4章⑦
「今日の仕事は?」
「夕方まで事務作業だ。
ああ、面倒くさいなぁ」
「でも大事な仕事なんでしょう。
頑張って頂戴、夕食を用意しておくから」
「あー……それなんだが、今日は公演後知り合いと会食があってね。
明日の夜まで帰ってこれそうにないんだ。
客人達も遅くまでオペラ座にいる予定だから、今日の見回りはしなくて大丈夫だよ」
「ええ、わかったわ」
ペトロニーユが仕事に向かってから数時間。
エステルは忙しなく自室の中をうろついていた。
手には彼女の名が書かれた、革表紙のスケジュール帳が握られている.。
つい先ほど、部屋の中で見つけたものだ。
以前、素敵な手帳ね、と訊ねたとき「長年使っているお気に入りなんだ」と中まで見せてくれた記憶がある。
頁には予定が敷き詰められるように書かれていた。
筆まめだと感心すると、全ての予定をこの手帳に記していると教えてくれた気がする。
どうしましょう、どうしましょう。
これが無いときっとあの子は困るはず。
こんな大事な物を忘れるだなんて、ペトロニーユらしくない。
今日の内に届けてしまわねば。
だが、きっとオペラ座にはまだ客人がいる。
いくら秘密通路を知っているエステルでも、見つからないとは言い切れない。
少しの間、考え込む。
結果、手帳を届けに向かうことを決意した。
目立たない色の服に着替え、武器も持たず地下通路を抜けていく。
隠し通路とオペラ座を繋ぐ無数の出入り口。
その一つからそっと廊下を覗くと、人気のない冷たい空気が流れていた。
観客も従業員も殆どがこの建物から去っているようだ。
手帳を手渡しする訳にはいかない。
どこか適当な場所に置いて、あたかも落とし物のように放っておく方がいいだろう。
エステルはロビー付近に向かう。
最寄りの通路口から身を乗り出し、手帳を邪魔にならない目立つ場所に置く。
彼女のお気に入りの絵画の直ぐ下だ。
ここならばきっと、目に入るに違いない。
ほっと一息を吐いたところで、遠くから響く少女の声が耳に入った。
耳慣れぬ声だ。うっすらと、ペトロニーユの声も聞き取れる。
恐らく、彼女が今夜訪れたという客人なのだろう。
楽しそうでなによりだ。
思わず口元が緩む。
ふと、背後から何者かの気配がした。
きっと、職員か何かだろう。
エステルは身を正し隠れる場所を探すが、通路口は気配のする方向にある。
しかも運の悪いことに、この先には通路口が存在しなかった。
……仕方ない。
小さく息を吐き、決心するとエステルは窓から飛び降りた。
窓の真下には庭園の迷路がある。
鬱蒼と茂る樹木の迷宮は、身を隠すのに丁度いい。
木々や彫刻を使い、ひらりと着地する。
このまま道を行けば、通路口があるはずだ。
この迷路の構造は熟知している。
気配を消し、最短の道を行く。
身を縛るような戦慄感から、早く抜け出したくて仕方がなかった。
木の隙間にある扉の取っ手へ手を伸ばす。
やっと地下へ戻れる。
全身が安堵感に包まれたその時だった。
「もしかして……」
声に聞き覚えがあった。
木漏れ日のように柔らかく、青年期の青い声。
耳について離れない、あの時の……
反射的に振り返る。
脳に巡る、最悪の予想が的中した。
胃袋を直に握られた時のように、きつく絞られる。
月の逆光を纏い立っていたその人影は、紛れもなくセザールだった。
目が合った瞬間、此方を向く萌黄色の瞳が大きく見開かれたのがわかる。
「え、エステル……」
不安げだった表情が、花咲くようにほころんだ。
細かな砂利を踏みしめ、後ずさりする。
否定しようにも声が出ない。
この場を立ち去ろうとしても体は杭を打ち付けた様に動かない。
「ああ、本当に、本当に会えるだなんて……!」
セザールは、冷たいエステルの手を取る。
大きく温かな手に、僅かに安堵したのは気のせいだと思いたい。
「エステル……僕のこと、覚えていますか。
セザールです。
あの時、記念公演の夜この場所で会った……」
覚えている。
忘れるはずがない。
そう思いつつもエステルは首を横に振った。
「違います。人違いです。
私はただの庭師、きっと他の赤毛のご令嬢と間違われたのでしょう」
「どうして誤魔化そうとするのですか。
貴方のその白い仮面を、忘れましょうか」
そう断言され、喉まで出かかっていた否定の言葉が飲み込まれた。
「それは……」
口ごもり他所を向くエステルの顔を、悩ましげに覗き込むセザール。
なかなか開かれない口に申し訳なさを感じたのか、握られていた手が放される。
セザールは、服の皺を整え、芝生に跪く。
「先ほどの失礼をお詫びいたします。
エステル……どうか、僕に貴方のことを教えてくれませんでしょうか。
そしてゆくゆくは、貴方と婚姻の契りを結びたい」
「こ、婚姻……!?」
思わず、悲鳴を上げてしまった。
庭にこだまする自分の声に、慌てて口を噤む。
その間にも答えを待つセザールに眼差しを浴び、仕方なくエステルは答えた。
「何を言っているのですか」
「僕は、本気です。
こんなにも、身を熱く燃え上がらせる感情は、初めてなのです」
真摯な視線を向けるセザールに、返事一つ返すことができない。
「ごめんなさい」
沈黙に耐えかねたエステルは、小さく呟くと、手刀をセザールの肩口へ打ち込んだ。
くぐもった呻き声を上げながら、セザールは地に伏せる。
脈と意識を確認し、異常が無いことを確かめると、力の抜けた体を担ぎ上げた。
庭の外へ置いておけば、誰かが見つけるだろう。そう考えながら、一人暗い迷路を抜ける。




