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第六話 古き街道の燻製豚と黒パン


 降りしきる雨が、サー・カエラン・ストーンハンドの使い込まれた革製の鎧を濡らしていた。

 道は泥濘み、馬の蹄が立てる水音が、辺りの静寂を破る。


 カエランは、かつて数え切れないほどの戦場を駆け抜け、宮廷の宴で豪華な料理を味わってきた。

 だが、今は違う。彼はただの旅人、庶民の素朴な料理にこそ真の喜びを見出す、引退した騎士だ。


 短い、ざらざらした髭の間に、雨粒が伝い落ちる。


 「まったく、厄介な天気だな」


 カエランは独りごちた。ぶっきらぼうな口調だが、その表情には、長年の旅で培われた諦観と、わずかな疲労が浮かんでいた。

 腰に吊るしたロングソードは飾り気がないが、手入れは行き届いている。


 身を守るため、それだけのために彼は剣を携えていた。


 古き街道は、かつては賑わった貿易路だったというが、今では人影もまばらだ。

 両脇には鬱蒼とした森が広がり、雨に濡れた木々の葉が、風に揺れてささやかな音を立てる。


 カエランの胃袋が、正直な音を立てて空腹を訴えた。


 「そろそろ、宿場が見えてもいい頃だが……」


 彼の脳裏には、温かいシチューや、香ばしいロースト肉が思い浮かぶ。

 宮廷の凝ったソースや、見た目だけの飾りつけにはもう興味がない。


 彼が求めるのは、長い一日の旅の後に、静かに楽しめる、よく調理されたボリュームのある食事だ。

 どのくらい馬を進ませた頃だろうか。森の切れ間から、微かに光が漏れているのが見えた。


 そして、雨に混じって、かすかに漂ってくる香ばしい匂い。

 それは、肉が焼ける匂いと、燻製の深い香り、そして焼きたてのパンの甘い匂いが混じり合った、郷愁を誘うような芳香だった。


 「お、これは……」


 カエランの顔に、わずかな期待の色が浮かんだ。彼は馬を急がせ、やがて視界が開けた先に、粗末ながらも暖かそうな一軒の宿場が見えた。


 看板には、素朴な絵で豚の丸焼きが描かれ、「燻製亭」とだけ書かれている。

 宿場の戸を開けると、温かい空気がカエランを包み込んだ。


 店内は薄暗く、中央の暖炉で薪がパチパチと音を立てて燃えている。

 数人の旅人が、黙々と食事をしている。誰も彼に目を向ける者はいない。


 カエランは、こういった何の気兼ねもない雰囲気を好んだ。

 カウンターの向こうには、恰幅の良い宿の主人が立っていた。彼のエプロンには、肉の脂と煙の匂いが染み込んでいる。


 「いらっしゃい。雨の中、大変だったな。何か温かいものでもどうだ?」


 「ああ。一番、腹にたまるものを頼む」


 カエランは簡潔に答えた。彼の視線は、暖炉のそばに吊るされた、見事な燻製豚の塊に釘付けになっていた。


 「それなら、今日の特製、燻製豚の厚切りと黒パンはどうだ? うちの地下室でじっくりと燻したもんだ。それに、この黒パンは、うちのかみさんが毎日焼いている」


 主人の言葉に、カエランの口元がわずかに緩んだ。まさに、彼が求めていたものだ。


 「それを頼む。それと、地元のエールを」


 「かしこまり!」


 主人は快活に答え、すぐに調理に取り掛かった。暖炉の熾火から大きな燻製豚の塊を下ろし、豪快に厚切りにする。

 肉の表面は香ばしく、内側はしっとりとしているのが、カエランには見て取れた。


 切り分けられた肉は、素朴な木皿に盛り付けられ、隣には熱々の湯気を立てる分厚い黒パンが添えられた。

 黄金色に輝くエールが満たされた木のジョッキも、同時に運ばれてきた。


 「さあ、どうぞ!」


 カエランは、宿の片隅にあるテーブルに腰を下ろした。テーブルは少し年季が入っているが、綺麗に拭かれている。

 目の前の料理から立ち上る湯気が、疲れた体にじんわりと染み渡るようだ。


 まずはエールを一口。琥珀色の液体が喉を通り過ぎる。苦味と甘みが絶妙なバランスで、長旅の疲れを癒してくれるかのようだ。

 そして、いよいよメインの燻製豚だ。


 ナイフを肉に差し込むと、スッと抵抗なく入っていく。一切れを口に運んだ。


 「……!」


 最初に感じたのは、深く、複雑な燻製の香りだ。それは、ただ煙たいだけでなく、肉の旨味が凝縮されたような、芳醇な香りだった。

 噛むと、肉汁がじゅわっと口の中に広がる。脂身はとろけるように甘く、赤身は噛みごたえがありながらも柔らかい。


 塩加減も完璧で、肉本来の味が最大限に引き出されていた。長年の経験が、この肉を最高の状態に仕上げたのだろう。


 「これは、美味い……」


 カエランは思わず呟いた。彼は普段、食事中に多くを語らない。

 だが、この燻製豚は、彼に言葉を発させるほどの感動を与えた。


 次に、黒パンを一切れちぎり、肉汁に浸して食べる。黒パンは、どっしりとした重みがあり、素朴な小麦の香りがする。

 肉汁を吸い込んだパンは、口の中でとろけるような食感となり、肉の旨味とパンの香ばしさが混じり合い、至福の味わいを生み出した。


 カエランは、ゆっくりと、そして大切に、肉とパンを食べ進めた。

 かつて宮廷で味わった豪奢な料理は、どれもこれも味が濃すぎたり、装飾に凝りすぎたりして、彼の心を真に満たすことはなかった。


 だが、今目の前にあるこの素朴な燻製豚と黒パンは、彼の心を温め、旅で疲弊した体に力を与えてくれる。


 「これこそが、本当の食事だ」


 彼はそう確信した。飾らない、正直な料理。地元の食材を使い、時間をかけて丁寧に作られた料理。

 それこそが、彼が探し求めていた「味」だった。


 皿が空になり、ジョッキのエールも飲み干した。カエランは満足げに息をついた。

 彼の顔には、疲労の中に、確かな満ち足りた表情が浮かんでいた。


 宿の主人に代金を支払い、カエランは立ち上がった。


 「美味かった。ごちそうさま」


 彼は短い言葉で感謝を伝えた。主人はにこやかに頷いた。


 「また寄ってくれよな!」


 宿を出ると、雨はいつの間にか止んでいた。空には、薄雲の合間から満月が顔を覗かせている。

 カエランは、再び馬にまたがった。古き街道の燻製豚と黒パン。


 それは、彼の「辺境美食探訪記」に、また一つ忘れられない思い出として刻み込まれた。


 「さて、次の街では、どんな味に出会えるかな」


 


 カエランはそう独りごち、夜の道を静かに進んでいった。彼の旅は、まだ続く。


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