4章④
一心不乱に机へと向かい、鉛筆を走らせる。筆先が描くのは、魔書の設計図。
専用の方眼紙にはロジェのオーダーに沿った、幻想文学を彷彿とさせるデザインが広がっていた。
とはいっても以前製作した図のデザインを部分的に流用したものに過ぎない。
会食での一件で、エステルとの再会が一気に難しくなったように感じた。
梯子を外されたような気分だ。あれだけ溢れていた創作意欲も消沈している。
埋められない喪失感を胸に、セザールは作業を進めることで気を紛らわせていた。
そんな昼下がりのことだった。
「にいさま、ねえ。
にいさま!」
突如、音と共に扉の向こうから声がする。
妹のサラだ。
金糸雀の囀りに似た高らかな声が、扉を突き抜けセザールの耳まで届く。
「いるよ。
入っておいで」
そう言い切る前に扉は開かれた。満面の笑みを浮かべたサラが飛び込んでくる。
兄とお揃いの亜麻色の髪をなびかせ、若いオリーブ色の瞳を輝かせる。
「ねえ、にいさま。
ガルニエ様に会ったって本当?ねえ、ねえ!」
こちらに駆け寄ってきたと思えば、困惑する兄にお構いなく回答を迫った
母によく似た物怖じしない性格は、セザールとは正反対だ。
兄を慕う彼女は、時折こうやって部屋に押しかけ、いや、遊びにやってくる。
「ああ、ペトロニーユさんのことか。
お会いしたよ」
「もうお名前で呼ばれているんですね! ふふふ、ねえ、どんな方でした?」
乙女の羨望の眼差しが、こちらにじっと注がれる。
ああ、なるほど。妹もパリのご婦人達の例に漏れず、支配人のファンをしているわけか。
一人合点したセザールは、会食での彼女の姿を思い浮かべる。
「そうだな……気品があって、ユーモアが好きで。
どこかミステリアスな女性だったよ。
結構噂話についても詳しいし。
綺麗な黒髪が印象的だったなぁ」
「わぁ……」
これはまた、随分と熱に浮かされているようだ。
胸に手を当てくるくると舞う妹を横目に、再び机へと向かおうとする。
「ああ、なんて素敵なの!
こんなに素晴らしい人が、私のお義姉様になるだなんて……夢みたい!」
「……お義姉様?」
セザールはくるりと向き直った。
「誰が、誰の? お義姉様……?」
「聞いたの。
お父様は、にいさまとガルニエ様の縁談を進めていらっしゃるのよ?
お二人も満更ではなさそうだって。
この間の会食でも、仲良く話していたとお聞きしましたけど……あら、ご存じではないの?」
妹は、何を言っているんだ。
ペトロニーユと少し話はしたが、決して婚約とか恋愛とか、そういう雰囲気ではなかった。
ほんの少し、噂話に過ぎない。
それに、二人きりになったのは父が退席し始めたからだ。
自分の意思ではない。
今やっと、父の行動とペトロニーユの言葉を理解した。
セザールは、頭を抱える。
「聞いていないよ……そもそも僕に縁談はまだ早すぎるんじゃ……」
「いいえ、そうでもないわ。
私の友人は既に年上の婚約者がいる方もいますもの。
おかしな事ではないと思うわ」
「そう、か、なぁ……」
セザールは精一杯の愛想笑いを浮かべた。
自分がペトロニーユと結婚。
まさか、裏で話が進んでいるなんて思いもしなかった。
彼女はオペラ座の支配人で、家柄も財産も申し分ない。
しかも希有な美貌の持ち主だ。
引く手数多だろうに、何故自分との縁談を進めようとしているのだろうか。
「僕が、結婚かぁ……」
この家を継ぐために誰かと結婚する必要があるのは解っていた。
いずれ子をもうけることも。
だが、そのための心の準備は不十分だったのだ。
消化不良の感情を抱え続けるには、まだ未熟だった。
それに、エステルの事だってある。
彼女をまだ諦め切れていない。
「にいさま? どうして悲しそうな顔をするの」
「最近ずっと作業しているからかな……少し休むから、出て行ってくれないか」
「えぇ。私、もっとにいさまお話したいのに!」
不服そうな妹を部屋からだそうと、扉を開く。
その瞬間、目に入ったのは此方を見下ろす父だった。
セザールは逆光に当てられ暗くなった顔を見上げ、ぽかんと口を開ける。
「ち、父上……?」
「あ、お父様! お帰りなさい!」
父はぴょんと飛び跳ねるサラを抱き止め、床に下ろしてやる。
「今日は早いのね。
しかも、なんだか嬉しそう!」
「……父上、どうされたんですか」
セザールが訊ねると、父は内ポケットから封筒を一つ取り出した。
手渡されるがまま中を見ると、そこには数枚の観劇チケットが入っている。
「ペトロニーユからだ。
以前の公演で、お前が途中体調を崩していたことを話したんだが、その時是非もう一度とチケットを譲ってくれた。
勉強の合間にどうだろうか」
突然の誘いに思わず目を丸くする。
正直、観劇自体は嫌で仕方がなかったが、オペラ座に行けばエステルに会えるかもしれない。
そんな僅かな希望が、セザールを頷かせる。
「ずるいわ、にいさまだけ! お父様、私も一緒につれて行ってくださらない?
ねえ、良いでしょう?」
「仕方が無いな。
話を通しておこう」
「やったあ! ガルニエ様に会えるわ。
今から準備をしないと。
ドレスに髪飾り、靴はどうしようかしら」
サラはくるりと一目散に自室へ向かって走り出す。
「まったく、賑やかな娘だ。
一体誰に似たのだろうか」
そう言う父の声に、セザールも同意した。




