1章②
パリ・オペラ座の支配人、ペトロニーユ・E・ガルニエは、楽屋の廊下を颯爽と歩く。
踊り子達は皆、彼女のために道を空け、壁際でよりそうながら黄色い歓声を上げる。
モーセの海割りを彷彿とさせる光景は、このオペラ座では日常茶飯事だ。
男性ほどある背丈に、くっきりと整った顔立ち。
うなじで結んだ黒髪は、揺れるたび艶やかな光沢を放つ。
おまけに男装を好むせいか、誰が呼んだかオペラ座の貴公子。
ロマンス小説から飛び出してきたような彼女の出で立ちには、数多くの女性が虜になっている。
上映される演目よりも、彼女の姿目当てにやってくる観客もいるほどだ。
「今日もお美しいわ。
まるで絵画から抜け出してきたかのよう」
「また香水を変えられたのかしら。とてもよい香り」
「あの方の姿を拝見できたのよ、今日一日最高の踊りができそうだわ」
踊り子たちはうっとりした視線を向ける。
中には抜け駆けしようと声をかける者もいた。
だが、ペトロニーユはにっこりと微笑み手を振るだけで、決して誘いに乗ることはなかった。
そんな中、ある女性が彼女の行く手を阻む。
「ねえ、ペトロニーユ。今日こそは逃がさないわ」
一人の踊り子が、ペトロニーユを引き留めた。
誰よりも白い衣装に、誰よりも煌めくブロンドの髪。
そして、青空の宝石の瞳。
踊り子主席のルイーズだった。オペラ座にて彼女に匹敵する美貌を持つ者はいないとまで謳われる娘で、10代ながらパリ中に名を轟かせている。
少しこの強そうな目元は、じっと目の前の愛しい人を見つめる。
「ルイーゼ、何のつもりだい」
「何もかもないわ。
今から私と一緒にカフェに行くのよ。ねえ」
柔らかな腕に抱きしめられ、ペトロニーユは困ったように眉を下げる。
周囲の踊り子達は歓声を飛ばすのをやめ、おずおずと引き下がった。
ルイーズはオペラ座で最も美しい踊り子だが、同時に傲慢で我が儘な女として知られていた。
愛しのペトロニーユとの会話を邪魔すれば最後、翌日にはあの手この手で嫌がらせを受け、退団に追い込まれてしまうだろう。
そうやって姿を消した踊り子を、彼女たちは何人も知っていた。
「ルイーズ。
私には仕事があるから、また今度にしてはくれないか」
「嫌よ。前だって、そうやってはぐらかして以来じゃない。
その仕事って、最高の踊り子である私よりも大事なことなの?」
「その質問は反則だ。
君と仕事は天秤にはかけられないと言っただろう」
「嫌、答えて」
徐々に強くなる腕を引く力に、流石の支配人とて観念した。
「……ああ、わかったよ。
仕方ないな。
じゃあ今日の五時、楽屋裏で待っているように。必ず迎えに行くから」
ルイーズは目を輝かせ、本当?と何度も確かめた。
ペトロニーユは彼女の手を取り、約束するよとウインクをする。
有頂天になったルイーズは鼻歌を歌いながら、くるくると自身の楽屋に戻っていった。
それを見届けると、ほっと胸をなで下ろし再び歩き出す。
向かったのは、いくつかある踊り子たちの共用楽屋の一つだ。
踊り子主席やそれに類する立場の役者は個室を与えられているが、それ以外は皆三〜四人で一つの部屋を共有している。
「失礼するよ、マドモアゼル」
中に入ると、一人の踊り子が部屋の隅でうずくまっていた。
それを心配するようにルームメイトであろう少女たちが取り囲んでいる。
踊り子が踊りの講師にしごかれ、涙を流すことはよくある。
が、彼女の泣きようは尋常ではないと直感した。毛布にくるまり、震えている。
まるで、何かに怯えているかのように。
「一体、何があったんだ」
来訪者に気がついた踊り子達は、はっと顔を上げる。
口を揃え、ガルニエ様!と叫んだ。ペトロニーユは彼女らの元に駆け寄り跪くと、事情を尋ねた。
「ああ、ガルニエ様。
私達にもわからないのです。
コレットは怯えて何も話してくれません。
今朝部屋にやってきてからずっと、こんな調子で……」
「わかった。
悪いが、少し下がってくれるかい。
私からも彼女に話してもらうように頼んでみるよ」
踊り子たちは頷くと、部屋の入り口の方へと下がる。
ペトロニーユはすすり泣き怯える少女、コレットの手を優しく取った。
恐る恐る、泣き腫らした目が視線を上げる。
「ガ、ガルニエ様……」
「コレット、嗚呼かわいそうに。こんなに怯えて辛かっただろう。
もう大丈夫だ、私がついているよ。
だから、何があったか話してはくれないか」
瞬間、コレットは堰を切ったように泣き出した。
そして、驚くべき一言を放つ。
「私、わたし……〈オペラ座の怪人〉を見たの!」
その言葉を耳にした踊り子達は、皆悲鳴を上げる。
ペトロニーユも整った眉を歪めた。
「〈オペラ座の怪人〉ですって!」




