4章②
大方の食事を終えた頃。
ふとキッチンへの出入り口に目をやると、一人のメイドが小走りでこちらにやってくる。慌てた様子で主人の下へ駆け寄り、何かを耳打ちした。
ペトロニーユは何度か頷き、「迅速に対応するように」とだけ伝え、メイドを下がらせた。
ワイングラスが静かにテーブルに乗る。
「残念ながら、デザートはしばらくお預けのようです」
どうやらキッチンのオーブンが壊れてしまったようだ。
テーブルに届くまで、もう少し時間かかるらしい。
「折角来てくださったのに申し訳ない」
「構わない。
君と話す時間が増えたのは幸運だ」
それから、父とペトロニーユは思い出話に花を咲かせる。
初めて会った日の事、セザールと会わせた日の事。
そしてペトロニーユの父について。
どれもセザールが生まれる以前の話ばかりで、聞いていて飽きなかった。
「まだ若かった頃、この家にも何度か呼ばれたことがある。
庭園で虫や花の観察をしたり、君の父上と仲間を呼んで人前じゃ話せないような馬鹿な話をしたものだ」
「まあ、あのお堅いラファイエット公が?」
「年頃の男なんてそういうものだよ。
みんな、禁じられたものが魅力的に見える」
父のカトラリーが、微かな音を立てて皿の上に乗った。
「そういえば、あの庭園はまだ残っているのか」
「ええ、毎日庭師に手入れをさせています。
時折、私もあの場所を歩きますよ」
父は優しく目を伏せ、僅かに微笑んだ。
彼もまた酔っているのだろう。
「父上、大丈夫ですか。
お酒もほどほどに」
「すまない。
少々羽目を外しすぎた」
冷たい水を呷る姿から、どこか哀愁じみたものを感じた。
「食事中席を立つのは良くないことだとわかっているが……良ければ散策させては頂けないだろうか。
酔い覚ましも兼ねて、少しばかり思い出に浸りたい」
「勿論。
私も一緒に……」
「直ぐに戻る、セザールと話でもして待っていてくれないか」
そこまでいうのなら、と家主が頷くと、父はひとつ礼をする。
席を立って、使用人と共にダイニングを後にした。
残された二人は、しんと静まり帰った空間に取り残される。
先ほどまで父と談笑していたペトロニーユも何故か黙っている。
好機だ。
父がいない今、オペラ座の怪人について訊ねるのはこの時しかない。
腹をくくり、今まで何度も復唱した質問を口にしようとした。その時。
「ははは、あははは!」
突然ペトロニーユが笑い始めた。
一体何が可笑しいのだろうか、セザールには全くもって見当がつかない。
あっけにとられ、喉まで出かかっていた質問も、引っ込んでしまった。
「聞いていた通りだ、社交に慣れていないようだね。
パーティーで再会したときから察していたけどここまでとは。
ふふふ、失礼、君がかわいらしくてね。思わず」
「か、かわ……」
父の前とは違う、砕けた口調だ。
ペトロニーユは笑いの余韻を引きながら、目元にたまった涙を指先で拭う。
「人付き合いが苦手、か。その気持ちはよくわかるよ。
私も君くらいの頃は社交界が苦手だった。
だが、切っ掛けというものは大事だ。
それさえあれば、人は変われる。君の父上がこの場を作った理由の一つだよ」
「そう、なんですか……」
「ああ、記念公演の後、ちょっとした相談を受けたんだ」
初耳だった。父が今回の会食に自分を誘った理由など考えたこともなかった。
てっきり建前的な意味合いだと思っていた。
「今夜の食事は全て練習だと思って気軽に取り組めば良い。
そうだ、ワインの味はどうだろうか、舌に合えばいいのだけど」
「はい、美味しいです」
あまり酒は飲まないセザールだが、出されたグラスはもう既に空だ。
ボトルを見ると、あまり見ない銘柄のラベルが貼り付けられている。
「初めて飲みました。
とても甘くて、飲みやすい」
「ボルドーの貴腐ワインの一つだ。
ただ、度数が高いから気をつけたまえよ。
気に入ったのなら似たものを仕入れさせようか。近いうちにまた来るだろうからな」
人形のように整ったペトロニーユの顔が、軽く横に傾く。
さらりとした黒髪が揺れる。美しい人だ。素直にそう思った。
「ガルニエさん」
「ペトロニーユで構わないよ」
「ペトロニーユさん。
気にることがあるのですが……」
なんだい、と低く柔らかな声が囁いた。
手元のグラスは先ほどよりも減っている。
「父がペトロニーユさんとの会食を開いた他の理由、とは一体」
大方の食事を終えた頃。
ふとキッチンへの出入り口に目をやると、一人のメイドが小走りでこちらにやってくる。慌てた様子で主人の下へ駆け寄り、何かを耳打ちした。
ペトロニーユは何度か頷き、「迅速に対応するように」とだけ伝え、メイドを下がらせた。
ワイングラスが静かにテーブルに乗る。
「残念ながら、デザートはしばらくお預けのようです」
どうやらキッチンのオーブンが壊れてしまったようだ。
テーブルに届くまで、もう少し時間かかるらしい。
「折角来てくださったのに申し訳ない」
「構わない。
君と話す時間が増えたのは幸運だ」
それから、父とペトロニーユは思い出話に花を咲かせる。
初めて会った日の事、セザールと会わせた日の事。
そしてペトロニーユの父について。
どれもセザールが生まれる以前の話ばかりで、聞いていて飽きなかった。
「まだ若かった頃、この家にも何度か呼ばれたことがある。
庭園で虫や花の観察をしたり、君の父上と仲間を呼んで人前じゃ話せないような馬鹿な話をしたものだ」
「まあ、あのお堅いラファイエット公が?」
「年頃の男なんてそういうものだよ。
みんな、禁じられたものが魅力的に見える」
父のカトラリーが、微かな音を立てて皿の上に乗った。
「そういえば、あの庭園はまだ残っているのか」
「ええ、毎日庭師に手入れをさせています。
時折、私もあの場所を歩きますよ」
父は優しく目を伏せ、僅かに微笑んだ。
彼もまた酔っているのだろう。
「父上、大丈夫ですか。
お酒もほどほどに」
「すまない。
少々羽目を外しすぎた」
冷たい水を呷る姿から、どこか哀愁じみたものを感じた。
「食事中席を立つのは良くないことだとわかっているが……良ければ散策させては頂けないだろうか。
酔い覚ましも兼ねて、少しばかり思い出に浸りたい」
「勿論。
私も一緒に……」
「直ぐに戻る、セザールと話でもして待っていてくれないか」
そこまでいうのなら、と家主が頷くと、父はひとつ礼をする。
席を立って、使用人と共にダイニングを後にした。
残された二人は、しんと静まり帰った空間に取り残される。
先ほどまで父と談笑していたペトロニーユも何故か黙っている。
好機だ。
父がいない今、オペラ座の怪人について訊ねるのはこの時しかない。
腹をくくり、今まで何度も復唱した質問を口にしようとした。その時。
「ははは、あははは!」
突然ペトロニーユが笑い始めた。
一体何が可笑しいのだろうか、セザールには全くもって見当がつかない。
あっけにとられ、喉まで出かかっていた質問も、引っ込んでしまった。
「聞いていた通りだ、社交に慣れていないようだね。
パーティーで再会したときから察していたけどここまでとは。
ふふふ、失礼、君がかわいらしくてね。思わず」
「か、かわ……」
父の前とは違う、砕けた口調だ。
ペトロニーユは笑いの余韻を引きながら、目元にたまった涙を指先で拭う。
「人付き合いが苦手、か。その気持ちはよくわかるよ。
私も君くらいの頃は社交界が苦手だった。
だが、切っ掛けというものは大事だ。
それさえあれば、人は変われる。君の父上がこの場を作った理由の一つだよ」
「そう、なんですか……」
「ああ、記念公演の後、ちょっとした相談を受けたんだ」
初耳だった。父が今回の会食に自分を誘った理由など考えたこともなかった。
てっきり建前的な意味合いだと思っていた。
「今夜の食事は全て練習だと思って気軽に取り組めば良い。
そうだ、ワインの味はどうだろうか、舌に合えばいいのだけど」
「はい、美味しいです」
あまり酒は飲まないセザールだが、出されたグラスはもう既に空だ。
ボトルを見ると、あまり見ない銘柄のラベルが貼り付けられている。
「初めて飲みました。
とても甘くて、飲みやすい」
「ボルドーの貴腐ワインの一つだ。
ただ、度数が高いから気をつけたまえよ。
気に入ったのなら似たものを仕入れさせようか。近いうちにまた来るだろうからな」
人形のように整ったペトロニーユの顔が、軽く横に傾く。
さらりとした黒髪が揺れる。美しい人だ。素直にそう思った。
「ガルニエさん」
「ペトロニーユで構わないよ」
「ペトロニーユさん。
気にることがあるのですが……」
なんだい、と低く柔らかな声が囁いた。
手元のグラスは先ほどよりも減っている。
「父がペトロニーユさんとの会食を開いた他の理由、とは一体」




