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第九話 賢者の卵と過ぎし日の食卓


 薄墨色のローブを翻し、ドリアン・アークライトは古びた街道を静かに歩いていた。

 かつて王国にその名を轟かせた宮廷魔術師も、今や隠遁生活を送る一介の旅人に過ぎない。


 だが、その瞳に宿る知的な輝きは健在で、常に周囲の「マナ」の流れを読み取っている。

 彼の目的は、かつての魔法の研究の延長線上にある、新たな探求だった。


 それは、あらゆる生命の根源である「食」の奥深さを知ること。

 特に、純粋で生命力に満ちた、そして人々の営みが息づく料理の探求こそが、彼の心を捉えて離さない。


 数日前から続く旅路は、彼を王都から遠く離れた辺境の森へと誘っていた。

 この森の奥には、忘れ去られた小さな村があると聞く。


 そして、その村には、古くからの言い伝えでしか聞かれない、特別な卵を産む鳥が生息しているというのだ。


 「…このマナの揺らぎ、やはり間違いない」


 ドリアンは立ち止まり、右手の人差し指をそっと立てた。指先には微かな光が宿り、森の空気が僅かに震える。


 微弱ながらも、そこには生物が生きる活気が満ちていた。


 人里の近くにしか感じられない、生命の息吹。彼の古びた書物には、魔法陣の他に、奇妙な薬草や食材の図鑑が描き加えられていたが、その中に「賢者の卵」に関する記述はなかった。


 だからこそ、この新しい発見への期待は高まる。


 森を抜けると、木々の間に慎ましく佇む数軒の家々が見えてきた。煙突からは細い煙が立ち上り、微かに薪の燃える匂いがする。

 人影はまばらで、まさに外界から隔絶された「忘れられた村」といった風情だ。


 ドリアンは村の中心にある、最も古いと思しき木造の家に近づいた。

 戸口には「旅人宿」とだけ書かれた簡素な看板が掲げられている。


 「ごめんください」


 声をかけると、がらがらと音を立てて扉が開き、中から恰幅のいい初老の女性が顔を出した。


 しわくちゃの顔には朴訥な笑みが浮かんでいる。


 「あら、旅の方かい? こんな辺鄙なところに珍しいねえ。どうぞ、お入りなされ」


 女性に招かれ、ドリアンは宿の中へと足を踏み入れた。土間には使い込まれた大きな囲炉裏があり、その上には鉄鍋がかけられ、ぶつぶつと音を立てていた。


 香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。


 「旅の者かい? 食事をしていかないかね?」


 女性が囲炉裏の傍に座るよう促す。ドリアンはそれに従い、静かに腰を下ろした。


 「ええ、できれば。…もし差し支えなければ、この村の特産品についてお伺いしても?」


 ドリアンは慎重に言葉を選んだ。直接「賢者の卵」と尋ねるのは、相手を警戒させてしまうかもしれない。


 女性はにこやかに頷いた。


 「特産品ねえ…そうさね、これといって特別なものはないけれど、うちの裏庭で飼ってる鶏がね、ちょっと変わった卵を産むんだよ。形も色も普通なんだけど、どういうわけか、食べると不思議と心が落ち着くんだ」


 やはり、噂は真実だった。ドリアンの視線が僅かに輝く。


 「それは興味深い。その卵を使った料理をいただくことはできますか?」


 「もちろんさね! ちょうど今、夜の分を準備してたところだよ。卵は数に限りがあるから、普段は村の者しか口にしないんだけど、旅の方なら特別さ」


 女性はそう言うと、囲炉裏の横から丁寧に包まれた籠を取り出した。中には、ごく普通の鶏卵が三つ、しかし周囲のマナの濃度が明らかに高い。


 これこそが「賢者の卵」なのだろう。

 やがて、湯気を立てる皿がドリアンの前に置かれた。シンプルな卵粥だ。


 しかし、その見た目とは裏腹に、卵特有の芳醇な香りが食欲をそそる。

 彩りとして添えられたのは、村の裏手で採れたであろう、みずみずしい緑色の野草。


 ドリアンは一口、ゆっくりと口に運んだ。


 「これは…!」


 熱い粥が舌に触れると、卵の黄身の濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。

 しかし、それはただの旨味ではない。


 舌の上で溶け合うと同時に、彼の身体の奥底から何かが、温かく、そして優しく、呼び覚まされるような感覚に襲われた。

 まるで、遠い記憶の扉が開かれたかのように。


 「ああ…この感覚…」


 彼は目を閉じ、意識を集中させた。口の中に広がる卵の風味は、かつて宮廷で食した豪華絢爛な料理とは全く異なる、素朴で、しかし力強い「生命力」を宿していた。


 それは、単なる栄養補給ではなく、身体の隅々まで染み渡るような、清らかなエネルギーだった。

 幼い頃、彼は森の奥深くにある師の庵で魔法を学んだ。


 その頃、師が作ってくれた、ごく簡単な、しかし心温まる食事の記憶が蘇る。

 薪の燃える音、鳥のさえずり、そして卵の優しい甘み…。


 あの頃の純粋な探求心と、温かい師の眼差し。複雑な魔法陣を解読することに没頭し、味など二の次だったはずなのに、なぜこれほど鮮明に思い出されるのだろうか。


 「いかがだい、旅の方?」


 女性の問いに、ドリアンははっと目を開いた。


 「ええ、大変…素晴らしい。これほどの生命力を宿した卵は、他に知りません」


 女性は嬉しそうに目を細めた。


 「そうだろう? うちの鶏はね、この村の聖なる泉の水を飲んで育ってるんだ。だから、卵にも特別な力が宿るって、昔から言われてるんだよ」


 聖なる泉――。ドリアンは密かに納得した。確かに、この村を取り巻くマナは澄んでいて、活気に満ちている。

 自然の恵みが、この卵に特別な力を与えているのだ。


 粥をゆっくりと味わいながら、ドリアンは思考を巡らせた。

 彼はこれまで、魔法のエネルギーを効率的に吸収する方法や、特定の効果を持つ薬草の組み合わせには長けていたが、「食」そのものが持つ潜在的な力については、深く考えることはなかった。


 宮廷魔術師として多忙を極めていた頃は、食事も形式的なものに過ぎなかった。

 しかし、この卵粥は、彼に新たな視点を与えてくれた。


 「この卵は…心身のバランスを整え、失われた活力を取り戻す効能があるようです」


 ドリアンが分析的な口調で言うと、女性は目を丸くした。


 「おや、旅の方は変わったことを言うね。でも、確かに、病気知らずの者が多いのは、この卵のおかげだって、村の者も言ってるよ」


 ドリアンは微笑んだ。魔法と科学の知識は、こうした素朴な知恵と結びつくことで、真の叡智となる。


 


 翌朝、ドリアンは村を出る前に、女性に丁寧な礼を述べた。


 「ありがとうございました。この卵粥は、私に多くの気づきを与えてくれました」


 「お安い御用さね。またいつでもおいで」


 女性は温かい笑顔で見送ってくれた。


 ドリアンは再び森の道を歩き始めた。彼の携える古びた書物には、新たなページが加わっていた。

 「賢者の卵」と題されたそのページには、卵の構造図や、彼が感じ取ったマナの特性、そして心身への影響が詳細に記されている。


 そして、その記述の隅には、小さな追記があった。


 『この卵の真の価値は、その「生命力」にある。そして、その生命力は、作り手の心と、食する者の記憶を呼び覚ます。食とは、単なる栄養ではなく、過去と現在、そして未来を繋ぐ、記憶と感情の集積である。』


 ドリアンは旅を続ける。彼の「辺境美食探訪記」は始まったばかりだ。

 次に彼が発見する「食」は、一体どのような物語を彼にもたらすのだろうか。




 そして、彼はその物語を通じて、何を学び、何を見出すのだろうか。彼の探求は、まだ見ぬ未知の味覚へと続いていく。


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