4章①
夕暮れのパリを行く馬車に、セザールと父は揺られていた。
自身の首元に手を添える。
そこには、以前より上手く結べたタイがあった。美しい波形を指でなぞり、滑らかな感触を楽しむ。
そんな機嫌良い息子の様子を見ながら、父の口元は微笑んだ。
「今日は機嫌がいいな。
タイを上手に結べたことがそんなに嬉しいのか」
セザールの照れくさそうな顔が、茜色の照明に照らされる。
「それもありますが、今日の会食が楽しみで」
「ペトロニーユ……ガルニエ嬢と会うのが、という意味か」
「はい」
支配人、ペトロニーユ・ガルニエとの会食が決まったその日から、セザールは寝る間も惜しんでマナーを復習した。
社交の場が嫌で覚えるのを敬遠していたものを覚えるのは実に面倒なものだ。
もっと早くに覚えておけば良かったと後悔したが、これからの事を思えば奮い立つことができた。
もし、エステルとまた会うことができたなら。
馬車はからからと進み、オペラ座を通り過ぎる。
停まったのは直ぐ隣の屋敷だ。
隣の劇場に負けず劣らずの煌びやかな外観を見れば、家主の想像は容易い。
「くれぐれもマナーには気をつけるように、な」
「勿論です」
馬車から降りると、それを待ち構えていたかのように玄関が開く。
「いらっしゃい、ようこそ我が屋敷へ」
ペトロニーユが現れた。
今夜は式典用の豪華なものではなく、洗練された軽やかな衣装を纏っていた。黒いシャツに濃灰のベスト。
一つに束ねられていた髪は、うなじでギブソン・ガール・ヘア風にまとめられている。
艶やかな黒髪が上品な灰色によく合っていた。
「ラファイエットさん、それにご子息まで。
本日はお越しくださりありがとうございます」
「こちらこそ、お招き頂きありがとう」
家の中でも男装をしているのか。
余計な事を考えつつ、セザールは父と共に会釈した。
「以前劇場で会ったときも思ったが、立派に成長したな。
お祖父様も鼻が高いだろう。今年で幾つになるんだったか」
「あら、この格好でお忘れかもしれませんが、私は立派なレディなんですよ。
年齢を尋ねるとは、ラファイエットさんであっても感心しませんね?」
「ああ、そうだった。これは失敬」
「ふふ、冗談です。別に気にしてませんよ。
今年で二六です。背丈も態度も大きくなったでしょう。あの愛らしい少女の面影はもうありませんよ」
冗談交じりに笑いながら、ペトロニーユは屋敷の中へ二人を通す。
内装も外観に負けず劣らずの豪華さだ。
彫刻、絵画、異国の品々までもが至る所に並べられている。
それだけではない。柱や壁紙も、美術品と言って差し支えない程美しい。
セザールは視界に入る曲線美に圧倒され、そこかしこを見渡す。
目に入る全てが新しく斬新で、自然と胸が躍った。
「こら、キョロキョロろみっともない」
「す、すみません……」
「いいや、興味を持って頂けて私は嬉しいです。
祖父の趣味でした。
おかしなものが好きでね、なんでもかんでも気に入れば家に飾っていた」
無数の美術品の間を通り抜け、やってきたのは屋敷の中心、ダイニングルームだ。
白いクロスのかかったロングテーブルの上には、既に幾つもの食材が並んでいる。
ワイン瓶に見たことのない形の果物、美しい食器の数々。
ルネサンス黄金期の絵画と見まがう光景だ。
「さあ、座って。
今夜は珍しく客人が来るとシェフが張り切っています。
胃袋に覚悟するよう言ってください」
三人が席に着くと、すぐさま料理が運ばれてきた。
オードブルにスープ、メインディッシュ。
次々と運ばれる食事のあまりの量と豪華さに驚き目を丸くする。
どうやら家主はその反応を楽しんでいるようだった。
「我が家のシェフが腕によりをかけたフルコースだ。
お口に合うものはありますか? ムシュー」
「え、えっと」
少々意地の悪い質問に回答を迷っていると、父が口を開く。
「少しは加減してやってくれないか。
息子はこういった会食の経験がないんだ」
「と、いうことは私が初めてってわけですね。
これは光栄だ」
ほんのりと桃色の乗ったペトロニーユの頬が上がる。
見れば、今さっき注がれたはずの食前酒が消えていた。
妙に機嫌がいいのはそのせいだろう。
言われるがまま、スープを一匙口に含んだ。
とろりとした舌触りに、初めての味。思わずもう一匙掬う。
「ふふ、沢山召し上がってください。
シェフも喜びます」
ペトロニーユは、満足げに自身の食事に手をつけはじめた。




