3章⑤
例え夢でも、あの声は鮮明に覚えている。
鈴を転がすような、春の若草を風が薙ぐかのような声。
思い出すだけで夢へ誘われるような声。
それが近くにある可能性を自覚したときには、セザールの体は声のする方へ向かっていた。
行き着いたのは、噴水のある小さな広場だ。
高鳴る胸を抑え、花壇の影からそっと顔を出す。白いベンチに一人の女性が座っていた。
その姿を目にしたセザールは、ぽかんと口を開けた。
くすんだ赤毛の髪に黒いドレス、月に照らされて浮かび上がる。
陶器の仮面。
絵画から飛び出したかのような強い色彩に、目が熱くなる。
夢に見た天使が、そのまま現実へと舞い降りたのだ。
「天使様……」
思わず、声を漏らしてしまう。
瞬間、彼女もこちらを振り向いた。
空色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「あなたは……」
「あ、いや、違うんです。
違う、と言うわけではないのですが」
セザールは姿勢を正すと、恐る恐る女の元に近づく。
「貴方はもしや、天使様ではございませんか」
女性は、天使?と、どこかばつの悪そうな顔をした。
「一体、何を言っているんですか。
人違いです」
困惑する目が視線を泳がせる。
セザールは慌てて失礼を詫びた。
「すみません。
困らせるつもりでは……その、夢で見た人と貴方が瓜二つで」
「そう、ですか……それはどうも」
庭園の照明を映した瞳が、ちらりとセザールを見やる。
だが直ぐに伏せられた。それきり彼女は俯いたまま黙りこくっている。
僅かな会話のせいで退くに退けない雰囲気になってしまう。
気を利かせて何か話題を出すべきだろう。
だが、あいにくまともな対人経験が少ないセザールは、話を切り出す胆力を持ち合わせていなかった。
勢いで話しかけることができたのが奇跡なのだ。
風が庭園を凪ぐ音が、静かに二人の間を抜ける。
その沈黙を切ったのは、セザールの方だった。
「貴方も、今夜の公演を見に来たのですか」
「……こ、公演」
「はい、支配人の就任一〇周年の」
女は、どこか迷ったように頷く。
「僕もガルニエさんから招待されて来たんです。
貴方もですか」
赤い髪がこくりと揺れた。
「で、ですよね。
ちなみに誰かといらっしゃっているのですか。
僕は父と……」
「なら、早くお戻りになられては。
きっとそのお父様が心配することでしょう」
「はい。ですが、私はあまりオペラの公演が得意ではありません。
体調も芳しくなかったので外の空気を吸いに来たんです」
「そう、なんですか」
再び二人の会話は止まった。
どちらも口を開かぬまま、じっと時が過ぎていく。
不意に、遠くで何者かが呼ぶ声が聞こえた。
先ほど話していた、もう一人の人物の声だろう。
女ははっと顔を上げ、席を立つ。
「連れが帰ってきたようですので、私は戻ります」
ドレスを軽くつまみ上げ、走ろうとしたその時、セザールは腕を伸ばしていた。
「待ってください」
細い手首を握りしめ、じっと瞳を見つめる。
大して女の方は硬直し自身の手首とセザールの顔を交互に見つめていた。
「……なんですか。は、離して。人が来ているんです」
「せめてお名前だけでも。
お教え頂けませんか」
「でも……」
こうしている間にも、呼び声はこちらに近づいてくる。
女は少しの間悩んでいたが、観念したように明かした。
「エステル。エステルです。これでいいですか」
待ちに待った言葉を耳にし、セザールは手の力を緩めた。
「エステル……美しい名前だ。
エステル、いつかまた会えますか」
「いいえ。
二度とないでしょう。
さようなら」
そう言い残し、エステルは庭園の奥へ消えた。
彼女がいなくなった後もセザールはその場に立ち尽くし、速まる脈に踊らされていた。
手に残る手首の感触を噛み締め、彼女の名をもう一度呟く。
「エステル」
熱くなる頬を夜風が冷やす。
余韻に浸り空を仰ぐと、先ほどよりも大きくなった月がこちらを見下ろしていた。




