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前後普遍  作者: 面映唯
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 何か問題が起こるならば、初めからそんなものなければいい。問題が会社で起こるのなら、会社を辞めればいい。問題が誰かと一緒にいるときに起こるのなら、その人から離れればいい。この逃れたい感情がどこに居ても続くのであれば、死ねばいい。それが合理的で、早ければ早いほどエコなはずだ。


 世の中は広い。自分が感じたものと同じものを抱いている人間がいる。SNSで呟く前に検索してみよう。リツイートで事足りるはずだ。尊敬する有名人の名前を書いておくといい。タイムラインに埋められた言葉や芸能人やアーティストたちのつぶやき。それがあんただ。いろんなものを吸収したあんたの姿だ。SNSのタイムラインを見れば、きっとそういう奴なんだと察してくれるだろう。


 蛇足はない。投稿を消すなら、身体を傷付けるのと同じ。削る――アカウントを削除するのはすべてを投げ捨てることと同義。


 高校の頃から聞いていたアーティストのMVの冒頭に出てくる思想家の名前が、反出生主義を唱えた人物だと知ったときは、ああ、だから聴いていたんだなと答え合わせをした感覚だった。好きで聴いていたアーティストが、数年後にうっすら反出生主義があるとツイートしたのを見かけたときも同じだ。自分の感情に気づいて言語化するずっと前から、自分はそういうものを引き寄せていたんだなと。感動すら覚えた。


 一かゼロかで考えがちなのは完璧主義に多いようだが、自分のことを完璧主義だとは到底思えない。かといってそう思えなくもない。いつからこうなってしまったのかわからないが、できて当たり前、できなかったら勿論惨め、そんな感じだった。


 大学の講義で、優性思想やら出生前診断やらの話を聞いた辺りから気づき始めたことだ。講師が、自分なりに意見を考えてみてくださいっていうものだから、考えた。出生前診断で言えば、賛成か反対か、その理由。賛成も反対もなかった。そんなこと懸念するくらいなら初めから産まなきゃいいだろう。そういう感想だった。


 そう思っていたら、実際にそういう議題が上がった。望まない妊娠をした場合、産むか否か。女性は賛成が多く、男性は反対の意見が多かった。


 どうだろうか。そもそも望まない妊娠をする可能性のある奴はこの部屋に何人いるのだろうか。させる可能性のある奴は何人いる。大学全体で何人いる。罪を犯す奴はいたって真面目な奴だ。軽薄そうな見た目のやつの方が思慮深い。どこかで聞いたことがあったがどこまでが真実だ。


 結局他人事だ。実際そういう局面にならないと判断はつかない。


 いろいろ考えることにつかれた結論がこれ。


 初めからなければいい。


 ビニール袋がなんだという前に、人間を残らず惨殺した方が早いんじゃないの? とある部隊が殺して回り、仲間同士「頼むよ」と殺し合い、最後の一人はどんな顔で自殺するのか。何が厳かで、何が幸せで、そういうものがちらちらと明滅していた。


 苦痛を強いられるのが人間らしい。



 先月、車内で藤原苑子と話したせいか、大学時代の感情を取り戻しつつあった。人間やはり逃れたいものからは離れるべきだ。人でも環境でも何でも。大学時代は結婚だとか、生まれるだとか、そういったことにアレルギーを起こしていたのに、今では何でもない。確かに薄っすらとは残っているが、そもそも今年三十を迎えるとなると、自分の意志とかそういうものを忘れてしまう。


 仕事をしていてよく思う。常に全体を把握しなければならない。先読みして、これはいつまでに、こっちはいつまでに、そうしたらこれはこの日までにはできるな、そういった計画が脳内に出来上がり、毎日進捗状況によって、カレンダー上の棒グラフが伸びていく。


 自分の意志とか思想とか、そういうものを発表する場所は、少なからず杏の会社にはなかった。自分の意志はどこか遠く上の方にあり、常に俯瞰して生活している感覚だった。だから、誰かがミスしようと苛立ったりはしない。感情は遥か上の方にある。常に時間内に収まる最善の仕事をする。そこからは何があっても逸脱しないのだ。誰かがミスしたら、ミスした状態からの最善を走る。駄目なら駄目でそのときだ。狼狽えたりしない。


 そういう仕事脳に慣れてしまったせいか、自分がどうとかこう思うとか、そういうのを忘れてしまっていた。薄っすらとは残っているのだが、別に何か強制するとか強いることはない。私はこうだけどあなたはこう。それでいいじゃない、と。


 大分つまらないが、利口ではある。


 そう思ったときに、似たようなことを話しているのが背中の後ろの方から聞こえた。


 ――世の中には役割ってもんがある――上司の機嫌を取っておけば――その役目が果たせないってこともみんなわかってる。だから俺も一度しか仁科に提案はしない――


 へえ、頭いいなあ、と杏は思った。わかっていてもはっきりと口にできる人は少ない。こういうのはよほど自分の内面と向き合ってないと――。


 どうして彼がそういう考えに至ったのか聞いてみたくなった。その言葉の裏には、どういう事情があって、どういう経験があったのだろうかと珍しく気になってしまった。気になったら最後、時が経つか、答えがわかるまでこのそわそわした焦燥は消えない。わかっている。一番合理的でエコなのはさっさと訊くこと。声の正体が誰なのか知ろうと椅子を引いて振り返る。「怒られにー」と紙をひらひらさせた背中が映った。その背中を眺めている背中が目に入る。その背中がこっちを見る。思わず、肩が揺れる。仁科は知と杏を交互に見ていた。え? という顔で、知の背中を指差した。なぜか杏は顔を伏せた。ばかーー、逆に怪しまれる。どうして思っても見ない行動に出たのよ私! 杏は顔を上げて、大丈夫だから、と唇で伝えた。すぐに振り返り、仕事に戻った。


 まるでいつかの保険に勧誘されているみたいだった。以前は三か月だったが、今回は一日。明日にはこの会社に自分はいない。それぐらいなんてことはない。最近じゃ、別の人が運転するときのために一日だけかけられる車の保険もあると聞く。価格にして数百円。それぐらいランチを奮発したと思えばいい。何なら今日の昼ごはんはコーラだけでいい。腹が膨れてちょうどいいや。




 十二時から十分経った頃、知が部屋から出たのを見て杏も席を立った。どっちに進んだかと左右を見ると、自販機横に備え付けられているベンチシートに腰を下ろしていた。嵌め殺しの窓ガラスから地上を眺めているようだった。


 杏は自販機の前まで行き、小銭を入れた。コーラのボタンを押すと、がらん、と落ちた。拾って、背後のベンチに腰掛けた。隣に座る知は頭を抱えているようだった。


 知が立ち上がった。


 彼の顔をずっと眺めていた杏は、そのときに彼と目が合う。


「まだ、昼休憩三十分残ってますけど」


「気分がいいんです。今日は切りのいいところまで仕事が片付きそうで」


 行ってしまった。同時に彼の行く先、部屋の入り口に主任がいるのを認め、杏も立ち上がった。知の背中を追いかけた杏は、追い付くと彼の肩に手をやった。そのときには知と主任は対面していた。


「少し、彼、借りてもいいですか?」




「ちょっとここで待っててください」杏はコーラをさっきのベンチに置いてきたことを思い出し取りに戻った。コーラを持って空き部屋に戻ってくると、知は窓の外を見ていた。


「景色、好きなんですか?」


「ああ、いや」知が振り返る。「目のやり場に困って」


 そう言うが、杏には目のやり場に困るほどこの部屋が汚れているようには思えない。会議の際に使うだけなので、白い長机とパイプ椅子が並んでいるだけの部屋だ。


「さっきも、窓から見下ろしていたようですけど」


「ああ、あれはただ頭を整理したくて。普通は何もない壁を見ている方が情報が入ってこなくて頭使わなくていいはずなんですが、どうにも頭の中でいろいろ考えないと気持ちの整理とかつかなくて……それで地上を歩いている人とか車とか眺めてたーーのかな? そこまで気にして見ていたわけではないです」


「さっき」


「はい」


「役割がどうとかって話しているのを聞いてしまったんですが」


「ああ」と知は呟き思い出しているようだった。「あれも別に大して意味なんか……」


「普通だったら、あそこまではっきりと物事を判断して言いません。でもあなたはなんか……」そこで言葉に詰まった。あれ、そもそも私はなぜこの人と話したかったんだっけ。そう、どうしてそういう考えに至ったのか聞きたくて……でもなんで最後に買ったのがいつかもわからないようなコーラ買って、彼を呼び止めて空き部屋に連れてまでこんなことしているんだろう。


 前にもあった。こんなことが。先月苑子と話したせいか、そうでなくても思い出したか、そんなことはどうでもよくて、あのときは大学生で、飲み屋で――。


 ――自分の感情に気づいて言語化するずっと前から、自分はそういうものを引き寄せていたんだなと――


 ああ私、この人が好きなんだ。


 気づけば杏は背を向けて部屋を飛び出していた。通路を走りながら、忘れていたあの頃の記憶が腹の底からせり上げてくるみたいだった。さっき飲んだコーラが腹の中でたぷんたぷん揺れている。忘れるのにはこんなにも月日を要するのに、思い出すのは一瞬だ。割に合わない。またこの先もずっとこんな面倒な感情で溢れ返って、必要もない気疲れで満たされて、どうせまた付き合う気もない癖に求め続けて、自分が大事な人に暴力を振るう姿を想像しては覚めて――淡にセックスできないだけじゃないんだよ。そんな未来のない奴と付き合いたくないでしょ。でも結婚しないと親不孝だろ。でもすべてが恥ずかしいんだよ。褒められても罵倒されても。その間でいつも泣いてんだよ。


 こんな私でごめん。


 どうでもいい人には優しい癖に、大事な人には優しくできないし、気持ち悪いし普通にできない。それが普通なの? 優しいは嘘? 私にはもう何が何だか――でも――どうせ……明日で最後なのか。


 杏は足を止めた。面を上げ、背後に振り返ると、今しがた走ってきた知が数メートル先でちょうど立ち止まるところだった。


「……やりなおそう。スタートオーバー、スターティングオーバー」


「え?」


「櫻坂、三秋縋、ミスチル」


 何のことかと、知はあっけに取られている。


 だがすぐに、ふっ、と鼻息を漏らす。


 口角が上がる。


「標識、君の話、ワールズエンド」



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