2章④
オペラ座の地下、知らなければ見過ごすような細い路地に、古びた木製の扉が一つ佇んでいる。
この場所を知っているのはこの世でたった三人だけ。
決して大きいとはいえないその向こうには質素な部屋があった。
支配人としての仕事を終えたペトロニーユは、両手に紙袋を抱え、部屋の扉を叩く。
古びた蝶番が音を立てて動くと、中からエステルが顔を出した。
彼女は、差し出される袋を見て目を丸くする。
「まあ、どうしたのその荷物」
「君のために見繕ったドレスだ。
来週の記念公演の時に来てもらうためのね」
ペトロニーユは袋の中のドレスをテーブルに広げる。
ゆうに十数着はあるだろう。流行を取り入れた煌びやかな造りで、使われる素材はどう見ても高級なものだ。
「ドレスなんて、一着あれば十分よ」
「滅多に自分で買い物をしないからね、加減を間違えたのかもしれない。
さあ、そこに立って。
緑? 焦げ茶? 白も悪くない。
あぁ、迷ってしまうな」
手にしたドレスを代わる代わるエステルにかざしながら、ペトロニーユは鼻歌を歌う。
「どれでもいいわ、本当よ」
「君はファッションというものをわかっていない。
悩むのも楽しみのうちなんだ」
「悩むべきなのは貴方じゃ無いと思うけど」
「もう、少しは黙っていて。
うん、やはり君には黒が似合う」
エステルに手渡されたのはシルク製の黒いロングドレスだった。
他とは違う意匠の少ない簡素な形ではあるが、それがより一層、素材の良さを引き立てている。
「綺麗ね」
「これを纏った君は、もっと美しいだろう。
ねえ、来て見せてくれないか」
エステルは「わかったわ」と頷くと、鏡台の前へと向かう。
「本当、ペトロニーユは私に服を与えるのが好きね。
お人形遊びが好きだったあの時から変わらない」
「何年も昔のことだ。
あまり揶揄うのはよしてくれ」
「貴方にとっての昔は、私にとっての最近よ。
私が何百年生きていると思っているの」
「ああ、君の悪い癖だ。
そうやってすぐに年齢を盾に使う」
「だって本当のことよ。
私が貴方くらいの年齢の時なんて文字を読むどころか、言葉らしい言葉も話せなかった」
背中のボタンを閉めたエステルは、くるりと振り返る。
照明を反射する闇色のスカートがたおやかに揺れた。
「着てみたけれど……大丈夫? どこかおかしなところはないかしら」
舞うように、くるりくるりと身を翻して見せる。
「美しい。まるで黒蝶だ。
お祖父様が地下の籠に閉じ込めたがるのも無理はないよ」
「こら、ペトロニーユ」
「ははは、冗談だよ。
じゃあ最後に、此方を」
ペトロニーユは荷物の中から、平たい木箱を取り出した。
深いブラウンに金の仮面の紋章。
エステルには見覚えがある。
「これは」
丁寧に蓋が開けられると、中に入っていたのは一枚の仮面だった。
装飾を控えた無駄のない白の仮面は、丁度エステルの右の顔にぴったりに重なる。
「今使っているものは古いだろう。これを機に新調しないか。
私が最も信頼する職人に作らせたものだ。着け心地は保証するよ」
「まったく、いつの間に寸法をとったのやら」
仮面を手渡されたエステルは、今身につけている仮面を外し、すぐさま新たな仮面を顔に添える。
軽く首を回し、触感を確かめた。
「どう?」
「ひんやりとしている。心地いいし、顔にぴったりよ」
「それは良かった」
ペトロニーユが満足そうな表情を浮かべると、背後の時計が鳴った。
時刻は午前〇時を示している。
「見回りの時間だわ。
行かないと。
貴方も明日仕事なんだから早く寝ましょうね」
「はいはい。じゃあ、来週の記念公演楽しみにしているよ」
ペトロニーユはエステルの手の甲にキスをすると、部屋をあとにした。
「どこであんなものを覚えてくるんだか」
くすりと笑うと、普段着に着替え愛用の得物を手に取った。




