2章⑦
外套を纏った女が一人、地下通路を徘徊する。
掲げていた得物は、洋灯の光を受けて、濃い鈍色に揺らめいている。
今日も数人の侵入者を捉え、然るべき対処を行った。
だが、何故か今日は胸騒ぎがする。
こういった嫌な予感は存外当たるものだとエステルは知っていた。
嫌だわ。早く見回って帰ってしまいましょう。
足早に自室への道を進むと、上流から何かが流れてくるのが見える。
靴だ。
しかもよく磨かれた上等な品物。
こそ泥が履くようなものではないと、素人目でもわかる。
「……あぁ」
眉間に小さく皺が寄る。
嫌な予感が的中した。
水路の上流へと駆けると、水路の浅瀬に一人の青年が横たわっていた。
顔はすっかり血の気が引き、呼吸も浅い。
このまま放っておいても勝手に息絶えるのは時間の問題だろう。
そっと青年の頬に手を当てる。
冷たい。まるで氷だ。
またか、とエステルは肩を落とした。
この水路は、パリ中の河川に繋がっている。
川でうっかり足を滑らせた若者が、何度か地下に流れ着いてきた事があった。
彼もまた、その類いだろう。
軽く声をかけ、意識の有無を確かめる。
返事が無いことを確認して、青年を水路から引き上げた。
限界まで水分を吸った衣服は重く、体温を奪っている。
上着を捨て、自身の外套を巻きつけた。
かろうじて、まだ呼吸はしているようだ。
だが介抱してやれるほど、エステルには余裕がない。
適当な場所まで運んで、地上に転がしておこう。
それでどうなるか、彼の運次第だ。
予想以上に冷たく重い体に、腕を回したことを僅かに後悔したその時だった。
ふと、髪に何かが触れる感覚がした。
思わず体が跳ね、視線を映す。
青年が目を開けていた。
ぼんやりと虚ろだが、真っ直ぐと此方を見据えていた。
言葉を失っていると、青紫の唇から小さく言葉が紡がれる。
「貴方は……誰だ」
今だに意識の定まらない手は、更に先に延ばされる。
爪先が髪の間を微を縫い左頬に触れた瞬間、引きつった叫びが上がる。
「……ひっ」
触れた指先が、びくりと離れる。
突然の出来事に、エステルは狼狽えた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
オペラ座の地下に入ってきた者は皆、殺さねばならない。
そう初代支配人と約束をしていた。
彼曰く地下に来るものは皆、悉くエステルの身を危険に晒すものなのだ。
と、きつく言いつけられている。
彼女自身もそれを理解していた。
だが、彼は水に流れて来ただけだ。
別の場所の水路で溺れてしまっただけなら、殺すのはいやだった。
かといって、顔を見られた今見逃すわけにはいかない。
ただの迷子を殺すほどの勇気は持ち合わせていなかった。
エステルが考え込んでいると、青年は再び呟いた。
「そうか……僕は死んだのか」
「……え、」
動揺した瞳で青年を見やる。
夢を見るような、安らかな笑みが浮かんでいた。
「そして、君は天使様か。きれいだ」
朦朧とする意識の中、彼は続けざまに言葉を紡ぐ。
「しんだ……死んだのか。
少し、寂しくはあるけれど、よかった。
ああ、よかった」
どうやら彼は、自分が死後の世界にいると錯覚しているらしい。
「ああ、美しい。やはりここは天国に違いない」
疲労しきった声はうわごとのように呟く。
そうだ、彼は自分のことを天使だと思っている。
意識が覚醒していないうちに下流の安全な場所に置いてきてしまえば良いのではないか。
エステルは安堵した。
これなら誤魔化すことができそうだ。
「……違いますか?」
「そ、そうです。迎えに来たのです」
精一杯、天使らしく胸を張る。
青年の目が少し煌めいた気がした。
このままだったらいける。
「天使様、お聞きしたいことがあります」
「は、はい、何でしょう」
「……僕は天国に行くのでしょうか、それとも地獄へ落ちるのでしょうか」
天国? 地獄?
エステルは口ごもる。知り合いならまだしも、ほんの今、出会ったばかりの人間の死後の行き先など、知るよしもなかった。




