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第五話 忘れられた泉の歌声と林檎酒


 北の山脈を背にした、風の吹き抜ける街道を、リラ・メロディアンは軽やかに進んでいた。彼女の背にはリュート、腰には使い込まれた革の筆記用具入れ。


 旅装は明るい緑色のチュニックに、鮮やかな黄色のスカーフを巻いている。

 今日は朝から、どこか懐かしい、甘く酸っぱい香りが風に乗って運ばれてくるような気がしてならなかった。


 その香りの源を探すうちに、彼女はいつの間にか、地図にも載っていないような小さな村の     

 入り口に立っていた。


 村は古びた木造の家々が寄り集まっており、人影もまばらだ。

 街道から少し外れた場所にあるためか、旅人は滅多に立ち寄らないのだろう。


 しかし、リラの直感は囁いていた。ここには、何か特別な「味の物語」が隠されている、と。


 「ごめんくださいませ!」


 村で唯一、少しだけ賑わいを見せている、手作りの看板が掲げられた小さな酒場へと足を踏み入れた。

 中は薄暗く、薪の燃える匂いと、微かに土っぽい香りが混じり合う。


 老齢の男が一人、カウンターの奥で木製のジョッキを磨いていた。


 「……旅人かい? ここには何もないぞ」


 男の声はぶっきらぼうだったが、その目はどこか寂しげだ。


 「ええ、吟遊詩人でございます。この村のそばを通った時、とても良い香りがしまして。もしよろしければ、何かお勧めの飲み物や食べ物などございますか? できれば、この土地ならではの、素朴なものが知りたいのですが」


 リラはにこやかに問いかけた。彼女の言葉に、男は警戒心を解かないまま、じっと彼女を見つめている。


 「……ここにはな、昔は名物があったんだ。だが、もう誰も作っちゃいない。わざわざ遠くから来るようなものは、何もな」


 男はそう言うと、手元のジョッキ磨きに戻ってしまった。しかし、リラは諦めなかった。

 彼の言葉の端々に、何かを隠しているような響きを感じたからだ。


 「名物、ですか? もしよろしければ、そのお話だけでも聞かせていただけませんか? 私、各地の物語を歌にするのが得意なんです。もしかしたら、その名物を巡る歌も作れるかもしれません」


 リラはリュートを手に取り、優しい音色を奏で始めた。

 彼女の澄んだ歌声が酒場に響き渡ると、男の表情に変化が現れた。


 遠い昔を懐かしむような、そんな眼差しだった。


 「……そうか。ならば、話してやろう。昔、この村には『歌声の泉』と呼ばれる泉があってな。その泉のそばに生える林檎と、泉の水を使い、特別な林檎酒が造られていたんだ」


 男は語り始めた。その林檎酒は、飲むと遠い記憶が蘇り、心が温かくなるような不思議な力があったという。

 しかし、数十年前に泉が枯れてしまい、それ以来、林檎酒も作られなくなってしまったそうだ。


 「歌声の泉……なんて素敵な響きでしょう! その泉は、今も残っているのですか?」


 リラの目が輝いた。物語が、今、味覚の物語へと繋がろうとしているのを感じたのだ。

 男はためらいがちに、酒場の裏手にある小道と、その先の森を指差した。


 「……行っても無駄だぞ。もう水は湧いていない。だが……一つだけ、奇妙なことがある。ここ数年、泉のそばに、再び林檎が実るようになったんだ。ただの林檎じゃない。昔と同じ、特別な林檎がな」


 リラは迷わず、男に教えられた小道を進んだ。森の奥深くへと分け入ると、苔むした岩肌に囲まれた、小さな窪地が見えてきた。

 そこが「歌声の泉」の跡地だった。確かに、水は涸れ、乾いた窪地だけが残っている。


 しかし、その窪地の周りには、たわわに実をつけた林檎の木が数本、昔と変わらずに立っていた。

 林檎は小ぶりだが、つやつやと赤く輝き、どこか懐かしい甘い香りを放っている。


 リラは試しに一つ、林檎をもぎ取り、かぶりついた。シャリ、と心地よい音がする。


 「……!」


 口の中に広がるのは、想像以上の甘みと、驚くほど複雑な酸味。そして、後味にわずかに残る、清涼感のある苦味。

 それは、単なる林檎の味ではない。まるで、この土地の歴史や、枯れた泉の記憶が凝縮されているかのようだ。


 その時、彼女のリュートが微かに音を立てた。まるで、林檎が持つ「歌声」に共鳴するかのように。


 「これは、間違いなく、あの特別な林檎だわ……!」


 リラは興奮して、林檎をいくつかリュートケースの空いたスペースに詰めた。そして、再び酒場へと戻った。


 酒場に戻ると、男は相変わらずカウンターの奥でジョッキを磨いていた。リラは彼に林檎を見せ、笑顔で言った。


 「おじさま、この林檎、泉のそばで実っていました! これを使って、もう一度、林檎酒を造ることはできませんか?」


 男は林檎を見て、目を見開いた。そして、寂しげな顔に、わずかな光が宿るのが見えた。


 「……確かに、この林檎は昔と同じだ。だが、肝心の泉の水がなければ……」


 「泉の水はなくても、この村には清らかな地下水があるはずです。そして、何より、この林檎には、まだ『歌声』が宿っている。きっと、造れます! おじさま、どうか、その方法を教えていただけませんか?」


 リラは熱心に懇願した。彼女の情熱に、男はついに折れた。


 「……わかった。昔のやり方を、教えてやる。だが、上手くいくかどうかは、わからんぞ」


 男は立ち上がると、店の奥から古びた木製の樽と、埃をかぶった圧搾機を取り出してきた。  

 そして、リラに昔の林檎酒の製法を教え始めた。林檎を丁寧に洗い、傷んだ部分を取り除き、一つ一つ手で圧搾機にかける。


 甘く香り高い果汁が、じわりと滲み出てくる。その果汁を樽に入れ、村の地下水を加え、特定の酵母を混ぜる。

 男は、かつて村の先人たちが林檎酒を造る際に歌ったという、古の歌を口ずさみながら、作業を進めた。


 リラもその歌を覚え、一緒に口ずさんだ。

 何日かの時が流れた。酒場の一角に置かれた樽からは、時折、微かに発酵する林檎の香りが漂ってくる。


 そして、ついにその日が来た。男が樽の栓を抜き、琥珀色の液体をジョッキに注ぐ。リ

ラは興奮を抑えきれず、ジョッキを両手で受け取った。

 黄金色に輝く林檎酒は、グラスの縁で泡が微かに弾けている。リラは目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。


 「……ああ、この香り!」


 清涼感のある林檎の香りに、微かな蜂蜜のような甘さと、そして土のような、深みのあるアロマが混じり合っている。

 まるで、森の息吹が凝縮されたようだ。


 リラはゆっくりと一口、林檎酒を口に含んだ。ひんやりとした液体が舌に触れた瞬間、まず広がるのは、泉の林檎が持つあの複雑な甘酸っぱさだ。

 だが、それだけではない。口の中で温められるにつれて、奥からゆっくりと、熟成された果実の深みと、微かな酵母の香りが広がっていく。


 それは、単なる甘いお酒ではない。村の歴史、枯れた泉への郷愁、そして再び命を吹き込まれた林檎の力強さが、まるで液体となって凝縮されているかのようだ。


 「……!」


 彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、あまりにも美味しくて、そしてあまりにも、郷愁を誘う味だったからだ。

 昔、村の人々がこの林檎酒を囲んで歌い、笑い合った光景が、まるで目の前に浮かんでくるようだ。


 「おじさま……美味しいです。本当に、美味しい……! これは、まさに『歌声の泉の林檎酒』です!」


 リラは震える声で言った。男は、静かにその様子を見ていたが、その目には、確かに温かい光が宿っていた。

 彼はそっと、自分もジョッキを手に取り、一口林檎酒を飲んだ。彼の目にも、薄っすらと涙が浮かんでいる。


 「……ああ。そうだ。この味だ。忘れかけていた……この味だ……!」


 男は、ゆっくりと顔を上げ、リラに優しい笑顔を向けた。


 「吟遊詩人さん……あんたのおかげだ。本当に、ありがとう」


 「いいえ! 私こそ、こんな素晴らしい物語と、味に出会わせていただいて、感謝いたします!」


 リラはリュートを手に取り、この林檎酒と、枯れた泉が再び「歌声」を取り戻した物語を歌い始めた。

 彼女の歌声は、小さな酒場に響き渡り、やがて村の外へと広がっていった。


 翌日、村の人々は酒場に集まり、何十年かぶりに造られた「歌声の泉の林檎酒」を口にし、その味に驚き、そして懐かしんだ。

 村には、再び笑顔と活気が戻り、リラは、その様子を温かく見守っていた。


 リラは数日後、この村を後にした。彼女の筆記用具入れには、新しく書き加えられた「歌声の泉の林檎酒」の詩と、その製法の簡単なメモ。


 


 そして、リュートの音色は、村の林檎酒の物語を携えて、次の土地へと響いていくのだった。


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