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第三十一話 古城の地下室と香る過去


 風が枯れた草を揺らし、遠くの山々には雪が薄く積もり始めていた。

 ジラ「スパイスの織り手」は、荷役動物の足音を響かせながら、古びた地図を広げていた。


 彼女の目的は、この辺境の地にひっそりと佇むという、かつて栄えた貴族の居城、「忘れられた香りの城」。


 そこには、忘れ去られた秘伝のスパイスや、珍しい保存食の知識が眠っているという噂があった。彼女のローブが風になびき、どこか遠い異国の香りが微かに漂う。


 「ふむ、この道の先か…」


 ジラは呟き、地図に目を凝らす。

 指で辿る先には、かすれた文字で「危険、立ち入り禁止」と書かれているが、彼女の好奇心を止めるものは何もなかった。

 

 彼女にとって、未知の風味は常に最高の獲物なのだ。


 一方、その日の午後、ドワーフの考古学者ドルトン・ストーンヒースもまた、同じ古城を目指して歩を進めていた。

 彼の頑丈なブーツが土を踏みしめる度に、枯葉がカサカサと音を立てる。


 背負った革のバックパックには、掘削道具と、彼の宝物である使い込まれたスケッチブックがぎっしり詰まっていた。

 彼はこの城の地下に、古代の食料貯蔵庫の痕跡があるという文献を読み解いたばかりだった。


 「この文献が正しければ、この城は単なる廃墟ではない。当時の食生活を解き明かす、重要な手がかりが眠っているはずだ」


 ドルトンは分厚い眼鏡の奥の目を輝かせながら、独りごちた。

 彼の髭には、すでに今日一日で付いたであろう土埃が少しついていた。


 古城の周囲は、手入れがされておらず、つる植物が石壁を這い上がり、窓は黒い穴のようだった。


 夕暮れが近づき、不気味な影が長く伸び始める。ジラは城の入り口を見つけ、慎重に足を踏み入れた。

 内部はひんやりとし、湿った土と古い石の匂いがした。


 彼女はすぐに、自分の嗅覚がいつもとは違う、どこか甘く、そして同時にピリッとした奇妙な香りを捉えていることに気づいた。


 「これは…何か特別なものがある」


 ジラは目を閉じ、香りの源を探るかのように鼻をひくつかせた。


 同じ頃、ドルトンもまた城内へと足を踏み入れていた。

 彼は壁の構造や床の模様から、この城の歴史を読み解こうとしていた。


 彼の視線が、崩れた壁の向こうに続く、暗い通路に留まった。


 「ふむ、地下へと続く階段か。文献にも記されていた…」


 二人は、それぞれの目的を胸に、城の奥深くへと進んでいった。


 地下へと続く螺旋階段は、ひどく暗く、湿っていた。ジラは慎重に足元を照らしながら降りていった。

 やがて、彼女の前に広がる空間は、ひんやりとした空気が淀み、独特の土の香りに、先ほど感じた甘く、そしてピリッとした香りが混ざり合っていた。


 そこは、かつての食料貯蔵庫らしき場所だった。朽ちた木製の棚が並び、いくつかの陶器の壺が転がっていた。


 「ここか…」


 ジラはあたりを見回し、嗅覚を研ぎ澄ませた。


 「この香り…何かのスパイス、それも非常に古いものだ。」


 彼女は持参した天秤を取り出し、周囲の空気に漂う微粒子を測るかのように腕を伸ばした。  

 その瞬間、彼女の背後から声がした。


 「失礼。君もまた、この場所の秘密を求めてここへ来たのか?」


 ジラは素早く振り返った。そこに立っていたのは、長く編み込まれた髭を持つ頑丈なドワーフだった。


 ドルトンは、手に持った古びたランタンの光で、ジラの姿を照らしていた。


 「あなたこそ、何者だ?この香り…」


 ジラは警戒しながらも、彼の視線が自分の持っている天秤ではなく、彼女の嗅覚が感じ取っているであろう何かに向いていることに気づいた。


 ドルトンはジラの問いに答えず、あたりを見回した。彼の目は、崩れた棚や散乱した陶器の破片に留まり、何かを読み取ろうとしているかのようだった。


 「この土、この湿度、そしてこの…微かな香り。間違いない。ここはかつての貯蔵庫だ。そして、この香りは…」


 ドルトンは鼻をひくつかせた。


 「フェンネルと、少し焦げ付いた蜂蜜、そして、何かの肉を燻製にしたような…これは驚きだ!」


 ジラは目を見開いた。彼女が捉えきれなかった香りの詳細を、このドワーフは正確に言い当てたのだ。


 「あなた、その香りがわかるのか?」


 ドルトンは眼鏡を少し上げ、ジラを見た。


 「もちろんだ。私はドルトン・ストーンヒース。古代の食文化を研究する考古学者だ。この城の地下には、特別な貯蔵庫があるという文献を追っていた。そこに、当時の貴族が好んだ『黄金の蜂蜜漬け猪肉』が保存されていた記録が残っている。その香りが、今もこの空間に微かに残っているのだ」


 ジラは彼に興味を抱いた。自分の嗅覚だけでは辿り着けない情報を持つ相手。彼女の顔に、わずかながら好奇の光が宿る。


 「ジラだ。スパイスを扱う商人。私もまた、珍しい風味を求めて旅をしている。この城に、未知のスパイスが眠っているという噂を聞いた」


 二人は互いの目的を理解し、一瞬の警戒心が解けた。ドルトンはすぐに、スケッチブックを取り出し、ペンを走らせ始めた。


 「もし君の嗅覚が、私が見つけられないものを捉えているのなら、ぜひ教えてほしい。この場所は、想像以上に豊かな発見をもたらしてくれるかもしれない」


 ジラは微笑んだ。彼女の謎めいた雰囲気の中に、わずかながら親しみが生まれていた。


 「ええ、喜んで。ただし…もし何か珍しいものが見つかったら、それを分析する手伝いをしてほしい」


 「承知した!」


 ドルトンは嬉しそうに頷いた。




 二人は協力して、地下貯蔵庫の探索を始めた。ドルトンは崩れた壁の向こうに、さらに奥へと続く通路を見つけた。

 そこには、湿気で朽ちかけた木箱がいくつも積まれていた。


 「この木箱…何か入っていたようだ」


 ドルトンは、蓋をこじ開けようと試みるが、長年の湿気で固く閉ざされている。

 ジラはそっと木箱に近づき、鼻を近づけた。


 彼女の鋭い嗅覚が、かすかな香りの層を嗅ぎ分ける。


 「待って。この箱、奥から、もっと強い香りがする…シナモン、クローブ、そして…少し柑橘系の香りが混ざっている。これは珍しい香辛料だ。もしかしたら、この地の気候では育たない、遠い異国のものかもしれない」


 ドルトンは驚いたように目を見開いた。


 「シナモンとクローブ…まさか。当時のこの地域では、それらは非常に貴重なものだったはず。しかも柑橘系が混じっているとは。これは、私が調べていた『黄金の蜂蜜漬け猪肉』に使われた香辛料かもしれない! 当時の貴族は、遠方の国から珍しい香辛料を取り寄せていたという記録もある」


 ドルトンはさらに熱心に、木箱の構造を調べ始めた。


 「これだ!この側面に彫られた紋様…この貴族家の紋章に間違いない。この箱は、特別な貯蔵方法が施されていたようだ。湿気を防ぐための工夫が凝らされている」


 彼は巧みに掘削道具を使い、木箱の蓋を慎重に開けていった。中には、固く封をされた小さな革袋がいくつも並べられていた。

 ジラは一つ手に取り、ゆっくりと封を解いた。中から、乾燥したハーブのようなものと、小さな粒状のものが現れた。


 「これは…乾燥させた『太陽の実』の皮と、『輝く胡椒』だわ!」


 ジラは興奮したように呟いた。


 「『太陽の実』は、南方の熱い砂漠でしか採れない。柑橘系の香りと甘酸っぱさがある。そして『輝く胡椒』は、一般的な胡椒よりも香りが強く、ピリッとした辛味の後に独特の甘みが広がる。これは非常に希少なものだ!」


 ドルトンは興奮を隠せない様子で、スケッチブックにそれらの図を描き、詳細なメモを書き込んでいった。


 「素晴らしい!これは歴史的な発見だ。当時の貴族がいかに贅沢な食生活を送っていたか、そして、どれほど遠大な交易路を持っていたかがわかる。ありがとう、ジラ」




 発見を終え、二人は地下貯蔵庫の入り口近くにある、比較的状態の良い石のテーブルと椅子を見つけた。

 ドルトンは持参した携帯用の水筒から水を注ぎ、簡素なパンと干し肉を取り出した。


 「もしよければ、これで腹を満たさないか? 今日の発見は、それだけの価値があった。」


 ジラは頷いた。彼女は、自分のポーチから小さな袋を取り出した。

 中には、乾燥させた肉やチーズ、そして彼女が旅の途中で集めた様々なスパイスが入っていた。


 「私も少しばかり、あなたにふさわしいものをお出ししましょう」


 ジラは持っていた小さな天秤で、ごく少量の「輝く胡椒」と「太陽の実」の乾燥皮を取り出し、パンと干し肉に軽く振りかけた。

 そして、彼女の指先で、あるスパイスを一つまみ、ドルトンの干し肉に添えた。

「これは『星屑の結晶』。口に入れると、微かに甘く、そして花のような香りが広がる。干し肉の塩気と、良い対比になるはずだ。」


 ドルトンは半信半疑ながらも、言われるがままに一口食べた。すると、彼の顔に驚きの表情が広がった。


 「これは…! 干し肉の塩気がまろやかになり、後から花の香りが広がる。そして、奥から微かな甘みが…信じられない! これはまるで、この硬いパンと干し肉が、かつての貴族の宴の料理になったかのようだ!」


 ジラは静かに微笑んだ。彼女にとって、スパイスは単なる調味料ではない。

 それは、過去の物語を語り、未来の味を創造する魔法なのだ。


 「この『星屑の結晶』は、ごく限られた地域でしか採れないの。特に香りが良いものは、さらに希少よ。でも、あなたにはこの発見のお礼をしたいから」


 ドルトンは深く頷いた。


 「ジラ、君の嗅覚と知識は、私の考古学研究に新たな光を当ててくれた。この『輝く胡椒』と『太陽の実』の発見は、食文化の歴史を大きく書き換えるかもしれない」


 二人は、古城の地下で、簡素な食事を分かち合った。しかし、それは決して簡素な食事ではなかった。

 そこには、古代の香りが蘇り、遥か遠い異国の風が吹き、そして、異なる知識を持つ二人の探求者の友情が芽生えていた。


 「またいつか、どこかの遺跡で、共に食の歴史を紐解く機会があることを願う」


 ドルトンは言い、パンをかじった。


 ジラは彼の言葉に静かに頷き、自身のコレクションから取り出した、さらに珍しいスパイスの小瓶をそっとテーブルに置いた。


 「ええ。この世界には、まだまだ私たちが知らない香りが、たくさん眠っているはずだわ。」


 地下室の薄暗い光の中、二人の美食探求者の瞳は、新たな食の冒険への期待に輝いていた。 




 彼らの出会いは、それぞれの探求の旅に、新たな風味と、予期せぬ喜びをもたらすことだろう。


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