3章⑩
ファウストの公演から数晩明けた。
数日経てば、記憶も感情も薄まるはず。
そう踏んでいたが、エステルの心は今だ落ち着く様子はない。
昨晩庭園に現れた青年、セザール・ラファイエットのことが頭から離れないのだ。
月空の下、真摯に自身を捉える真っ直ぐな視線。
強く握られた腕、最後に告げられたあの言葉。
いつか、また会えますか。
柔らかなテノールは今だ耳から離れず、何度も何度もささやきかける。
それが恐怖によるものなのか、または別の感情によるものなのか。
混乱した脳ではまだ判別がつかない。
「……」
エステルはマントを繕う手を止め、深呼吸する。
大好きな紅茶も、今日ばかりは味がしない。
何か別のことに手を着けてみよう。
天井を仰ぎ、目を伏せた。
本でも読みましょうか。
いいえ、きっと登場人物に彼を重ねてしまう。
暖炉の火でも眺めましょうか。
いいえ、きっとあの時の記憶が蘇る。
食事を作りましょうか。
いいえ、彼はどんなものを食べるか気になってしまう。
何をどうしようとも、胸の内に荒波が立つ。
「一体、どうしてしまったの……」
自問自答を繰り返すも、自分がおかしくなってしまったことしかわからない。
エステルに赦されたのは、ただ無意味な時間を過ごすことだけだった。
「エステル。
そんなに浮かない顔をしてどうしたんだい」
気がつけば、ペトロニーユがこちらを見下ろしていた。
時計を見れば、彼女が来訪する時間になっている。
「あ、ああ。
ペトロニーユ。
大丈夫、大丈夫よ」
「君がそういうときは大抵大丈夫じゃないんだよ。
ねえ、何かあったのかい」
ペトロニーユはエステルの真横に腰かけた。
白い手袋が、優しく赤い髪を撫でる。
布越しに感じるほんの少し冷たい手に、エステルは安堵した。
「あ、あのね……」
無意識の声がすぼむ。
彼女にセザールについてを話す訳にはいかない。
知れば、きっと不幸にさせてしまうだろう。
かといって嘘を吐けば、すぐにばれてしまう。
言葉を探していると、不意に左手を。
視線捕まれた。見れば、人差し指の先には小さな赤い滴が零れている。
「針を刺したのかい。
怪我をしているじゃないか。早く手当を」
ペトロニーユは棚から救急箱を取り出すと、手際よく処置を施した。
エステルの指先には分厚く包帯が巻かれている。
その様子がどこか滑稽で、笑みを零した。
「少しやり過ぎじゃないかしら」
「いいや、多少やり過ぎるのが丁度良いんだ、これは」
おどけたように笑うと、持ってきていたバスケットを手渡してくる。
「今週分の食料だよ。
足りるかな」
「一人暮らしにしては十分すぎるくらい……というよりも二人分だわ、これ」
「ふふ、君は鋭いな。
だめだったか」
自分よりいくらか長身の女性が、甘えるかのように寄り添う。
女性特有の柔らかな筋肉と香水の香りが、緊張した心を安らげる。
「いいえ。これ、使わせてもらうわ。少し離れて頂戴」
「君の手料理、大好きなんだ。
楽しみだよ」
長い腕から解かれ、バスケットを持って台所へ向かう。
「今日はどうするの。
泊まっていく?」
本棚に手を伸ばしていたペトロニーユは目を輝かせるも、しゅんと肩を落とした。
「そうしたいところなんだけど……明日は昼から用事があってね。
ここに来るとランチの時間まで寝てしまうだろう」
「じゃあ、明日の夕食は食べに来る?」
「そっちの方も残念ながら。
知り合いとの会食があってね」
めずらしい、と思わず口にした。
ペトロニーユは社交の場に適した性格をしているが、そのものはあまり好きでは無いと聞いていた。
必要であればやむをえず赴くような事ばかりで、会食など滅多にしない。少なくとも聞くのは一年に数度だけだ。
「その人は父の友人の一人でね。
親のいない私に、昔からよく目をかけていてくれたんだ。
今日また仕事ご一緒して、食事でもどうだってね……エステル。
顔色が良くないがどうかしたか」
言われて初めて、身がすくんでいることに気がついた。
確かに、不快な寒気が肌を走る感触もする。
「そう、貧血かしら……少し休むわ」
「食事は私が作ろう。
きっと、昨日の疲れが出ているんだよ」
握っていた食材を取り上げられ、ソファに腰かける。
いつの間にか暖炉には追加の薪が焼べられ、周囲はほんのりと暖かくなっていた。
「先日のことが尾を引いているのだろうか。
君に無理をさせてしまったようで、申し訳ない」
「いいの。とても楽しかったし。
ファウスト、私も好きだもの」
ペトロニーユはそっとエステルの頬を撫でると、キッチンに立った。
心地の良い調理音と香ばしいスパイスの香りが小さな部屋を包み込む。
心地よい安堵に包まれながら、エステルはそっと目を伏せた。




