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前後普遍  作者: 面映唯
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 クローゼットを開ける。


 ハンガーにかけられたジャケットに手を伸ばす。すべて閉じられていなかったボタンを上から順に閉じていく。床の上に広げ、丁寧に畳んだ。新聞紙を敷いた段ボールの中に、そっと置いた。


 冬用のジャケットをもう一着、同様にクローゼットから取り出し、畳み、段ボールの中に入れる。


 五着目だった。丈の長いシャツと、ジップ付きのボトムスを畳んで段ボールの中に入れた(のち)、開きっぱなしのクローゼットの中を覗き込み、ふと手が止まった。


 数秒立ち尽くした後、振り返って床に置いてあったウィスキーの瓶に手が伸びた。数か月間洗わず使い続けているステンレスのタンブラー。ウィスキーを三分目程度注いだ。飲みかけのペットボトルの蓋を開けると、気の抜けた音がした。タンブラーを左手で持ち、傾け、伝わせるように丁寧にコーラを注いだ。


 一口飲み、クローゼット横のデスクにタンブラーを置く。再びクローゼットの中に手を伸ばした。


 ジャージ二着、Tシャツ五着を入れたところで段ボールはいっぱいになった。もう一箱用意していた段ボールを詰め終わった段ボールの上に置く。


 さて、次は靴だった。クローゼットの床に平積みされた靴箱のひとつに手を伸ばす。蓋を開け、じっくりと眺めた。レザーとはいえ、汚れがあった。デスクの上にあったウェットティッシュを一枚抜き、丁寧に拭いた。底の汚れも拭こうと試みたが、上手く取れない。ウェットティッシュでは限界があるのだろう。どうせ靴底なんて汚れるのだから、とその分、表面を念入りに拭いた。靴箱の中に靴を戻し、蓋を閉じた。段ボールの中に入れる。


 デスクの上のタンブラーに手を伸ばし、口にする。


 飲みながら酒臭くならないかと心配したがもう遅い。拭きとった汚れを酒の香りで調和することにする。


 靴箱を開いては汚れを拭き取り、段ボールの中に入れる。一足ごとにウィスキーを口にした。気づけば段ボールが埋まっている。


 深夜の断捨離は佳境を迎えていた。タンブラーの中身は空になっている。もう一度ウィスキーをコーラで割った。その流れで、(さとる)は腰を下ろした。


 あってもなくてもいいもののはずなのに、どうしてこんなにも手放したくないと思っているんだ。どうしてこんなにも――。


 知は重い腰を上げ、再び作業に取り掛かる。


 作業をしながら半分泣いていたのかもしれない。淡々とこなしているが、心は泣いているのかもしれない。知自身にもわからなかった。自分で決めたことだった。決めたことであるのに、感情が拒んでいる。悲鳴とまではいかなくても、「いやだ」とわかるくらいの声音(こわね)が指先から聞こえる。


 このスウェットは遊園地に行ったときに着ていたものだった。背面に英単語がプリントされている。アトラクションの列に並んでいるとき、後ろの子が翻訳アプリのカメラで撮ったのを覚えている。証拠、持ち出し禁止。そういった意味だったはず。


 これはSNSのタイムラインに流れてきた芸能人の写真の居場所に心当たりがあって、その場所に行き、同じようなポーズ、背景で写真を撮ってもらったときのボトムス。サングラスは、車出勤していた頃にバイト先の店長とすれ違い、後で「やんちゃな人がかけてそうなサングラスだったな」と言われた。


 思い出す。


 想い出す。


 思い出を売るというのはこういうことなんだな。この服を着て歩いた街、隣でしがみつくように腕を取るあなた――。


 今何しているかなあって、それだけだった。スマートフォンを手に取り、当時の写真を探そうとカメラロールをスクロールする。知の束の間の感情に答えてくれたのにもかかわらず――横顔、覆う手、ばかり。


 一緒に撮った写真なかったんだ。


 いやに(わび)しさを感じた。今の今まで忘れていたような感情だ。どうせ明日には頭から消えている。服みたいに視界に入れば思い出すことがあるかもしれないが、そうか、写真が……。


 知は彼女の写真をまとめて削除する。これでこの感情を思い出すきっかけはもうない。


 服は手放したくないのに、思い出は容易く手放せるんだな。


 大学時代に買ったシャツに目を落とす。


「どうしてこんなに……」


 この手放したくないという感情こそが、見栄や虚栄の本質である気がした。


 ひとつ思い出したことがあった。小学生の頃、同じ服を着ている上級生を廊下で見かけ、羞恥を覚えたことがあった。その服を着ている日は、今日はあの人着てないだろうな、と廊下に出るのが躊躇われた。のちに、同じ習い事に通っていたその人の口から「今日同じ服じゃん」と言われ、なぜか安心したのを覚えている。自分の中のブランド志向はそういうところからきているのかもしれない。「同じだね!」と嬉しそうに言われていたらきっと、服装にこだわりなんてなかったのかもしれない。


 だが、きっとそれだけではないはずだった。


 それも確かに理由の一つではあるだろうが、もっと根幹的な理由が知の中にはあった。


 今になって気づく。何かを失おうとするその瞬間にすべてが鮮明にわかる。少なからず、百万もするブランド品だろうと金があれば手に入る。金は汎用性がある。量はどうあれ、どんな働き方でも手に入れることができる。百万を稼ぐのに一年かかるのだとしても、一年後には百万円するブランド品を手に入れることができる。どれだけ貧乏でも、どれだけ醜くても、手に入る、ということに関しては平等だった。


 金ひとつで手に入れることができる印象があるのなら、手に入れる。


 要するに、他人からの印象に重きを置いていたのだ。誰かに好かれること。集団で生きる社会である以上、これが知にとって大事なことだった。でもそれなら、自分でコミュニケーションやらなんやらを身に着け、人に好かれようとすればいいのではないか。


 努力することが苦手だったのだ。


 簡単に手に入るなら手に入れたい。すぐに手に入るのならすぐに手に入れたい。時間か金かと問われれば時間を選ぶのだろう。実際、過去の知は遠出の際、バスではなく新幹線を選んだ。


 自分の醜さや汚さは自分が一番よく知っているだろう。学生の頃はよく心の中で他人を罵倒したものだ。かといって自分はそれほどでもない。罵倒するだけしておいて、自分にはあの人のような勇気がない。向上心がない。挑戦する心も、手を差し伸べる優しさも、努力も、大事なモノも。他人を笑う資格なんてなかったが、それでも自分を守るために自分でも気づかぬところで他人を笑っていた。俺が持っているのは誰にでも手に入るもの。あいつがやろうとしていたのは、限られた人しか手に入れられないもの。

泣けるね、なんだかみじめで。


 知が大事にしていたのは見て呉れだった。だが同時に、この服を手放したくないという感情は、それだけの熱量を自分にくれた対象だという何よりの証拠だった。魅せるために買っていたから好きになったのか。きっかけがなくてもいずれ好きになっていたのか。


 服は好きだった。


 いつの間にかこだわりができていた。


 それは服に限った話ではない。


 知はタンブラー片手に昨晩詰めた段ボールを開く。


 小説の段ボール。


 漫画の段ボール。


 CDの段ボール。


 知はタンブラーを口元に傾ける。どうして昨日のうちに段ボールの口をガムテープで閉めておかなかったのだ、と後悔した。でも、手は止まらない。一度段ボールに入れたはずの小説や漫画を手に取ってぺらぺらと捲る。そして、戻す。


 小説は三冊残した。漫画は残していない。CDも今やサブスクの時代であるのだから、と理由をつけ、手中に収めることを断念した。


 知はクローゼットの中を見る。内部の白い壁がよく見えた。残ったのは、アウター一着、ジップアップのパーカー一着、Tシャツ二枚、デニムのボトムスとワイドパンツが一着ずつだった。あとは今着ている部屋着のスウェット、昨晩残した小説三冊。


 どうやら、これが今の俺らしい。


 服も、小説も、漫画もCDも、すべて自分を創ったものたちだった。言い換えるなら形容。当時の背景さえ思い出させる思い出のきっかけ、彩る装飾品。身体の中から何かが消えたような感覚。苦しいくらいたらふくご飯を食べ、翌日の朝に感じている空腹感や腹の凹み。まるで自分の中から知識や記憶が零れてなくなってしまったみたいだった。知が身に纏っていた印象、語彙力、想像力、発想力、感性、思考力表現力諸々、大幅に失ったようだ。元から自分は空っぽな人間だと思っていただけに、感動さえ覚えた。失う瞬間に明らかになる。こんなにも、こんなにも、己の身体にはいろんなものが入っていたじゃないかと。


 デスクにタンブラーを置き、身軽になった身体でガムテープを手にする。五つの段ボールすべてに封をした。床に胡坐をかいて、タンブラーに残っていたウィスキーを飲み干す。


 ガムテープで封をするとき、ばりばり、という音がずっと続いて行けばいいと思った。事実、知の頭の中でその音が何度も反芻されていた。酔っているのかもしれない。だが、いつかは終わりが来る。永遠はない。ピーターパンじゃないんだからさ。もしこれが夢なのだとしたら、明日の午前中、九時から十三時の間、宅配業者のインターホンによって夢から覚めることになるだろう。


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