1章①
オペラ座の地下には至宝が眠る。
この建造物が建てられてからずっと、市民の間で囁かれている噂だ。
この噂を聞きつけた荒くれ者は、この至宝を我が物にしようとオペラ座の地下に自ら舞い降りる。
だが一度降りたが最後、彼らが地上に戻ってくることはなかった。
しかも、その事実を知っていながらも、自分は生き残れるという自負と蛮勇を持った盗人が後を絶たない。
今日も愚かな罪人が地下道を走る。
人数は三人、どれも命知らずと言えるだろう。
湿った石畳の上。
数メートルおきにある小さな蝋燭に導かれ、彼らは逃走する。
鬼気迫る面持ちで、我先にと走る姿は滑稽でもあった。
先頭を走る一人が叫んだ。
「おい、出口はこっちじゃなかったのか」
怒号がトンネルにこだました。
焦りと怒りに気圧され、二番目の男が零す。
「たしか、こっちの方向だったはずだ。
磁石が言うのだから、間違いない」
そう言って懐から磁石を取り出し覗き込む。
見れば、先ほどまで同じ向きを指していた針は、ぐるりぐるりと回転していた。
強力な魔力に当てられたのだろうか、それとも地場が狂っているのだろうか。
どちらにせよ、これではまともに方角なんてわかりはしない。
「ああ、クソったれ......!
こんな時に限って壊れやがって。
早くしないと追いつかれちまう」
無機物に悪態を吐く二人を眺めていた最後尾の男は、ある違和感に気がついた。
「待ってくれ……ここ、どこだ?」
小さな呟きに、三人は足を止める。
辺りを見渡すと先ほどまで走っていた石の地下道は消え去り、目の前には暗黒の湖が広がっていた。
揺蕩うこと無く闇を映す湖面は、異界への入り口を彷彿とさせる。
男達は身震いする。
「聞いてないぞ、こんな湖があるだなんて……」
「これ以上進めない、戻ろう」
「駄目だ、後ろからはあいつが追っ、」
その言葉が終わりを迎える前に、ごとんと重たいものが落ちる。
同時に先頭に立っていた男の体が、濡れた地面へと崩れ落ちた。
微かな灯りに照らされ、赤い水たまりが広がっていく。
「う、うわあああああぁぁ!」
落ちてきた者は、男の頭部だった。
たった一瞬で首を切り落とされたのだ。
残された二人の間に、緊張が走る。
片方がヒステリックに叫んだ。
「まさか、アレが追いついてきたのか?
無理だ、無理だろう! あの距離から追いつけるはずが……」
「それはどうでしょう」
空間にこだまするように、女の声が響く。
妙齢とも壮年ともつかぬ低く芯まで響く声は、二人の荒くれ者を怯えさせるには十分だった。
彼らはまた絶叫する。
「逃げるぞ!」
「で、でもこいつは……」
「死んだ野郎の頭なんぞに構ってられるか、行くぞ」
男は一人で元来た道を走り出す。
ありったけの速度を出して、重い脚で駆けた。
「は、はあ。はあ……あれ?」
暫く走った男は違和感に気がつき、後ろを振り向いた。
誰もいない。
自分と一緒に逃げて居るはずの仲間がいない。
まさか……
ごくりと生唾を飲む音がした。
全てを察した男の背に、冷や汗が流れる。
殺される。
自分だけでも生き残らねばならない。
焦燥とともに、再び腿を振り上げた。
この場所から一刻でも早く抜け出さなくては。
次の瞬間、目の前に重い何かが降ってきた。
見れば、先ほど姿を消した仲間だった。
腹部には縦に割れた大きな傷口が開き、今もなお絶え間なく血が滴り出している。
まだかろうじて息はあるが、手遅れなのは素人目でも明白だ。
こちらに伸ばされた腕を振り払うように、後ずさりする。死に損ないに構う暇はない。
五感を振り絞って、奴の気配を探した。
水路、壁穴、天井、全てを見渡すが、その姿はなかった。
それでも安心することはできない。確実にこの近くにいる、という確信が男にはあった。
ああ、こんなことになるのなら来るんじゃなかった。
後悔しても、もう遅い。
愚か者の背後に既に、裁きの手が近づいていた。
小石の転がる微かな音に、男は振り返る。
視界に入ってきたのは一人の影だった。
背丈は男よりも拳一つ小さいほど。
そして、全身をすっぽりと覆い隠してしまう闇色のローブ。
垂れ下がるくすんだ赤毛は、地面近くまで垂れ下がっている。
骸骨のような細腕に似つかわしくない大鎌は、遠くの蝋燭の光に触れ妖しく反射していた。
ローブの隙間から覗く肌は青白く、蝋人形を思わせる。
向かって左半分は白くどろりとした仮面で覆われているが、もう半分は妙齢の女性のそれだった。
酷くやつれているものの、憂いを帯びた彫刻のように整っている。
「貴方で、最後の一人でしょうか」
おどろおどろしい姿からは想像できない可憐なソプラノは、かえって男を恐怖させた。
女は身の丈ほどある大鎌を軽々と振り上げ、眼下の罪人に向けて振り下ろす。
「ここに来た貴方たちが悪いのですよ」
まるで、死神だ。
男は掌を前に構え、指先に力を込める。
すると一瞬、腕の太さほどの炎の渦が現れた。
女は振り上げていた鎌を空振り、一歩、後ろに飛んだ。
間髪入れず、男は渦を出し、女に向かって放つ。
女は花弁のように、ひらひらと舞い避けた。
男はしめた、とほくそ笑む。
「おい、さっきの威勢はどうした。
逃げるばかりじゃ殺せないぜ!」
わざと煽っても、近づく素振りを見せない。
好機をうかがうように、虚ろな視線が此方を刺してくる。
このままなら、いける。
男の予感が確信へと変わった。
「……ああ、そうか。
お前、魔術が使えないのか。
なるほど獣の類いと聞いていたが、まさか本当だとは」
返事はない。
黒い外套が、闇に踊るだけだ。
「図星だな。
〈獣の病〉の罹患者は素体として高く売りさばける。
俺にもやっと運が巡ってきたぜ、死ね!」
男はもう片方の手をかざすと、湿った地下道を突き抜ける、巨大な炎を生み出す。
「燃えろ、燃えろ燃えろ〈オペラ座の怪人〉!焼き殺してやる!」
炎は勢いを増し、壁に滴る水を枯らせる。
橙色に燃え上がる光は、いつしか周囲一帯を焼き尽くした。
全てを燃やし尽くしたと考えた男は、腕を下げ、炎を収める。
すっかり呼吸は乱れ、体中から汗が噴き出している。
急激な魔力消費によって体力は減り、今は経っているのがやっとだ。
鼻孔を刺激する焦げ臭い匂いに、にやりと口角をつり上げた。
「ふ、ははは……これだけやれば、死んだだろ」
男の荒い息と微かな水滴の音が、静かに地下道に響いた。
涼やかな静寂に、安堵のため息を吐いたその時。
「嗚呼、お気の毒に」
焼き殺したはずの声が、脳にこだまする。
男の額から冷や汗がにじみ出た。
「どうやら、地の利は私にあったようですね。
残念ですが、仕事なので」
瞬間、影が天井から降りてきた。
思わずしりもちをついてしまう。
目の前に先ほどの女が立っていた。
外套の繊維は一つとして燃えた形跡はない。
何故だ、何故生きているのか。
あんな炎の中、例え〈獣〉でも生き伸びるなんて不可能だ。
男が上を向くと、薄暗い視界の中、一点更に暗い部分が存在しているのが見て取れる。
穴だ。
穴が開いていた。
天井に人の通れる大きさの穴が開いている。
ああ、なんだ。
男は口の端で笑う。
「……反則じゃねぇか」
希望を失った瞳はただ呆然と、その刃が自身の首に突き立てられる瞬間まで、揺れる赤髪を見つめていた。




