3章⑧
記念公演から一夜明けてもなお、セザールの胸の高鳴りは止む気配はない。
自室で勉強を進めようとしても、脳裏にはあの赤い髪の女性……エステルの姿が浮かんでくる。
忘れよう、忘れようと教本を覗き込んでも、目が滑ってしまう。
昨晩目の前に現れたあの姿。櫛の通った柔らかな髪に、遠くを見据えるような澄んだ瞳が忘れられない。
女性に対して魅力を感じた事は何度かあったが、彼女のそれは、今まで経験した全てを上る。
絡みつく花の蔓のように思考を拘束するのだ。
「……駄目だ」
勉強を諦めたセザールは、ベッドに横になる。
劇場を立ち去る最後の瞬間、彼女と再び相見えた。
広い一階席の吹き抜けを挟んで、丁度対角にその姿を見つけたのだ。
視線を交わしたあの数秒間、まるで時が止まったようだった。
運命だ。
セザールがそう確信するには時間を要さなかった。
三階のボックス席にいるのならば、きっと名のある貴族の令嬢なのだろう。
年齢もセザールとそう変わらなく見えた。
既に社交界に出ていてもおかしくない。
もう二度と会うことは無い、そう言われた。
だが、いつか再会できるという根拠のない自信が胸の内に確かにあった。
どうすれば、エステルともう一度会うことができるのだろうか。
フランス中の貴族の中から探すか、もう一度オペラ座に向かうか。
どちらにせよ、セザールにとって苦手な手順を踏まざるを得ない。
だが、それでも構わないとさえ思った。
「……君に会いたい」
無意識に、シーツを握りしめる。
ぽつりと呟いた声が、昼下がりの部屋に消えた。
直後、部屋に力強いノック音が響く。
どうせ執事か妹だろうと踏んだセザールは、気の抜けた声で返事した。
「はぁい……」
「セザール、勉強の調子はどうだ」
聞こえた低い声に、ベッドから跳ね起きる。
父だ。慌ててシーツを整え、先ほどまで勉強に励んでいたように装った。
緩い返事をした事を後悔する。
「あ、はい。
順調です。
入ってどうぞ……」
短い返事と共に父が部屋に入る。
仕事から帰った直後なのだろう。
正装を身につけていた。
強い威圧感に、思わず身構える。
「勉強中すまない。
少し様子を見ておきたいな。
うむ、元気そうだな。よかった」
昨晩、観劇を途中で抜けたことを心配しているのだろう。
その間に、息子が立ち入り禁止の庭園でうつつを抜かしていた。
なんて、きっと夢にも思っていないだろう。
「顔を見るついでに一つ、報告があってな」
「知らせておくこと、ですか」
そうだ、と父は話を続ける。
「会食で会った支配人を覚えているか。
ペトロニーユ・ガルニエ女史なんだが」
セザールは頷いた。
ドレスを着た婦人ならまだしも、男装の麗人を忘れることなどそうそうない。
「来週、彼女と食事の席があるんだ。
お前も一緒にどうかと思っている」
「……!」
はっと顔を上げる。
「食事の席、ですか」
「ああ。卒業制作も近いだろう。
彼女も学院出身だから、なにか参考になる話が聞けるかもしれない」
セザールは頷いた。
これは間違いなくチャンスだ。
オペラ座の支配人であれば、招待客……エステルについて何か知っているかもしれない。
胸が高鳴るのを感じる。
「勿論、学校の課題もあるだろうから無理強いはしない。
余裕があれば……」
「い、行きます!」
身を乗り出すように答えるセザールに、父は一瞬あっけにとられる。
だが直ぐにわかった、と頷いた。
「当日の馬車を手配しておこう。
お前も時間を空けておきなさい」
「はい」
父はどこか満足そうに部屋の外へ出た。
「そうだ、ネクタイを結ぶ練習もしておくことだな」
「わかりました」
ドアが閉まったのを確認すると、セザールはベッドへ飛び込んだ。
全身を包む高揚に溺れ、足をばたつかせる。
会える、きっとまた会える。
まだ何も事が進んでいないはずなのに、確証だけはあった。
今度出会えたのなら、何と話そうか。
まずはあの晩の失礼を詫びるところから始めよう。
そしてお互いの好きなものについて話して、食事をして、いつか婚約をする。
それならば、いつか家督を譲り受けるその日までに、立派な装幀師としてより一層勉学に励むべきだろう。
気が早いにもほどがある。暫くすると、胸の奥に芽生えた羞恥心がじわじわと脳を刺激した。
ふと時計を見ると、時刻は十四時を回っていた。
今日はロジェと卒業制作について話し合う日だ。約束の時間まで準備をし、玄関へ向かう。
家を出るまでの間、使用人と何度か擦れ違った。
彼らは皆、一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに穏やかに微笑む。
「まあ、一体どうしたのかしら」
「今日は珍しく表情が明るいこと」
背後で囁かれる声は、セザールの耳には入ってこなかった軽やかな足取りは、ロジェとの待ち合わせのカフェへと向かう。




