1章⑧
目を覚ますと、視界に見慣れた木目模様が広がっていた。
天井だ。
身じろぎをすれば、体が柔らかなベッドに包まれているのがわかる。
この場所には見覚えがある。
今まで何度か訪れた場所……そう、学校の医務室だ。
状態を起こし、霞む視界を晴らすよう辺りを見回す。
部屋の隅の机の前に、一人の男性が腰かけているのが目に入る。
「ジェルボー先生……」
「おん?」
グザヴィエ・ジェルボー。
この大学の養護教諭であり、医務室の番人。セザールにとって、ロジェと同じくらい顔を合わせる、馴染みのある人物だ。
年齢は四〇代半ばと聞いているが、老人のように真っ白な髪と林檎色の目を持つ風変わりな男だ。
勤務中だと言うのに雑誌を広げくつろいでいる。
此方に気がつくと、砂糖入りの珈琲を飲みながら軽く手を振る。
「おっ、目を覚ましたかい。待っていな、水を持ってくるからよ」
ジェルボーは準備室から取り出した水差しとコップを、セザールの枕元に置く。
「気分はどうだ」
「……あまり、よくありません」
「ははは、だろうね。
知っている」
大口を開けてケラケラと笑う。
見た目も言動も、どこか大雑把な男だ。
何も知らない者が彼を養護教諭だと見破ることは、難しいだろう。
「ありがとうございます、何度も何度も」
「別に構わないさ、それで給料をもらっているんだ。
そんなことより、友人くんに礼を言った方がいいよ。
一人で意識のない君を担いできたんだ」
あの瓶底眼鏡の彼。
そう言いながら、両目の前で丸を作って見せた。
ロジェの事だろう。
医務室長は鼻歌交じりに追加の珈琲を淹れ始める。
今度菓子などを差し入れしたら喜ぶだろうか、とセザールは考えた。
「なあ、ラファイエット。
いい加減自分に枷を科すのは懲りたらどうだ」
ふとした冷静な声に、セザールは俯いた。
「装幀師にとっちゃ、素体解体は避けられない手段だ。
失神するほど苦手なら、少し立ち止まってみるのも悪くないんじゃないか。
装幀師だけが生きる道じゃない。
ほら、俺を見ろ」
カップに角砂糖を落としながら、にっと笑った。その言葉にセザールは顔を暗くした。
「そんな顔するなよ。別に装幀の道を諦めろって事じゃあない。
少し遠回りや寄り道をするのも悪くないってことだ。
ほら、べそかくな。食べるか」
ずい、と差し出されたのは、皿一杯に盛り付けられたビスキュイだった。
ベリーやナッツをふんだんに練り込んだ特製だ。
「……いただきます」
セザールは皿を受け取り、ビスキュイの端を小さく囓る。
口に広がる食べ慣れた甘い砂糖に、思わず目頭が熱くなった。
「……」
「泣くほど旨い。いいぞ、好きなだけ食べな」
ジェルボーは水差しの横にセザールの珈琲を置くと、自身もカップに口をつけながら窓の外を眺めた。
小さなボウルに入った小さなクッキーは徐々に数を減らしていく。
太陽は既に西へ傾き、空は僅かに橙色に染まり始めていた。
「辛いことがあればいつでも話は聞くぞ。
ただし、勤務時間までだがな」
冗談交じりにジェルボーは言った。
ありがとうございます、とセザールは礼をすると、ベッドから降りる。
「もう行くのか」
「はい。遅くなるといけないので……」
「そうか、じゃあな」
手袋を着けた手を軽く手げると、背中を向けセザールを見送った。
人気のない夕暮れの廊下を歩く。
今日開講されるほとんどの授業は終わったようだ。
中庭では帰宅する生徒達が校門に向かって歩いて居るのが見える。
近くのカフェテリアで温かい飲み物を買い、その様子をじっと見下ろした。
すると廊下の端からなにやら騒がしい声が聞こえる。
ふと見ると向こうから小走りで駆けてくる人影を見つけた。
手を大きく振りながら此方に一直線にやってくる。
目をこらすと、それがロジェだとわかった。
「セザール! 体調はもう大丈夫?……まだ顔色は良くないみたいだけど」
もう少し休んでおけば?と言われるも、セザールは首を横に振る。
「長居していたら学校にも迷惑だろうって思って。
それに、今日は父さんが帰ってくる日だから早く家に帰らなきゃ」
そうかぁ、とほんのり太い眉を八の字に下げると一緒に外を眺め始めた。
「ねぇ、そんなにお父さんが嫌なの?」
「えっ、」
セザールは俯いていた顔を上げ、背筋をピンと伸ばす。
「だって、君が体調を崩す時。
大抵解剖の日かお父さんが帰ってくる日だろう」
指を折りながら、今まで医務室に入った日を思い出していく。
彼の言うとおりだった。
「……別に、嫌いって訳ではないよ。
ただ、少し苦手なだけだ」
「それって、苦手になる理由があるってことだよね。
うん、まぁ、確かに厳しい人だけど、君がそうなる接し方をしているのも問題だと思うよ。
君が僕のパパの息子だったら、でろんでろんに甘やかすに決まってる」
主席で、礼儀正しくて、あと顔つきだって端正だよ。
ロジェはセザールの長所と思われる点を、ぽつぽつと上げていく。
聞いている方はたまったものではなく、顔を真っ赤にし、話にかぶせるように口を開いた。
「買いかぶりすぎだよ。所詮、座学と装幀知識だけの話さ。
今に解体の成績が入れば、僕は半分以下の順位に転がり落ちるだろう。
解体のできない装幀師だなんて、装幀師とは呼ばれないよ」
そうかなぁ、と明るい色の髪が揺れる。




