3章③
吹き抜けのロビーの二階、バルコニーにてワイングラスを持つ人物にライトが当てられる。
一見すればタキシードを着た男性のようだが、顔つきや僅かな仕草で女性だとわかった。
彼女は滑らかな動作で礼をする。
「紳士淑女の皆様、今宵はお集まりいただき本当にありがとうございます。
お楽しみ頂けていますでしょうか」
女性にしてはやや低く、骨に響くような張りのある声。
歌手だと言われれば納得してしまうだろう。
セザールはその姿を、以前新聞で目にした事があった。
彼女こそ、このオペラ座の主。
ペトロニーユ・E・ガルニエだ。
まだ若いながら、大火災で痛手を負った劇場を復興させた優秀な経営者であり、希有な美貌を持つ男装の麗人だ。
パリの新聞記者や権利活動家、婦人達の憧れの的でもある。
人々は彼女へ、盛大な喝采を送る。
「本日は私の支配人就任一〇周年の記念すべき日です。
今日までオペラ座が輝けているのは、ひとえに皆様のご愛顧と応援のお陰。
本当に本当に、感謝いたします。
また、今夜の演目は『ファウスト』。
今最もオペラ座で愛される歌劇にして、私の一番のお気に入りです。
開演まで今暫くお待ちください」
上品な仕草で礼をすると、会場の人々は拍手でペトロニーユを称えた。
つられてセザールも小さく手を叩く。
照明が戻り、ペトロニーユが引き下がると、人々はまた談笑を始める。
ぼうっと立っていればまた誰かに話しかけられるだろう。
セザールは皿を持って、逃げるように食事スペースへと向かった。
食欲はないが、何か口に含めば気持ちが落ち着く様な気がした。
白いテーブルクロスの上には、無数の食事がこれ見よがしに並んでいる。
焦燥から手当たり次第に料理を取り、口へと運んだ。
だが勢い余ったせいで、大きなチキンが喉に詰まってしまう。
「う、うえぅ」
嘔吐き咳き込んでいると、水の入ったコップを渡される。
飲め、と言うことだろうか。
涙の膜で覆われた視界では、目の前にいる人物が誰かわからない。
とにかく胃へチキンを流し込みたかったセザールは、コップを受け取り一気に飲み干した。
「落ち着いて。
ゆっくりと飲みたまえ」
「ゲホッ……ふ、ふぅ……ありがとうございま、え」
顔を上げ、涙を拭う。
視界の先に居たのは、先ほどバルコニーで礼をしていた支配人その人だった。
彼女はにこりと微笑みながら、陶器の人形のような顔を此方に向ける。
「し、支配に……ん?」
「ははは、いい顔だね。
驚かせてしまったかな」
形の良い眉をくしゃりと曲げて笑う。
そんな彼女の様子をちらちらと眺めながら、セザールはコップを握りしめる。
「あ、ありがとうございます」
「それはよかった。
に、しても、君とはどこかであった事がある気がするな……うぅん、こう、頭の隅にあるんだけど、どうしても思い出せない」
「ペトロニーユ、久方ぶりだな」
首を傾げる支配人の背後から、セザールの父がやってきた。
支配人も「ラファイエットさん」とにっこりと微笑んだ。
「就任一〇周年おめでとう。
随分と立派になったものだ。
君が幼い頃の時の出来事を、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
ああ、時が流れるのは早い」
「いえいえ。こちらこそ、お越しくださり感謝いたします。
どうですか、調子の方は」
「ぼちぼち、といったところだよ」
親しげに話す父と支配人の姿を目の当たりにし、セザールは目を丸くする。
「そうだ、彼のことを覚えているか。
一度だけだが、会わせたことがあるんだ。
と、いっても二〇年も前のことだが」
「彼が」
支配人の瞳がこちらをじっと見つめる。
深い海の底を思わせる瞳に、どこか狂気じみた色を感じた。
「そうか、セザール。あの小さなセザールか!
道理で見覚えのある顔だと思った。
私のこと覚えているかい」
思わず反射的に首を横に振り、すみませんと呟いた。
「無理もない。
君たちが出会ったのは、かなり幼い時……セザールなんか生まれて間もない赤ん坊だったからな。
君はまだしも、息子は物心のもの字のついていない赤ん坊だった」
「ふふ、そうだ。
そうだった。
おっと、いけない。用事があるんだ。
そうだ、ラファイエットさん。また今度、お食事でもいかがですか。久しぶりにお話しましょう」
「勿論だ。楽しみにしているよ」
約束ですよ。
ペトロニーユは綺麗に一礼すると、踵を返し食事スペースを後にした。
「彼に、似てきたな……」
ぼそりと呟くのを耳にすると、セザールは恐る恐る疑問を口にする。
「父様、あの、ガルニエ様とはどういった……」
「そういえば、話していなかったな。
彼女の父親とは幼なじみであり、学院時代の同級生だった。
その縁で、彼女とも幼い頃から交流がある」
「ご学友、ですか?」
「お前とフリムラン家の息子のような関係だ。
物心ついた時から一緒だった。
学校でも家でもよく遊んだものだ。
オペラ座の中庭やガルニエ家の庭園は格好の遊び場だった。
まさか、娘を残して失踪するとはな……」
その言葉を口にした瞬間、父ははっと我に返る。
僅かに目を逸らすと、どこか気まずそうに口を開いた。
「言い過ぎたな、今のは忘れてくれ」




