3章④
セザールが頷いたのを見ると、父はウェイターを呼び、皿を片付けさせた。
平然と保つ立ち姿から、僅かな動揺が見て取れる。
「もうすぐ公演が始まる。
少し早いが、席へ向かおう。
あの場所なら、お前の気も少しは休めるはずだ」
わかりました、とセザールは返事する。
二人は宴会場を抜けて、ボックス席のある階層へと向かう。
しんと静まり帰る廊下に、カーペットを擦る僅かな音だけが響いていた。
劇場二階に位置するボックス席には、これまで何度か訪れたことがある。
扉に掲げられた金色の板には『ラファイエット』の文字が掲げられていた。
創設時、当時の当主がオペラ座との親交があり、多額の融資の返礼として送られたものだそうだ。
セザールは、逃げ込むようにして扉をくぐる。
席に着くと、父に勧められたワインを口に含み、そして、ぼうっと舞台を見つめる。
いつ見てもあまりに美しい、絢爛豪華な出で立ちだ。
その過ぎた装飾は、セザールの視界に映る度、心に虚ろを作った。
暫くすると、先ほどホールにいた観客が一階席へやってきた。
静かだった劇場内はざわめきに包まれた。丁度席が埋まった頃。
照明が落ち、人々は歓喜の声を上げる。
そして、緞帳が上がった。歌劇『ファウスト』の始まりだ。
盛大なオーケストラ、舞台で踊る一流の役者たち。光に当たって煌めく衣装。
多くの案客達は、それらに驚き、感動しするが、セザールにはどうもそれが理解できない。
たいしたものだなぁ。
と、感心するのがせいぜいだ。
何度かオペラを見てきては居るが、どうにもこの空間は落ち着かない。
盛大に鳴らされる楽器に、金切り声のようなソプラノ、ちょこまかと動き回る踊り子たち。
人々はそれを美しい、素晴らしいと賛美するが、セザールは共感することができなかった。
それでも、不満を顔に出すわけにはいかない。
体裁を気にして毎度我慢して最後まで聞いているのだ。
だが父は、劇が気に入ったと勘違いしたのか、ことあるごとにセザールを観劇に連れて行く。
残念ながら、父親からの誘いを断るほどの胆力は持ち合わせていなかった。
ああ、嫌だ。
セザールは、バレないようにため息をつくと、退屈な時間に身を捧げた。
公演が始まって数十分経った頃。父がそっと耳打ちした。
「どうしました、父上……」
「顔色が悪い。
医者を呼ぶか」
まさか。素っ頓狂な声を上げそうになるのを堪える。
この時間が苦痛ではあるが、体調が悪いということはない。むしろ、元気な方だ。
「いいえ、大丈夫です」
「……そう、か」
父は、セザールの言葉を信じていないようだった。
「無理はいけない。少し外の空気を吸ってくるといい」
「いいんですか……?」
願ってもない言葉に、声が裏返りそうになる。
「第一部が終わる頃には帰ってきなさい」
セザールは頷き、ひとりボックス席の外へ出ることにした。
扉が完全に閉まったのを確認すると、こっそりと拳を握りしめる。
突然降りかかってきた幸運に、セザールの気分は浮かれていた。
どこで、どうやって過ごそうか。
一人で過ごす、そう考えただけでも胸が躍った。
人気の無い廊下を、一人歩く。
普段は観客でごった返しているためか、不思議な気分だ。
あいにくレストランは開いておらず、休憩室への道も何故か封鎖されていた。
道ばたで立っている訳にはいかない。
頭を悩ませているとふと思い出す。
父が先ほど言っていた。
このオペラ座には中庭があったはずだ。
あの場所なら、寒さを気にしなければ快適な時間を過ごせるのではないだろうか。
意を決したセザールは、中庭に向けて足を進めた。
廊下の突き当たりに、両開きの扉が現れた。
はめ込まれた磨りガラスの向こうには、ゆるやかな照明と暗い緑が見て取れた。
ゆっくり外への扉を開くと、ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。
目の前に現れたのは、柔らかな光に照らされた月の都の庭園だ。
オペラ座の閉塞感に縛られていたせいか、思わず足が前に出る。
上空一面に広がる星空にため息を吐きながら、庭園の入り口へ向かった。
するとそこには、『立ち入り禁止』の看板が立てられていた。
こんな時に限って、と、セザールは肩を落とす。
落胆もつかの間、ゆっくりと顔を上げ辺りの様子を伺った。
誰もいない、誰も見ていない。
確認するとセザールは立て看板の向こうへ踏み込んだ。
普段、立ち入り禁止の場所に侵入するなんて考えられない。
自分でも、何故実行したのか解らなかった。
先日の件で気が大きくなっていたからだろうか。
それとも、劇場から抜け出した開放感からだろうか。
はたまた神秘的な庭の誘惑のせいだろうか。
理由はともあれ、足は進む。
引き返そうと思っても、体はどんどん庭の奥へと入っていく。
常緑樹の壁に色とりどりの花。
白い石造りの彫像に、愛らしい石畳の道。
人気の無さも相まって、どこか別世界に迷い込んだ感覚に陥った。
セザールはしばらくの間、景色と新鮮な空気を楽しむ。
だが、突如耳に人の会話が耳に入ってきた。
侵入がバレたのだろうか。
思わず立木に身を隠し、気配の後を辿る。
庭園の奥からだ。
向こうから会話が聞こえた。
折角の時間を人と話すのに費やすのは御免だ。
そう道を引き返そうとした時、心臓が強く鼓動した。
聞こえたのは一人の女性の声。
そして脳裏に浮かんだのは、夢で見た儚げな赤い髪。
あの方の、天使様の声だ……!




