3章⑦
「エステル。
起きてエステル」
肩を揺すられ、目を覚ました。
遠く、心地良い声が耳に入る。
うっかり寝てしまったのだろうか。
そう自覚しゆっくりと目を開ける。
見れば、ペトロニーユが小さく眉を下げ、子犬のようにこちらを覗き込んでいた。
「……大丈夫かい。
やっぱり、体調がよくないんじゃ」
「お酒を飲みすぎただけよ。
少しはしゃいでしまったの」
「それなら良いんだけど……今日は早めに眠った方が良いかもしれない。
今日はもうお開きにしようか。
何か気に入ったものがあれば地下に持ち帰るといい」
二人は五番ボックス席を出て、人のいない静まり返ったオペラ座を歩く。
照明のいくらか落ちた廊下にどこか安心感を感じる。
「今日は沢山のお客様がいらっしゃったのね。
超満員だったわ」
「それはどうも。
お祖父様のときと、どっちが多かった?」
「同じ位よ。
ふふ、張り合ってどうするの」
「いいじゃないか聞くくらい。
ねぇ、なんで笑っているんだい」
「妬いているのかしらって思って。
やだ、そっぽを向かないで」
わざとらしく顔を逸らすペトロニーユを、エステルは優しく窘めた。
「今日は、とても楽しかったわ。
大好きな貴方が、沢山の人に愛されて慕われているのを見ることができて。
自分の事ではないのに、嬉しかった」
「ありがとう。
でも、私の一番はいつだって君さ、エステル」
ペトロニーユは、職員用入り口の扉に手をかける。
「いいのかい。
地下まで送らなくて」
「大丈夫よ。
貴方も今日は疲れているでしょう」
「心遣いに感謝する。
君も気をつけて帰ってくれ」
扉が開き、冬の風が隙間を抜ける。
エステルは意を決し、口を開いた。
「最後に少し、聞いてもいいかしら」
ペトロニーユは「なんだい」と首を傾げる。
「ここの階のボックス席って、普段とか今日とか、どんな人たちが座っているのかしら。
少し、気になって……」
「珍しいな、君がそういうものに興味を持つだなんて。
確か、お祖父様の代からの知り合いや、貴族用の専用席だったはずだ」
ペトロニーユは少し、首を傾げる。
「……でも、誰がどこに座っているかは把握していないな。
全部秘書に任せているから。
そうだ、明日の朝までネームプレートをそのままにしておく予定だから、気になるなら見に行ってみるといい」
「ありがとう。
そうさせてもらうわ」
「うん。じゃあ、おやすみ。
良い夢を」
「ええ、今夜はしっかり眠って頂戴」
ペトロニーユは、無邪気さの残る表情で笑った。
「もちろんだよ、また明日」
扉から、かちゃりと鍵がかかった音がする。
施錠されたことを確認すると、エステルはボックス席の並ぶ廊下へと向かう。
端から数え、丁度五番ボックス席の対角に当たる席を見つける。
聞いたとおり、扉には部屋番号と、金色のネームプレートが掲げられていた。
「……ラファイエット」
エステルに巡る血が、一気に下へと降りた。
ラファイエットといえば、フランスでも有名な装幀師一族の家柄。
かつての王家に連なる血を引く貴族だ。
このパリに身を置くものであれば、誰もが知っている。
ぞくりと背筋に寒気が走る。心なしか手も震えていた。
「……まさか。
いや、関係ないはず。気のせい、気のせいよ」
僅かに露出した首筋に鳥肌が立った。
きっと、体を冷やしてしまっただけだ。
そう自分を欺し、エステルは地下の自室へと戻った。




