身を肯定できない。杏は狂っている自分のことを肯定しているが、知は、自分が狂っていることを肯定できない。なぜか。見栄とか世間体とか、そんなところだろう。それ以外にも、仕事中でもそいつのことで頭がいっぱいになって、ありとあらゆることが手についてこなくなりそうだから、そんな理由も。


 人生ってのは愛だけじゃねえんだ。金とか仕事とか身だしなみとか礼儀とか、必要なもんがいっぱいあるんだ。一度に二つのことができねえんだ。一度の人生で二人は愛せない。一人を愛したら、仕事を捨てなければならない。仕事は生きるために必要。愛はあってもなくてもいい。だから逆に、仕事を捨てたくなったらあんたのとこへ行く。そういう普通の人から見たら訳の分からない、考えすぎの屁理屈ごねごねを一蹴できるのが、


 死、


 と、


 純白。


 類義語にしてやる。何なら対義語だ。同じであって対。


 知はなるべく純粋なふりをしてこう返信した。


「加藤の下着が出てきたんだけどこれどうする? 取りに来なよ。取りに来ないとメルカリに出品しちゃいそう」純粋でもなければただの脅迫である。


 こんな嘘丸出しの返信にも、「おっけー。取り行くよ」と相変わらずだった。こんなことなら普通に会って話がしたい、と言えばよかっただろうか。どうだろう。他人の心情は覗けない。どんな返信をしたところで結果は変わらない気もするし、選んだ言葉、送るタイミングひとつで変わってしまう未来も描ける。


 どれが本当の自分で、どれが偽の自分で、どれがネタで、どれが本音で、これは記憶なのか、それとも妄想なのか、捏造した記憶なのか誰かから聞いた話なのか、いろんなものがごちゃ混ぜになっているみたいで判然としない。


 そう、それこそが俺なのだと知は思う。本音なんていつの頃からか無くなって、誰かのことを想い、誰かの感情を(おもんぱか)り、こういう場面ではこういう返事をするのが良くて、この人にはこういう態度で接すると上手く話が進む。そんなことばかり考えていたら本当の自分のことなんてはるか遠くの方に消えてしまった気がして、いつの間にか「俺は誰なの」と思うこともしばしば。クローゼットを開け、空で中の透けた衣装ケースの横に立てかけてある紙袋を手にする。その場に座り込み、中からアルバムを取り出した。


 このご時世、アルバムを手に取る人がどれくらいいるだろうか。液晶画面上で見る写真の集合体へと変わってしまった。


 時代というのは面白い。かつてあったものへ郷愁を抱くのは、人間の本能だろうか。幼い頃に触れて、何年も触っていなかったものに再び触れたときに思い起こされるのは、何年振りかに声を掛けられ、〇〇だ、と学生時代の同級生だとわかる瞬間に似ている。〇〇だ、と脳が判断した瞬間に、その人と関連したあらゆる記憶が呼び起こされる。一緒に聞いた曲、その曲を書いた人、二人で遊んだ日、見かけた花、景色、自分の名を呼ぶ声――この答え合わせと似たストン、とすべてがぴったり嵌まったような感覚は快楽に匹敵する。快楽とはまた別の何とも言えない余韻が、ページを捲る手を止めさせない。ページを捲る手を煽る、促す。


 比較してしまうようだ。今と昔。昔あって今はないもの。


 誰かと誰かを比較したくはなかった。その理由は、自分が比較されてきたからだと気づいた。いや、違うな。誰も比較なんかしなかったし、強いてくることもなかった。


 俺だ。俺が俺自身に()いたのだ。比較することを。


 あの人のようにならなくちゃ。あの人みたいな風にしなくちゃ。それに比べて俺は――劣等感を抱くことで安心することもあった。そもそも一人の人間にできることや、一人の人間が生涯に経験できることなどたかだか知れている。あの人はスポーツが得意、あの人は勉強が得意、勿論スポーツも勉強も得意な人はいるが、完全無欠の全知全能になれるのは空想と神だけだ。


 あれもこれも手に入れることは、初めから不可能だった。


 そんなことも知らずに、ああなれないこうなれない自分のことを卑下していたわけだ。好かれている複数のことなどさておき、嫌われている人の方へ躍起になっていたのだ。マゾである。


 どれを選択するかが重要だった。


 何かを捨てること。


 捨てることにもったいなさを感じてしまったとき、己は汎用性を帯びる。良くも悪くも後ろにも前にも突出できない。八方美人になろうと、好かれようとはせずに嫌われないことに重きを置いたのもそれ。


 知が選んだのは普通だ。


 世間一般に言う普通ではない。無邪気に駆け回る幼少期を送り、友人ができ、話し、学び、遊び、恋が芽生え、誰かと付き合い、愛し合い、職が安定し、結婚し、新たな家族と環境を築く。そういう普通ではない。


 上も下もなくていい。だから真ん中に居させてくれ。あらゆる対義語の真ん中、そんなところだ。


 アルバムを見て変化を目の当たりにする。産まれたときの写真を見た。身体はこんなに成長した。今は離れて暮らしている家。毎日話していた両親、兄姉。昔はよく行った公園。今は行かない公園。また行ってみたくなった街の駅。数年前に廃業したと聞いた遊園地。


 服装。


 髪型。


 増えた皴。


 なくなった面影。


 今連絡すれば会える人。


 もう会えない人。


 この感情は、煙草ワンカートンに値する。


 アルバムの入っていた紙袋の中には、手紙が入っている。アルバム自体、母親が姉が結婚したことを機に、断捨離をして知に送ってくれたものだった。母親はその手紙をプチ遺書と称していた。なんて書いてあったかなんとなくは覚えているが、開く気にはなれなかった。実際にそれが遺書となってしまった今、読もうとすれば煙草をワンカートン吸わなければならなくなる。


 まあそれはそれでいいのかもしれないけど、滴った涙で汚したくなかった。


 玄関の方で音がする。鍵は開けっ放しだった。


「早いな、もう来たのか。こんな夜更けに」


「思ったら即行動。明日には忘れている感情かもしれないからね。知がくれた言葉だけど」


「当時読んでた小説に別れる女に花の名の一つは教えておけ、花は毎年咲くからって書いてあったんだよ」


「実践したわけだ」


「ああ。花の名前は性に合わないから……誰かの小説とか音楽で思い出されるのも嫌だから言葉にした。言葉だと花より忘れそうだし。なんなら忘れてくれればいいと思って」


「なんかわかる気がする」あの頃と変わらぬ服装で、右手に鞄を持ったまま加藤は言った。「覚えててほしいとも思うけど、これから先、その人の隣には別の誰かがいる訳だから忘れて欲しいとも思う。付き合いたいけど、別の誰かの方が幸せになる可能性が高い。そう思うと自信がない。相手の立場に立った考え方だけど、モテないね。捨てきれてない。他の女も未来も可能性も全部捨てる勢いじゃないと。まあ別に、私たち付き合ってたわけじゃないし、三十路になっても変わらず私の隣には誰もいない訳なんだけど……え、泣いてんの?」


 そこで加藤は気づいたようだった。顔を覗かせている。部屋に電気はついていないが、どうしてわかったのだ。知は冷静を装おうとする。嫌なのに笑顔で上司に返事をする仁科のように。上司に怒られるとわかっていて怒られに行くように。震える膝を無理矢理動かすように。止まれ止まれ、と祈るほど震えは増していく。


 涙が止まない。この涙はアルバムの郷愁からか、それとも加藤との意思疎通からか。


「知が泣いてるの初めて見たかも」


 知はまだクローゼットの前で(ひざまず)いている。顔はまだ上げられない。


「もっとそういうの見せてくれればよかったのに。相手に気を遣ってとか、見栄とかそんな感じだろうけど、案外ダサい姿見せられると自分のこと信用してくれてんのかなって思うもんだよ」


「ださいんじゃねーか」知は顔を上げた。薄暗い部屋で立っている加藤が見える。あの頃とさして変わりない、薄化粧でダル着の加藤がこっちを見ている。


「ええ。でも余裕ある男だけが格好いい訳じゃないじゃん。ダサい男のことを心から愛してる人だっているよ。あんたが嫌いなものを好きな人もいるんだって。そんな私のことは嫌いなの? ってどっかのアーティストが」


「……ヤンキー未だに捨てられないや」


「メランコリーキッチンまだ私の着信音よ」


「好きなものは手元に残るものかな」


「そうかもね」


「じゃあ、加藤のことは大事じゃなかったのか」


「そういうことになるね。心外だけど」


「じゃあ一緒に……」そう知が言いかけたとき、


「もう遅いよ」


 知はまだ何も言っていなかった。


「知は知らないかもしれないけど、私、結構待ったんだ。もしかしたらって思ったら妄想が止まらなくなっちゃって、いろんな曲を想像したしいろんな歌を想像した。でもね、待つのって疲れるのよ。時間は待ってくれない。先方に無理言って依頼を断ったのが何件かある。何度もう一度誘おうと思ったかわからない。でもね、私は何でかわからないけど自分から一緒にやりたいって言って欲しかったの。でももう遅い。こないだ知と一緒にやることを考えて残しておいた余白をぜんぶ埋めた。心機一転よ。何なら心機一転の一発目はこの私が数年間、知のことで悶々としてた妄想と焦燥となんで上手くいかない、ふざけんなってのをぶちこんだ曲だわ。そうやって新しく前に踏み出そうとした決断を、今更何? 冗談じゃないわよ。こっちの気も知らないで、のうのうと連絡してきたかと思ったら泣いてやがる。ふざけないでよ……こっちが泣きたいんだから!」


 廊下をどたどたと走る音が聞こえる。


 ドアが開いて、閉まった。


 静まった部屋で知は肩を落とす。


 まあこんなもんだよな、とアルバムを紙袋に戻す。そもそも万が一の話だったはずだ。九九九九の内の一つを引いただけだ。普通である。これが普通。涙は枯れた。余韻に浸る。アルバムの紙袋の隣には小さい紙袋がある。アルバムを見ると感情が溢れ出るからあまり見たくなかった。見るたびに顔が思い出されるからと、見たくないアルバムの紙袋の隣に置いていたのだと思い出した。中を覗こうとは思わなかった。多分この先も。死ぬその日も。


 何かの間違いで変な性癖がある奴だと勘違いされないかだけが懸念される。


 捨てるか。


 世の中は回りくどいことばかりだ。


 面と向かって伝えればいいだけなのに。


 そう言えば、俺の着信音は独白だったな。


 紙袋に入ったまま、雑巾のように絞った。


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