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第四話 苔むす森の甘い囁き


 しとしとと雨が降る森の中、ピップ・グリーンマントルはひときわ目を輝かせていた。

 今日の獲物は、いつも以上に彼をわくわくさせている。


 彼の小さな手には、湿った土の匂いを纏った古びた地図が握られていた。

 それは、この森の奥深く、滅多に人が足を踏み入れない場所に、この時期にしか姿を現さないという伝説のキノコ「月の蜜茸」の群生地を示すものだ。


 「ここかな? うーん、この辺りのはずなんだけどなあ」


 ピップは背丈よりも高く伸びたシダの葉をかき分け、あたりを慎重に見回す。

 緑色のマントは雨露に濡れて、さらに深い色合いを帯びていた。彼の小さな身体は、湿った森の地面を音もなく進んでいく。


 耳を澄ませば、雨粒が葉を打つ音、遠くで鳥が鳴く声、そして土の中で蠢く小さな生命たちの囁きが聞こえてくるようだった。


 どれくらい歩いただろうか。森の木々が一段と密集し、太陽の光も届かなくなった薄暗い場所に出た。

 足元は苔で覆われ、柔らかな絨毯のようだ。


 その時、彼の鼻腔をかすかに甘く、そしてどこか土っぽい香りがくすぐった。


 「あった!」


 思わず声が漏れた。視線の先、朽ちかけた倒木の上に、淡い月の光を宿したかのような、乳白色のキノコの群れが姿を現していた。

 それが、「月の蜜茸」だ。一つ一つが手のひらほどの大きさで、傘の裏からは琥珀色の蜜が微かに滲み出ている。


 「ごめんね、ちょっとだけ頂くよ」


 ピップはそっと話しかけるように、最も美味しそうなものをいくつか丁寧に摘み取った。

 彼の小さな籠はあっという間に「月の蜜茸」でいっぱいになった。


 満足そうに微笑むと、彼は踵を返し、森の出口へと向かい始めた。

 森を出たピップは、近くの小さな村へと足を向けた。


 雨はすっかり上がり、空には虹が架かっていた。村の中央には、数軒の店が軒を連ね、ひときわ目を引くのは素朴な石造りのパン屋だ。

 店の前には焼きたてのパンの香りが漂い、ピップの胃袋を刺激した。


 「こんにちは!何かお探しですか?」


 店の戸をくぐると、ふくよかな顔立ちの女店主が温かい笑顔で迎えてくれた。

 カウンターには、こんがりと焼き色のついたライ麦パンや、ベリーが練り込まれた菓子パンが並んでいる。


 「あのね、これと交換で、何か美味しいもの、ある?」


 ピップははにかみながら、大切そうに抱えていた籠を差し出した。

 「月の蜜茸」を見た女店主の顔が、驚きに大きく見開かれた。


 「あら、これは!月の蜜茸じゃないですか!一体どこで手に入れたんですか?」


 「森の奥だよ。少しだけ、分けてもらったんだ」


 「まあ、素晴らしい!これは滅多にお目にかかれない貴重品ですよ。ええ、もちろん!これでしたら、とびきりのものをご用意できます」


 女店主は目を輝かせ、店の奥へと消えていった。ピップはカウンターにちょこんと座り、焼き立てのパンの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


 しばらくして、女店主がとっておきの品を抱えて戻ってきた。それは、小さな木製の皿に乗せられた、手のひらサイズのタルトだった。

 タルト生地は黄金色に輝き、その上にはキャラメル色のクリームがたっぷりと盛られている。


 そして、クリームの上には、薄くスライスされた「月の蜜茸」が美しく並べられていた。

 蜜茸は熱を通すことで、より一層琥珀色の輝きを増し、まるで宝石のようだった。


 「これは特別に、この村で採れた蜂蜜と、隠し味に森の香草を使ったタルトです。月の蜜茸は、火を通すと甘みが増して、香りがぐっと引き立つんですよ」


 女店主の説明に、ピップの目はきらきらと輝いた。彼は小さなスプーンを手に取ると、ゆっくりとタルトの一切れを口に運んだ。


 サクッとしたタルト生地の香ばしさ、とろけるように滑らかなキャラメルクリームの甘さ。  

 そしてその後に、口いっぱいに広がる「月の蜜茸」の繊細で奥深い甘みが追いかけてくる。


 それは、森の湿った土の香り、雨上がりの草木の匂い、そして微かに月の光を感じさせるような、複雑でいて優しい風味だった。


 「うん……美味しい!甘い……森の味だ!」


 ピップは目を閉じて、その味を全身で味わった。クリームと蜜茸の組み合わせは、まるで森の木々と大地が溶け合うかのように完璧だった。


 一口食べるごとに、森の中で感じた生命の躍動、静寂の中で見つけた蜜茸の神秘が、鮮やかに蘇るようだった。

 彼の心は、純粋な喜びで満たされていく。


 女店主はピップの様子を見て、満足そうに微笑んだ。


 「気に入っていただけて、嬉しいです」


 タルトを食べ終えたピップは、名残惜しそうに空になった皿を眺めた。

 彼の小さな心は、美味しいものに出会えた喜びと、それを分かち合えた温かさで満たされていた。彼は女店主に深々と頭を下げた。


 「ありがとう!とっても美味しかった!最高の森の味だったよ!」


 「またいつでもいらっしゃい。あなたのような方が、この森の恵みを本当に理解してくださる」


 ピップはパン屋を後にし、夕焼けに染まる道を歩き始めた。

 彼の小さな手帳には、今日の「月の蜜茸のタルト」のことが丁寧に書き加えられていた。


 甘い蜜茸と、キャラメルクリームの組み合わせ。そして、その中に感じた森の奥深い生命力。

 彼の心には、また一つ、忘れられない「食の記憶」が刻まれた。

 明日は、どんな美味しいものに出会えるだろうか。




 ピップの冒険は、これからも続く。


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