1章③
「それは本当なのコレット」
「まあ、なんてこと......! 恐ろしいわ」
口々に騒ぎ立てる踊り子へ向けて、口元に人差し指を添える。
「静かに。今はコレットの話を聞こう。
続きは話せるかい」
コレットは頷き、呼吸を整えると、ことの顛末を話し始めた。
「今日は私が楽屋の掃除当番だから、夜明けの一番でこのオペラ座に来たの。
楽屋入り口から入ろうとしたわ。
でもまだ管理人が開けていなかったみたいで……鍵が開いていなかったから、仕方なく楽屋裏のもう一つドアから入ることにしたの。
この時から私、すっごく嫌な予感がしていたのよ!」
楽屋裏のもう一つのドア。
昼でもどこか暗く、薄気味悪いと有名な場所だ。
早朝と深夜に管理人が施錠のため出入りするため、開いていることの多い扉だが、殆どの役者と職員は使いたがらない。
なぜなら、その場所がオペラ座の怪人の出現場所として有名だからだ。
「そして薄暗闇の中、私は見たの!
赤く滲んだずだ袋を持った怪人の姿を!」
踊り子達は悲鳴を上げる。
興奮状態となったコレットはまくし立てるように続けた。
「その姿の恐ろしいこと! 真っ黒なマントに血のような赤毛、顔は骸骨のよう!
死神がいるのなら、きっとあんな格好をしているに違いないわ!」
「黙りなさい!」
突如飛んだペトロニーユの怒声に踊り子達は息を止めた。
俯く黒髪の隙間から、見開いた目が覗くことに気づいたコレットは青ざめる。
「も。申し訳ありませんガルニエ様……」
「……いいや、謝るのは私の方だコレット。
驚かせてしまってすまない。
つい感情的になってしまった」
ペトロニーユは軽く指を鳴らすと、こぼれ落ちた涙をシャボンのように浮かべ、拭う。
「実のところ、私も少し怖がりでね。
恥ずかしながら、怪談の類いは苦手なんだ。
かの有名な〈オペラ座の怪人〉についてとなれば尚更、ね。他の踊り子達には秘密にしておいてくれないか」
その言葉に踊り子達はほっと胸をなで下ろす。
オペラ座の怪人。
それはこの建物が建てられた時から流れる、普遍的な怪談話の一つだ。
全身を包む黒いマントに、色あせた赤髪。
そして、骸骨のような顔面。
その死神のような姿をした怪人は夜な夜なオペラ座を徘徊し、この建物のどこかに存在する至宝を狙う者を殺すのだという。
怪人の正体は人々の格好の話の種で、初代支配人が生み出した魔物という説や、〈獣の病〉をもって生まれた人物のなれの果てという説もある。
特にコレット達のような若いバレリーナは怪人を恐れていた。
「例の出入り口か……あの辺りは使わなくなった大道具が捨て置いてあるからなぁ。
もしかしたら、それを見間違えたのかもしれないよ」
「でも……」
「ああ、怖いだろう。
私もそうだ。
念には念をおいて、見回りを増やすように手配するよ。
もし、怪人でも大道具でもなく生身の人間だったら、別の意味で恐ろしいからね」
さてと、とペトロニーユは立ち上がった。
「今日は踊り子のみんなで一緒に帰ろうか。
もちろん、私もついて行くよ」
コレットはぱっと顔を明るくし、礼を言う。
他の踊り子達も頭を下げた。
「ただ、約束して欲しいことがある。
〈オペラ座の怪人〉については、今この場に居る私達だけの秘密にしよう。
他の踊り子達が怖がってしまったら次の公演に支障が出てしまうかもしれない。
お願いできるかな」
踊り子達は皆、一様に頷いた。
その日オペラ座にいた踊り子たちは、ペトロニーユに連れられ近くのカフェに出向いた。
愛らしい少女達がとろけるような甘さのスイーツに舌鼓を打ち、至福のひとときを過ごす。
その光景は周囲の人々の心も和ませる結果となった。
怯えきっていたコレット達も、怪人のことを忘れ不幸な一日を小さな思い出に変えた。
ただ一人、二人きりのデートと勘違いしていたルイーズだけは終始ふくれっ面でフォークを握っていたことを除いては。




