1章④
深夜、草木も眠る午前二時。
オペラ座では一つの影が、足音も無く彷徨っていた。
真っ黒な外套と伸ばしきりの赤毛を垂らし、一人静まった廊下を進む。
灯りのない暗黒の中、ぬらりと淡白く浮かび上がる右半分の仮面。
青い左の瞳は終始辺りを見渡し、処分対象がいないか目を光らせていた。
ふと、背後で僅かな布擦れの音が聞こえる。
人の気配だ。
手に持っていた鎌を振り上げ、瞬時に重心を変える。
くるりと踵を返し、侵入者と思しき人物の首元に刃を突き立てた。
「おっと、怪人殿。見回りご苦労だ」
「……!」
「武器を下ろしてくれないか。傷がついてしまう」
瞬時に思考を巡らせ、耳馴染みのある人物のものだと理解すると、口元が緩んだ。
言われたとおりに刃を下げる。
「やあ、エステル」
ゆらりとランタンが点った。声の主はこのオペラ座の支配人、ペトロニーユだった。
エステルと呼ばれた仮面の女は、くすりと笑みを浮かべ、口を開く。
「驚いた。貴方がこんな時間に会いに来るだなんて」
「君に会いたくなってね。
駄目だった?」
「いいえ、いつでも歓迎。
でも急に来られたら驚いてしまうわ」
「失敬失敬」
赤髪の女は、柔らかな笑みを浮かべる。無
骨な金属と可憐な女性の組み合わせは、アンバランスかつどこか退廃的であった。
「相変わらず、可憐だね。
ああ、君がかの〈オペラ座の怪人〉だなんて、誰が想像するだろうか」
パリの人々が恐れる〈オペラ座の怪人〉。
その正体こそ彼女、エステルだった。
彼女はペトロニーユが生まれるずっと前、オペラ座がこの地に建設されたその時から、当時の支配人の依頼で深夜の見回りを生業として生きている。
その存在を知るのは、支配人を務めるガルニエ家の当主たちのみ。
現在ではペトロニーユだけだ。
「いつもそう言うわね。
何年も前から……それこそ、まだドレスを着ていた頃から」
「君はあの頃からずっと美しい」
「貴方は随分と見た目は変わってしまったけど。
私にとっては小さなペティのまま」
物心ついた時から両親を知らず、祖父以外に家族が居なかったペトロニーユが、歳の離れた友人に懐くのは必然だった。
母のように甘え、姉のように敬い、恋人のように慕った。
エステル自身も、幼い少女の友愛を受け止めそれに応えていた。
二人の友人関係は今でも続いている。
あの時と変わらぬまま、穏やかで少し神秘的な関係。
少なくともエステルはそう思っているようだった。
「今夜は少し、ご一緒しても良いかな」
エステルは頷くと、ペトロニーユの歩幅に合わせゆっくりと歩き始めた。
上等な革靴が、カーペットに沈み、耳触りの良い音を立てる。
「それにしても、今日はどこか顔色が良くない。
何かあったのかい」
エステルは焦るように周囲を見渡すと、恐る恐る、少し……と呟いた。
「今朝、侵入者の処分のために外に出たら、若い踊り子に姿を見られてしまって。
今日、貴方がお話していた彼女ね」
「見ていたのかい」
こくりと赤い髪が揺れた。
建設当時からこの場所に住むエルテルは、誰よりもオペラ座の内部構造について熟知している。
表の通り道から抜け道まで、全てを把握していた。
曰く、今日の騒動も裏から眺めていたらしい。
「最初は覗くつもりはなかったのよ。
でも、どうしても気になって」
「優しいね。少し驚いていたようだけど、今は落ち着いている。
それにしても君が地上に上がるとは珍しい。何かあったのかい」
「昨晩見つけた侵入者が、炎の魔術を使う魔術師だったの。
酷いのよ、地下道いっぱいに炎を溢れさせて……そのせいでいつも使っている通路が開かなくなってしまったの」
普段使用している死体遺棄用の下水道へ向かうには、一度地上へ出る必要があった。
夜明けの誰も居ない時間帯を見計らったはずだが、偶然にも踊り子に見つかってしまったのだという。
「それは災難だったね」
ええ、とエステルの小さなため息が零れた。
「ほんの少し、太陽の下へでてきただけで騒ぎを起こすなんて、申し訳ないわ」
俯く表情に、ペトロニーユの眉間が狭くなる。
「ねえ、エステル」
「なぁに」
「君もそろそろ地上で生活しても良いんじゃないか。
来年で五〇年になるんだろう。先代、お祖父様への面目も立ったんじゃないかな」
顔を覆う赤い髪を、そっと耳にかけてやる。
隠れていた緑色の瞳が、寂しげな色をたたえていた。
「そう、かしら……でも」
口ごもるその理由には、心当たりがあった。




