3章①
記念公演当日。
オペラ座周辺は、着飾った観衆達でごった返していた。
かつての王家の邸宅を彷彿とさせる賑やかさとは裏腹に、地下は身が凍るほどの静寂を漂わせていた。
ただ、一つの部屋を除いては。
「エステル。
ああ、エステル。
素晴らしい。
私の見立ては間違いなかった!」
正装を纏ったペトロニーユは、飾ったエステルをこれでもかと賛美する。
褒められた本人は「やめて頂戴」と赤い顔を背けた。
香油を含ませた結い上げた髪、夜空を映したかのような絹のドレス。
薄く乗った化粧に、胸元に添えられた小さな白い花。
くたびれた普段着を着ている時も可憐だったが、着飾れば尚のこと。
夜に揺蕩う妖精の姫君にも勝る可憐さだ。
「ああ、すまない。
そんな顔をさせるつもりはなかったんだ。
ただ、あまりにも君が綺麗で……嬉しくなってしまった」
「何故貴方が喜ぶの。
変な子ね」
エステルの頬が緩む。
さあ行こう、とペトロニーユは細い手をとった。
「今この時の君は、地上のどんな花よりも可憐で、どんな彫刻よりも美しい。
呼宵はペルセポネが地上へ戻るその日だ。
なんて素晴らしい、春の始まりだ!」
「ふふふ、春はまだ暫く先でしょう」
本当に、子どものようだ。
僅かに口元が緩むのを自覚する。
「エステル、何を笑っているんだ」
「少しだけ、昔を思い出していただけよ……懐かしいわ。
貴方はお人形を着飾るように、私におしゃれをせがんでいたわよね」
「あの時からずっと、君が美しく着飾る姿を見たかったんだ。
もう、最高の気分だよ」
「よく言うわ……あら、もうこんな時間。
公演が始まってしまうわ」
時計の針は、公演二十分前を示していた。
「ああ、そうだね。さあ、行こうかお姫様」
二人は地下を後にする。
通路を抜け地上へ出ると、目に入ってきたのは装飾で彩られたオペラ座だった。
麗しき支配人の就任十周年を祝うため、劇場もめかし込んでいる。
周りに広がる夜の街のきらめきも心なしか、普段より何割にも増して見える。
「パリ中が貴方を祝福しているかのようね」
「照れくさい冗談はよしてくれ」
オペラ座の中へ入ると、そこは人っ子一人居ない、がらんどうだった。
あらかじめ、人払いをしておいたと聞いたが、改めて目の当たりにすると面食らう。
「……驚いた。本当に人が居ない」
「君のためだけに作った、専用の道だ。
私と信用できる職員しか知らない。
勿論彼らが君を見つけることもないだろう」
得意げに目配せすると、エステルを確保していたボックス席へと案内した。
五番ボックス席。この劇場の最高級シートの一つだ。
「さあ、入って」
開かれた扉の向こうには、落ち着いた質の良いソファと重厚なカーテン、いくつかの食事が置かれていた。
嗅ぎ慣れない香りもする。
「良い香り。香水?」
「東洋の香だ。簡単な目くらましに使えるらしい。
今、私達の姿は、他所からは別の者に見えるんだとか。
以前屋敷に招いた商人から試しにと買い取ったものなんだが、なかなかに面白いだろう」
今夜は人目を気にする必要はないよ。
得意げに、ペトロニーユは言った。
そっとバルコニーの下を覗くと、全ての席が埋まる程の超満員。
うっすらと幻想的な照明の中、皆公演を今か今かと待ち望み、談笑している。
眩暈がしそうだ。
久しぶりに大勢の人間を観たからだろうか。
無意識に後ずさりする。
「エステル。
もうすぐ開演の時間だ。
こちらにおいで」
「ええ……」
言われるがままソファに腰かけると、ペトロニーユは膝にそっと毛布を掛けた。
みるみるうちに照明が落ちていく。
観客達は一斉に拍手し、会場は身の震えるような喝采に包まれる。
ブザーの音が鳴り始めるとともに、緞帳が上がった。
演目は『ファウスト』。ゲーテによって綴られた、一人の老人と悪魔の取引を描いた物語だ。
このオペラ座の人気演目の一つであり、ペトロニーユのお気に入りでもある。
ふふ、懐かしい。
まだ幼い頃「君の 『ジュエル・ソング』が聞きたい」とせがまれた覚えがある。
仕方なく歌ったが、自分の歌はお世辞にも上手いとは言い難かった。
粗末なジュエルソングしか聞いていなかった彼女が、最高級の歌声を最高の席で聴ける様になったと思うと感慨深い。
「私は、君のジュエル・ソングも好きだよ。
ずっと、遠い記憶の中から手を伸ばすような……そんな温かな雰囲気が」
「おべっか使っても何も出やしないわ」
ペトロニーユはそっと、エステルの肩によりかかる。
「ずっと、君と一緒に観たかった。
君の隣でオペラを観たかったんだ。
ずっと昔からの私の夢……十年経って、やっと叶った」
「気分はどうかしら」
「幸せだ。
今までの人生でも一等」
暫く、二人は寄り添うようにしてオペラを眺めた。
物語が中盤にさしかかった頃。
エステルの胸がキリキリと痛み始める。
「……っ」
手を胸に添え、僅かに屈んだ。
同時に猛烈な吐き気が襲う。
慣れない人の熱気に当てられたせいだろうか。
意識も心なしかぼんやりとしてきた。
エステルの異変に、ペトロニーユが気づいた。
「……大丈夫かい。
どこか悪いところでも」
「少し、緊張しただけよ。
休めばきっとよくなる」
「外に出て、新鮮な空気を吸おう。
立てるかい」
「ええ、でもいいの?
折角席を用意してくれたのに」
構わない。
他でもない君のためだ。
と、ペトロニーユはエステルの肩を抱え外に出た。
二人はボックス席を痕にし、劇場内をゆらゆらと歩く。
向かった先は、庭園だった。
地下への出入り口があるこの場所は、外から見えない中庭だ。
凝り性だった初代支配人の設計によって作られたここは、オペラ座の穴場的名物となっている。
普段はポツポツと観光客が訪れ、オペラ座内の逢い引き場所として恋人たちに親しまれている。
今夜は式典関係で閉鎖中のため、二人以外に誰もいない。
手を引かれるまま花の道を歩く。
丁寧に植えられた花壇や、整えられた植木はまるで絵本から飛び出してきたかのようで、エステルの童心は踊った。
たどり着いたのは、小さな広場。
小さな噴水と白いベンチのかわいらしいそこは、先代の支配人のお気に入りの場所だった。
「さあ、座って。
少し冷えるが」
「ありがとう……」
ベンチに腰かけ、ゆっくりと呼吸する。
ひんやりと冷たい風に、柔らかな花の香りがふわりと全身を包み込む。
吐き気は幾分か落ち着きはじめた。
軽やかな草木の音だけが風とともに流れていく。
「……ごめんなさい。
貴方の記念公演なのに」
「そんなこと。
君の体の方が大事に決まっている」
エステルの肩に、一回り大きなジャケットが掛けられた。
「何か、暖かい飲み物を持ってこさせようか。
少しここで待っていて」
「ええ」
子どもっぽく手を振ると、ペトロニーユは植木の道へと消えていく。
一人庭園に残されたエステルは、星空を仰ぎ、深く息を吐いた。




