2章⑥
暫く歩くも、景色は変わらず、ただ同じ光景が繰り返されるだけ。
最初は浮かれていたロジェの足取りも、徐々に静かになっていく。
見れば退屈そうにあくびしていた。
「なあセザール。何か見つけた?」
「幸運なことに何も」
「ははは、だよねぇ」
何も起こらない安心感のせいか、だんだんと軽口を言い合うようになってきた二人。
だが平穏もつかの間、耳につんざくような悲鳴が一つ聞こえた。
どうやら声は男性のもので、一人のものではないようだ。
少なくとも複数人はいる。
つい先ほどまで緩んでいた神経が、きりりと引き締まる。
嫌だ、助けて。
悪かった。
見逃してくれ。
その叫びは背後からこちらに向かって迫ってくる。
セザールたちの心臓はどくりと大きく鼓動し、脚はバネのように跳ね駆けだした。
その間にも叫びは続き、それはいつしか断末魔となっていく。
精神に電流が走る。びりびりと体が震えた。
逃げても逃げても、背後の絶叫は止まることはない。
「ロジェ、ロジェ! どうしよう……」
「わからない! とにかくこの場所から離れなきゃ……」
直後、目の前に分かれ道が現れる。
ロジェはセザールの腕を引いて左へと曲がった。
走り込んだ先は枝分かれした通路がいくつもあり、二人はその一つに身を隠す。
洋灯の明かりは落とされ、目の前は真っ暗になる。
「お、驚いた……」
「何だったんだ今のは」
「わからない。でも、僕たち以外に誰か居るのは確かみ、」
遠くから、ひたり、ひたりとこちらへ迫る。
思わず、口元を押さえた。
足音だと思えば、同時に何かを引きずる音も聞こえる。
それが何かと想像しただけで、全身に鳥肌が立つ。
恐怖で心臓が口から飛び出してしまいそうだった。
二人の心臓の音だけが、不自然に脳に響く。
息をひそめ、それが過ぎていくのをじっと待つ。
気配が過ぎ去ると、ふっと安堵の息を吐いた。
「……なんだ、今のは」
「きっと、オペラ座の怪人だ」
そう言ったロジェの声は、微かに震えていた。
怪人は、オペラ座の至宝を狙う者を探し出し、殺す。
先ほどの悲鳴の主達も、その至宝を探しにやってきたのだろうか。
もし自分たちが見つかっていたら?
想像したセザールは身震いする。
「……一度撤退しよう。
二人で立ち向かうのは危険だ……」
暗闇の中で、ロジェが頷くのを確認するとセザールは通路を見渡した。
少しづつ夜目が利いてきたようで、輪郭程度なら空間を把握できる。
先ほど、自分たちの横を通り過ぎた人影も見当たらない。
今しか無い、そう歩き出そうと踏み出すが、袖をロジェに引っ張られる。
「これを使おう」
彼は鞄から、一冊の本を取り出す。
美しい金と宝石に飾られた書物。
魔書だ。
彼が持ってきたと言っていた、道具の一つだろう。
「少しの間だけ、不可視の魔術が使えるんだ……お互いも見えなくなってしまうのが難点だけど、怪人に見つかるよりきっと」
「……わかった」
表紙にロジェの手がかざされた。同じようにセザールも手を添える。
軽く目を閉じ、指先に意識を集中させ、魔力を流し込む。
すると表紙がぼんやりと淡く光り、描かれていた文字が浮かび上がった。
〈Gyges〉と描かれた金の文字がふわりと一瞬現れると、ロジェが抱えていた本ごと姿を消した。
「ロジェ……?」
辺りを見渡してみると、直ぐ隣から彼の声が聞こえてきた。
「ここにいるよ。
君の姿も見えない。成功したみたいだ」
彼曰く、これは光魔術の一種を納めた魔書らしい。
光の屈折を操ることで、対象の姿を消すというものだ。
「僕の魔力がもつうちに、外へ」
透明になった二人は、隠れていた通路から身を乗り出す。
気配ひとつないことを確認すると、ほっと胸をなで下ろした。
息を潜め、元来た道を歩き出す。
なるべく足音をたてぬよう進み、先ほどの分かれ道までやってきた。
あとは真っ直ぐ進むだけ。
張り詰めていたセザールたちの空気も僅かに緩んだ、その時。
湿った石畳に脚をとられ、セザールの体が傾く。
運悪く、体を受け止めようとしているのは、冷え切った水路だった。
ロジェ……!
友に助けを求め手を伸ばすも、その存在を視認できない。
ただむなしく手は空を切るばかりだ。ロジェもまたそうだった。
「セザール!」
ロジェが声を上げたときには既に、セザールの身は流れる水の中に叩きつけられていた。
凍てつく水の中、這い上がろうと手を伸ばすも、水を吸った服が底へ底へと誘う。
「た、たすけ」
僅かに水面から出ていた口先から水が流れ込み、言葉は塞がれた。
空気の無い水の底へと引きずられたセザールの意識は徐々に、遠のいていった。




