第八話 砂漠に咲く塩花のスープ
夕焼けが地平線を赤く染め上げ、乾いた風が肌を撫でる。
ジラは、相棒の賢いラマ、キャラバンを従え、古びた地図を広げていた。
日の光を吸い込んだような豊かな色のローブが、風にはためく。長い旅路の果てにたどり着いたのは、地図にもほとんど記されていない小さな集落、「塩の谷」だ。
「ここか……ずいぶん寂しい場所ね」
ジラは独りごちた。集落は粗末な日干しレンガの家々が数軒立ち並ぶのみで、人影もまばらだ。
スパイスを求めて世界の果てまで旅をする彼女だが、こんなに何もない場所は初めてかもしれない。
キャラバンが小さく鳴き、ジラを見上げた。
「大丈夫よ、キャラバン。ここには、特別な『塩花』があるはずだから」
彼女の指先には、小さな天秤がぶら下がっていた。そして、腰のポーチには、色とりどりの香辛料が詰まった小袋がチャリンと音を立てる。
今日の目的は、この谷でしか採れないという幻の香辛料、「塩花」を手に入れることだ。
同時に、この地の食文化に触れることも忘れてはならない。
集落の入り口に、少し開けた場所があり、そこに粗末な酒場兼宿屋らしき建物が見えた。
ジラはキャラバンを近くの岩陰に繋ぎ、身軽になってその扉をくぐった。
「ごめんください」
扉を開けると、土と汗、そして微かな獣の匂いが混じった空気が鼻腔をくすぐる。
薄暗い店内には、くたびれた男が一人、カウンターでぼんやりと座っていた。客は他にいない。
男は顔を上げ、じろりとジラを見た。深い皺が刻まれた顔は、この地の過酷さを物語っている。
「旅の者か?こんな場所によく来たな」
ぶっきらぼうな口調だが、どこか警戒の色が見て取れる。
ジラは柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。ジラと申します。旅の途中で立ち寄った者ですが、この地の珍しい品に興味がありまして」
「珍しい品?ここには何もないぞ」
男は吐き捨てるように言った。ジラはテーブルの一つに腰を下ろし、小さな銀貨をカウンターに置いた。
「お食事はできますか?何か、この地ならではのものがいただけると嬉しいのですが」
男は銀貨を一瞥し、眉をひそめた。
「食事か……あるにはあるが、期待するな。スープと、硬いパンだけだ」
「構いません。ぜひ、そのスープを」
男は不承不承といった様子で奥の厨房へと消えていった。ジラは、テーブルに置かれた使い込まれた木製の皿と、ひびの入ったコップを眺める。
視線を店内に巡らせると、壁には色褪せたタペストリーがかけられ、その上には干からびた香草がぶら下がっていた。
土埃が積もり、活気がない。
しばらくして、男が湯気を立てる素朴なスープと、黒っぽいパンを運んできた。
スープは濁った灰色で、具材はほとんど見えない。微かに焦げたような匂いがする。
「どうぞ」
男は無表情に告げ、再びカウンターに座った。ジラはまず、香りを確認するように深く息を吸い込んだ。
土っぽさの中に、かすかに青臭さと、そして……。
「これは……」
彼女はそっとスプーンでスープをすくった。
表面には白い結晶がいくつも浮かんでいる。ジラはそれを掬い上げ、指で軽く潰した。
「塩花……!」
それは、まさに探し求めていた「塩花」だった。この谷の奥深くにある岩塩層から、限られた時期にしか採れないという、幻の塩。
繊細な結晶が、まるで雪のように美しかった。
ジラはゆっくりとスープを口に運んだ。最初の印象は、ひどく塩辛い。
そして、何の変哲もない乾燥肉と、硬い穀物が底に沈んでいるだけだ。
だが、その塩味の奥に、彼女は確かに感じ取った。この塩花が持つ、独特の甘みと、複雑なミネラルの風味を。
それは単なる塩ではなく、この地の土壌と水、そして風が凝縮された、まさに「地の味」だった。
「このスープ、とても独特ですね。この塩花が使われているのですか?」
ジラが尋ねると、カウンターの男がかすかに反応した。
「ああ。これしかねえからな。昔から、この谷の者はこの塩花で食いつないできた」
「なるほど……」
ジラは目を閉じ、再びスープを味わう。
塩花の風味が、荒削りながらも確かな存在感を放っている。
彼女は懐から、小さな瓶を取り出した。中には、彼女が厳選した、ごく少量の「旅のスパイス」が入っている。
ほんのひと振りが、料理の可能性を無限に広げるのだ。
瓶の蓋を開け、スープに一振り。淡いオレンジ色の粉末が、湯気に溶けるように消えていく。再びスプーンをとり、口に運んだ。
さっきまで感じていた塩辛さが、不思議とまろやかになった。
そして、塩花の持つ甘みが引き立てられ、奥に隠れていた穀物の素朴な風味も顔を出す。
さらに、今まで気づかなかった乾燥肉の燻製香が、スパイスと相まって、深みのある香ばしさに変わっていた。
まるで、モノクロだった風景に色がつき、単調だった音が豊かなハーモニーを奏で始めたかのようだ。
「これは……!」
男は、ジラの表情の変化に気づき、訝しげな顔でこちらを見ていた。
ジラは思わず顔を上げ、彼に尋ねた。
「もし差し支えなければ、もう一杯いただけますか?そして、少しだけ、この塩花を分けていただけませんか?もし可能なら、その採掘場所についても……」
男は驚いたような顔でジラを見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
「……お前、ただの旅人じゃないな」
「ええ。私は、風味を商う者です。そして、何よりも珍しい風味を愛する者。この塩花は、まさに私が探し求めていたものの一つです」
ジラはそう言って、改めて微笑んだ。男はカウンターに肘をつき、じっとジラを見つめる。
「そんなに美味いか、このスープが。昔はもっと、美味いって言ってくれる客もいたんだがな……」
男の目には、遠い過去への郷愁のようなものが浮かんでいた。
ジラは頷いた。
「ええ、とても。この塩花は、もっと多くの人に知られるべき風味だと思います。この地の歴史と、人々の生き様が詰まっている」
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「わかった。塩花も分けてやる。採掘場所も教えてやる。だが……」
彼は奥の厨房の方を一瞥し、そしてジラに言った。
「その前に、もう一杯スープを飲んでくれ。お前が何か入れたせいか、やけに美味そうに見えてきた」
ジラはにっこりと笑った。
「喜んで。ですが、その前に、私の『旅のスパイス』を少し、差し上げましょう。きっと、このスープをさらに豊かなものにしてくれるはずです」
彼女はポーチから小袋をいくつか取り出し、カウンターに置いた。
男は訝しげにそれらを手に取り、指で軽く触れて匂いを嗅いだ。
今まで嗅いだことのない、複雑だが魅力的な香りがした。
「これは……」
「ええ。風味は旅をします。そして、新たな場所で、新たな物語を紡ぐのです」
男は無言で小袋を握りしめ、再び厨房へと向かっていった。
今度は、彼の背中から、かすかに活気のようなものが感じられた。
ジラは、空になったスープ皿を見つめ、満足げに目を細める。
やがて、男が戻ってきた。二杯目のスープは、やはり同じ材料で作られているはずなのに、どこか違って見えた。
男の表情も、最初のぶっきらぼうなそれとは異なり、どこか期待に満ちている。
ジラはまた、一口目を味わう。やはり、塩花の持つ深みが引き出され、乾燥肉と穀物が持つ素朴な滋味が、驚くほど豊かになっていた。
男が、先ほどジラが渡したスパイスをほんの少しだけ入れたのがわかる。
それは、ほんのわずかな変化だったが、この谷の男にとって、それは大きな一歩に違いなかった。
「どうだ……?」
男が、やや緊張した面持ちで尋ねた。
ジラはゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「ええ、素晴らしい。この塩花は、まさにこの谷の宝ですね。そして、あなたのスープは、その宝を最大限に引き出しています。この一杯には、この地の歴史と、あなたの心がこもっている」
ジラの言葉に、男の顔に微かな、だが確かな安堵の表情が浮かんだ。
彼は静かにカウンターの奥に回り込み、古びた帳簿を広げた。
「塩花の採掘場所は、この谷の奥にある。ただし、時期を選ぶ。そして、いくつか危険な場所もある」
男は地図を広げ、指で場所を示した。そして、塩花の採掘方法や、この地の言い伝えについて、訥々と語り始めた。
ジラは、彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで耳を傾けた。
「ありがとう。この旅は、まだ始まったばかりだわ」
ジラはそう言って、再びスープを一口すすった。砂漠の夕闇に包まれ始めた集落で、ジラは確信していた。
この塩花は、きっと多くの人々の食卓に、新たな風味をもたらすだろう。
そして、その旅路の先に、まだ見ぬどんな「食の物語」が待っているのか、彼女の胸は期待で膨らんでいた。