3章⑥
庭園から逃げるように帰ったエステルは、ボックス席のソファで縮こまる。劇場は第二部へ向けての準備中だ。観客達も今か今かと再会を待ち望んでいる。ペトロニーユも、軽食を摘まみながら緞帳が上がるのを待っていた。
左手首に残る感触に、身震いしながら受け取った毛布を握りしめる。
先日地下道に迷い込んだ青年・セザールと再会した。
まさか、彼が夢と勘違いしているとはいえ、自分の事を覚えていたとは。
天使と呼ばれ、名前を尋ねられた。
あの時の真っ直ぐな視線が、今でもどこからか注がれて居るいるような感覚がして焦燥が身を焦がす。
あの時、ペトロニーユが帰ってこなければどうなっていたことか。
彼女がいて、本当によかった。
「大丈夫かい、エステル。
体を冷やしてしまったのか」
「……少し。でも温かいワインを貰ったお陰で、暖まってきたわ」
「なら、何故こんなに震えているんだ。
もしかして、私のいない間に何か……」
エステルは首を振る。
本当よ、少しただ冷えただけ。
そう言ってもペトロニーユは信じていない様子だった。
「そうか……? わかった。
君の言葉を信じるよ」
「ありがとう」
心地良いアルトが、すっと耳に馴染んだ。
照明が落ち、『ファウスト』の第二部が始まる。
この部では、マルグリートがジュエル・ソングを歌うシーンがあった。
ペトロニーユのお気に入りのシーンだ。心待ちにしている様子が、暗い中でもわかった。
そしていよいよ、ジュエル・ソングが始まった。
可憐な歌手の歌声は、硝子のように透き通った、芯のあるソプラノだ。
美しいマルグリートに観客達は魅了される。
エステルもその一人だった。
ジュエル・ソングを聴くのは何十年ぶりだろうか。
ずっとうろ覚えでいたものだから、勘違いしていた箇所も多い。
これを平然と歌っていたなんて恥ずかしい。
思わず顔が熱くなった。
それに気づいたペトロニーユは、すぐさま耳打ちする。
「君の歌も十分美しいよ。
なんたって、私の初めてのマルグリートなんだから」
「……ちょっと、恥ずかしいわ」
「ふふふ、真っ赤になってしまって」
そんな冗談を交わしているうちに演目は終了。
大喝采の中幕は下ろされた。
明るくなった劇場から、観客達は次々と席を立っていく。
「素晴らしかった。
やはりファウストはいいね。
流石、オペラの傑作だ」
「私も今まで見た物語の中でも一番好きよ」
本当かい、と細まった目につられて口元が緩んだ。
部屋のドアがノックされる。
ペトロニーユは返事をすると、外へ向かった。
口調からして、秘書か何かだろう。
短い会話の後、彼女は部屋に戻って言った。
「すまない、急用が入った。
少しの間、ここで待っていてくれないか」
「勿論よ。まだまだ食事はあるし。
本でも読んでいるわ」
「ありがとう。
じゃあ、行ってくるよ。」
微笑み目配せをすると、ペトロニーユはボックス席を後にした。
自分一人だけとなった小さな小部屋で、エステルは一人ぼうっと軽食を摘む。
フルーツにパン。
チーズまで。
改めてみれば、なかなかの種類が揃えられていた。
備え付けのフルーツを摘まみつつ、劇場内を見やる。
五〇年以上前のこけら落とし公演以来だ。
「随分と立派に……愛される場所になったのね」
過去に火災が起こったことも忘れ、しみじみと感傷に浸る。
この劇場の建設に、初代支配人……ペトロニーユの祖父が注力しているか知っていた。
パリ一番の名所に育てるんだ。
そう輝いていた彼の妻の瞳の色は、今だ色あせず記憶に刻まれている。
ああ、あの時は楽しかった。
思い出の頁を捲っていると、どこからか注がれる視線に気がついた。
肌を震わせるような緊張感。
それに急かされるようにして、バルコニーから周囲を見渡した。
すると視線の主は直ぐに見つかる。
エステルの額を冷や汗を伝った。
彼だ。
先ほど自身の左腕を握った青年、セザールだ。
遠い空間越しに目が合う。
思考が硬直し動く事ができない。
何故、彼はこちらを凝視しているのか。
他所からは、別の姿に見えているはずじゃないのか。
ふと香を見る。
どうやら全て焚ききったようで、小さな皿の上には灰だけが乗っていた。
香りに鼻が慣れてしまったせいで気づかなかったのだろう。
早く、早く視線の外へ逃げなければ。
震える手でカーテンを掴み。
思いっきり滑らせた。
レールを進むけたたましい滑車の音と共に、ボックス席が薄暗くなる。
閉めてソファに座る。
果実を口に放り込み、気を紛らわそうとするが、脳裏に浮かぶのは彼の、セザールの顔だ。
じっと此方に向けられるオリーブ色の視線が途切れることはない。
どうしよう、この部屋にやってきたら。
部屋をノックされて名前を呼ばれたら。
考えれば考えるほど、装丁は最悪の方向に向かっていく。
「ああ、いやだ」
脈拍する胸を抑えようと、ゆっくり呼吸を繰り返す。
頭の中に、心音だけがどくどくと響いた。
徐々に恐怖に包まれていた思考が、ぼんやりと薄くなる。
今までの気苦労のせいだろうか。
瞼はゆっくりと下がり、ついには眠ってしまった。




