第五十九話 吟遊詩人と、幻惑の香草ポトフ
リラ・メロディアンは、今日も美しいリュートの音色に乗せて、この土地に伝わる物語を歌っていた。
ここは、豊かな森に囲まれた小さな村。
しかし、どこか活気に欠け、人々の顔には、みな疲れと諦めが滲んでいる。
「……みなさん、疲れていらっしゃるようですね。何か、悩みでもあるのですか?」
リラが歌い終わった後、村の長らしき老人に尋ねると、老人は寂しそうに首を振った。
「悩みというほどのものでもないがね……。どうにも、食欲が湧かなくてな。森の恵みは豊富にあるのだが、何を食べても、味気ないのじゃ」
「ほう、それは不思議な話ですね」
リラは、そう言いながら、リュートを肩にかけ、村の中を歩き始めた。
彼女は、その土地の「味覚の物語」を求めて旅をする吟遊詩人だ。
しかし、この村からは、物語の欠片すら感じられない。
そんな中、彼女の鼻が、微かに、しかし確かに、甘く、そしてどこか懐かしい香りを捉えた。
それは、かつて彼女が遠い異国の地で出会った、謎めいた商人、ジラから教わった、幻の香草の匂いに似ていた。
「この匂いは……! まさか、こんなところに……」
リラは、その香りの元を辿って、村の奥にある、一軒の古びた小屋へとたどり着いた。
小屋の中からは、さらに強く、魅力的な香りが漂ってくる。
戸を叩くと、中から出てきたのは、意外にも、顔にベールを纏った、謎めいた女商人、ジラその人だった。
「あら、リラ。こんなところで会うとは、奇遇ね」
「ジラ! あなたこそ、こんなところで何を? この匂いは、まさか……」
「ええ、そうよ。この村の近くで、面白い香草を見つけてね。それを試しているところ」
ジラは、そう言うと、リラを小屋の中へと招き入れた。
小屋の中央には、大きな鍋が吊るされており、中では、色とりどりの野菜と肉が、ぐつぐつと煮込まれていた。
そこから立ち上る湯気は、まるで虹のように、様々な色を帯びている。
「これは、ポトフですか?」
「ええ。ただのポトフではないわ。この村の森に自生している、『幻惑の香草』を使ったものよ」
ジラは、そう言って、リラに小さなスプーンを差し出した。
「さあ、味見してみて。ただし、一口で十分よ。この香草は、食べた者の心の中にある、一番の思い出を、味として蘇らせる力があるから」
リラは、好奇心を抑えきれず、スプーンで一口すくって、そっと口に含んだ。
熱いスープが、舌の上を滑っていく。
一口目は、普通のポトフと変わらない、優しい野菜の甘みと、肉の旨味が広がる。
しかし、次の瞬間、彼女の脳裏に、鮮やかな光景が蘇った。
それは、彼女が初めてリュートを手にし、初めて人々の前で歌った、故郷の村の祭りの夜だった。
口の中に広がるのは、故郷の村で食べた、温かいシチューの味。
そして、人々が彼女の歌に耳を傾け、楽しそうに笑っている、あの時の、胸の高鳴り。
「これは……! 故郷の味……!」
リラは、思わず目から涙をこぼした。
ジラは、そんなリラの様子を、静かに見守っていた。
「この香草は、人の心に作用する。この村の人々は、食欲を失っていたのではなく、何かを忘れてしまっていたのよ。生きる喜びを」
「そうか……!」
リラは、ハッと顔を上げた。この村の人々は、おそらく長い間、同じ単調な生活を送り、心の奥底にある、幸せな思い出を忘れてしまっていたのだ。
だからこそ、どんなに美味しいものを食べても、心が満たされず、味気なく感じていたのだ。
「このポトフを、村の人たちに振る舞いましょう!」
リラは、そう言うと、小屋を飛び出した。
村の広場に、大きな鍋が運ばれ、リラとジラは、村人たちにポトフを振る舞った。
「さあ、どうぞ。熱いうちに、召し上がれ!」
村人たちは、半信半疑の顔で、ポトフを一口食べた。
すると、彼らの表情は、一瞬で変わった。
「……これは……! 昔、初めて妻と食べた、甘いキノコのスープの味じゃ……!」
「ああ、これは、子供の頃に、母が作ってくれた、あの温かいパンの味だ……!」
村人たちは、次々に、忘れていた幸せな思い出を、ポトフの味と共に思い出した。
そして、彼らの顔には、いつの間にか、笑顔が戻っていた。
リラは、その光景を、リュートの音色に乗せて、歌にした。
『幻惑の香草ポトフは、忘れかけた物語を、そっと心に呼び戻す……』
彼女の歌声は、村の空気を温め、人々の心を満たしていった。
その日の夜、村は久しぶりに、活気に満ちた宴で賑わった。
ジラは、そんな村の様子を、満足そうに眺めていた。
「これで、また一つ、この世界の味の物語が、リラの歌に残されたわね」
彼女は、そう呟くと、リラに別れを告げ、再び次の旅へと出発していった。
リラは、ジラが見つけてくれた、この村の味の物語を、これからも歌い継いでいく。
そして、彼女の美食探訪の旅は、単なる味の探求から、人々の心に寄り添い、失われた物語を呼び覚ます、そんな旅へと、より深く、意味のあるものへと変わっていったのだった。




